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第40話
シンカンの森での襲撃から十日ほどが経過していた。
ジュセルが引き受けた依頼は取り消されたが、事情が事情であることやジュセルのサラグアの提供などを考慮して、ヤーレは未達成の記録がつかないように手配をしてやった。「いくら何でも請負人 の仕事一件目から未達成がつくのは気の毒だからな」ということらしい。
無論、違約金は発生したがそれは仕方がない、としてジュセルは規定通りの金額を支払った。
あれから出かけたのは、請負人協会 の本部だけだ。それ以外は買い物もケイレンやアニスに頼むか、屋敷までの配達を頼むかしていた。一度、肉加工業のオスラもまたやってきたが、アニスと知り合いだったようで何やら話し合うと難しい顔をしたまま帰っていった。
ジュセルは家事以外することもないので、屋敷中を掃除しまくっていた。アニスの手も借りながらだが、壊れている物は修理をしたり買い足したりして各部屋を整えていった。荒れ放題だった部屋は、いつ誰が来てもいいくらいの清潔さになっていった。
大きな部屋に取り付けられている綺麗なガラス窓を磨くのも、いい気晴らしになった。質のいいガラスは磨けば磨くほど輝きを増す。曇りなく磨き上げられると、部屋の中に射し込む光までが一段階明るくなったような気がする。
あれからケイレンの態度が少し変わった。
ジュセルが頼んだように、どこそこ構わず愛を表明するようなことが減った。いつも笑顔で熱い視線では見つめてはくれるが、言葉には出さない。ジュセルに触れるのも就寝前だけで、それもジュセルに断ってからそっと抱きしめるか軽く額に口づけてくるかだ。
身体が触れ合う時間が減った分、日に一度のその触れ合いは前よりも一層ジュセルの心を揺り動かした。寝る前に廊下で、ゆっくりとケイレンが自分の方に手を伸ばしてくるのを見ただけで胸の鼓動が速くなる。
それなのに、自分から手を回す勇気も唇を寄せる勇気も出ない。
ケイレンの示してくれる愛情が、もし自分の思うものと違っていたら?
自分が思うほどにケイレンの気持ちが固まっていなかったら?
‥‥そもそも気の迷いだったと、ケイレンが気づいてしまったら?
毎日そんなことしか頭に浮かばない自分が、途轍もなくジュセルは嫌だった。
これでは、何もかもを諦めてしまっていた前世と何も変わらないではないか。
せっかく、前世の記憶を持って生まれてきたのに、それを生かせないのなら意味がない。
自分にそう言い聞かせて眠りにつくのだが、翌朝になってケイレンの美しい顔を見るとまた気持ちがくじけてしまう。
その繰り返しだった。
ケイレンの持つスペックの高さもジュセルを落ち込ませる原因の一つだった。熟練のアニスと並んでいてさえ、ケイレンの行動は無駄がなく引けを取っていない。請負人 として優秀なことは言わずもがな、加えて恵まれた体格と高能力 、そしてなんといっても恐ろしいほどに整ったその顔立ち。
毎日顔を合わせているはずなのに一向に慣れない。見るたびに胸が高鳴って落ち着かない気分になる。
(まるっきり、恋する乙女じゃん‥)
冷静に自分のことを顧みればそうとしか思えないうえ、そんな自分が気持ち悪く感じられて、ジュセルは毎日悶々としていた。
買い出しから戻ってきたアニスが厨房にいたジュセルに声をかけた。
「ジュセル、今帰ったよ。買ったもの確認してくれる?なんかまずいヤツがあれば買い直しに行くからさ」
「あ、ありがとうアニス」
アニスはもとからこの屋敷に住んでいたのか、と思えるくらい自然にジュセルとケイレンに馴染んでいた。ヤーレ曰く「どこにでもするりと馴染んじまうのがアニスの凄いところでもあるんだよな。請負人 としての評価には出しにくいんだけどさ」ということだった。確かに、このわずかな間にジュセルはすっかりアニスに懐いてしまっていた。
アニスは見た目は背の高い美女、といった感じなのだが、ジュセルの思うような「女性っぽい」部分はあまりなかった。腕っぷしもかなり強いらしく、時折ケイレンと打ち合いをしたりして鍛錬している様子を見ても、それはわかった。アニスの得意とするのは近接格闘で、木剣を手にしたケイレンと素手でやり合っているところもたまに見られた。素早く繰り出されるケイレンの木剣をしなやかに取りさばき、その隙間から拳や蹴りを叩きこむアニスの姿は、まるで何かの舞を舞っているかのように優美だった。
ジュセルも少しアニスに近接格闘を教えてもらったが、なかなかアニスのように滑らかに身体は動かない。それでも、アニスに教わった不審な人物に捉えられた時身体をどう動かせばいいか、という知識は非常に有益だった。
無論、アニスとジュセルがそうやって身体を組み合わせている間、ケイレンは血が出そうなくらいに唇を噛みしめ拳を握り間に割って入りたいのを我慢していたのだが、鍛錬に夢中になっているジュセルがそれに気づくことはなかった。
アニスが厨房の作業台の上に色々と飼ってきたものを広げていく。その中に二つの木筒 があった。それを見てジュセルは何の気なしにアニスに尋ねた。
「アニス、これは?」
「ああ、ラッカ水だよ。何か急ぎでもう店じまいするから二つで一つの値でいいって言われて買ったんだ。ジュセル好きかい?」
「あ、うん‥」
ここに着いた日、ケイレンが店で飲ませてくれたもの、そして翌日また屋台で買ってきてくれたものだった。わずか十五日足らず前のことなのに、ずいぶん昔のことのように感じる。木筒 の栓をキュッと外すと中から甘いラッカの香りがした。
「‥好き、だよ、ラッカ水」
「そんならよかった、ジュセルは酒を飲まないだろ?たまにはこういう飲み物があってもいいかと思ってね」
アニスはそう言いながら次々に他の品物を広げていく。その横でジュセルは木筒 を握ったまま立ちすくんでいた。ラッカ水の香りは、あの日のケイレンを思い出させる。思わずぼんやりとあの日のことに思いをはせそうになり、慌てて木筒 の栓を閉めた。
「‥そう言えばアニスは自分の家に帰らなくても大丈夫なのか?」
唐突なジュセルの質問にもアニスは丁寧に答えた。
「ああ、私は決まった家を持っていないのさ。定宿はあるけどね。荷物も大して多くはないし身軽なもんだよ」
「‥そんなに移動が多いの‥?」
ジュセルが気づかわしげにそう言うと、アニスはその頭をくしゃっとかきまぜた。
「私は隊商会移動の護衛っていう仕事が一番多くてね。旅に出ている方がイェライシェンにいる時よりも多いんだ。滅多にないけど、海を渡って別の島や大陸に行くときもあるからね‥家を持っていると、かえってやりづらいのさ」
「あの‥」
ジュセルはずっと心に引っかかっていたことを、今日は訊いてみよう、とごくりと喉を鳴らした。
「アニスは、一緒に暮らしてる人とか‥伴侶にしたい人って、いないの‥?あの、俺がこんなこと聞いていいかわかんないんだけど」
言葉に出してしまってからあたふたしているジュセルを見て、ふふっと笑いながらアニスは言った。
「まあ、今はいないかなあ‥たまに夜一緒に寝るやつくらいはいるけど‥伴侶を持つかどうかもわからないな」
アニスはそう言って腰掛けを引き出して座った。つられてジュセルも向かいの椅子に座る。それを見て、アニスは話し始めた。
「荒事を引き受ける請負人 は、出張仕事がどうしても多くなるからね。伴侶を持たないやつが多いんだ。‥黒剣は退異師もやってるからあまり国外に出ることはないみたいだけどね」
退異師は、異生物の討伐のためには必須の人材であるため、どこの国でもその出国には厳しい条件が課されると聞いたことがある。唯一、この大陸内で自由に退異師が動けるのは、六十年に一度の隣国カルカロア王尾国の『国王選抜』の時だけらしい。
「選抜の時には、どの領主もこぞって退異師を雇い入れたがるからね。まあ当分はないけど‥四十年前は、この国からも何人かカルカロアへ渡っていったようだったよ」
「そう、なんだ‥」
つまり、ケイレンはこの国から出ることはあまりないのだと考えられる。ということは伴侶を持てる可能性があるということだ。
そこまで考えたとき、目の前に迫ってきていたアニスの顔に気づいて驚いた。アニスはにやにやと笑ってジュセルの顔を眺めている。
「安心したかい?黒剣は、国をまたいでの仕事は当分ないと思うよ。‥いずれにせよジュセルを守るために傍を離れないとは思うけどね」
アニスは、ばちん、と音がしそうなほどに片目をつぶってみせた。ジュセルは自分の顔がカーッと赤くなるのを感じた。そんなに、色々顔に出てしまっていただろうか。
焦った様子のジュセルを見て、アニスは思わず吹き出した。
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