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第48話
アニスは心中に浮かんだケイレンへの罵詈雑言をぐぐっと押し込めつつ、台に置かれている固く握られたジュセルの手を撫でた。
「‥まあ、今はまだ裏請負会 の件とか片付いてないから‥むやみに応えられないと思ったんじゃないかなあ。‥もともとあいつは、人との付き合い方に難のあるやつだからね‥ジュセルが気に病むことはないよ」
ジュセルは黙って俯いたままだった。アニスは作業台の上に並べられた野菜を見ながら言った。
「なあ、お昼ご飯に間に合いそうなら、マトムソースのコモ麺 食べたいな!あの、ソースを別にしてからめて食べるやつ、うまかったから!」
明るくそう希望を言ってくるアニスの心遣いがわかって、ジュセルは両手でごしごしと顔を拭った。そして笑顔を作ってアニスに言った。
「なんか、いつもアニスに慰めてもらってばっかりだなあ」
「そうか?私はあまり気の利いたことは言えないんだけどな‥まあ、黒剣よりはましだと思ってるけど!」
あっははと声を上げて笑うアニスを見て、ジュセルからも思わずくすりと本当の笑いが零れた。それを見ながら、アニスがコモの入った袋を手に取った。
「挽いたコモ、ないんだろ?私がコモを挽くよ。どのくらいいる?」
そう言われて、ジュセルは棚から挽き臼を下ろしながら薄く笑った。
「アニスよく食べるからなあ」
「身体が基本だからね、私たちの仕事は」
にっと笑いながら挽き臼にコモを入れているアニスに、ジュセルは心の中でそっと頭を下げた。
この家に、アニスがいてくれてよかった、と心から思った。ケイレンと二人きりだったら、いてもたってもいられなかったかもしれない。
ジュセルは野菜を入れた籠を流しにおいて洗い始めた。
族都イェライシェンにある請負人協会 の建物の中には、軽く食事ができたり酒が飲めたりする酒場がある。ケイレンはそこで昼間から蒸留酒を水のように飲んでいた。
ケイレンは酒に酔ったことがない。うまい、とは感じるが、それで酩酊したことがないのだ。ただそれは、これまで無茶な飲み方をしたことがない、からでもあった。
しかし、今日のケイレンは、大人であれば三杯も飲めば足元がおぼつかなくなる蒸留酒を、もう十杯は飲み干している。酒場にケイレンがいれば何くれとなく近づいて、ケイレンと親しくなろうとする輩が必ずいるのだが、今日のケイレンはヒトを寄せ付けない恐ろしくも鋭い雰囲気を通常の三倍増しで漂わせていた。だから、誰一人近づいてこない。
常にはないケイレンの様子に、心配した酒場の店員がヤーレを呼びに行った。
たまたま役員室にいたヤーレは、顔を顰めながら酒場の方にやって来た。真顔で杯を持っているケイレンの横にどっかり据わると、その手から杯を取り上げた。
ケイレンはじろりとヤーレを睨んだ。
「‥‥‥何すんだ」
「お前こそ何してんだ昼間っから。‥こんなとこで酒かっ食らってる場合か?ジュセルはどうした?」
ケイレンに目で促された店員が恐る恐る目の前に置いた杯を、ぐいっと一気に飲み干してケイレンは答えた。
「明日の夜までは心配ない」
ヤーレはきゅっと片眉をあげ、不審そうにケイレンを見た。
「そりゃどういうことだ?‥説明しろ」
本音を言えば、ケイレンは今誰とも一言も話したくはなかった。しかし、さすがにこの件に関してヤーレにだんまりを決め込むわけにもいかない。仕方なく簡潔に昨夜のグーラとのやり取りを説明した。
ケイレンの説明を受けたヤーレは、渋面を作った。先ほどケイレンから取り上げたグラスを自分が飲み干す。
「‥一難去ってまた一難、ってやつだな。今の裏請負会 の副頭と言えばヨキナだ。‥あいつがひとり子を溺愛してる話は有名だ。‥それを殺っちまったのか」
「他にやりようがなかった」
短く、不機嫌にそう返すケイレンを、ヤーレは呆れたように眺めた。
「‥‥まあ、お前がそう言うんならそうだったんだろうけどな‥で?お前の不機嫌の理由はそれじゃないだろ?どした?」
「‥言いたくない」
つっけんどんにそう返して、また店員に酒を頼もうとしたケイレンの腕を上から押さえ、ヤーレは店員に向かって首を横に振った。店員はそれを見て、却ってホッとした顔を見せるとカウンターの奥に引っ込んだ。
それを目の端で確認して、ケイレンは舌打ちをした。‥こんな、胸の内に逆巻く嵐を飼っているようなときに、どうやってその荒ぶる気持ちを解消すればいいのか。
酒を飲む以外の方法を。ケイレンはまだ知らなかった。
ヤーレは空になったグラスをぶらぶらと指先で弄びながらケイレンの顔をじいっと眺めた。ケイレンは不機嫌さを隠しもせずにふいっと顔を背ける。それを見て、ヤーレはくくっと喉奥で笑った。
「俺が引き取ったときに戻ったみたいだな。お前はいつもそうやって不機嫌そうな顔をして、誰にも心を開かなかった」
ヤーレは店員に合図をして、飲み物を持ってこさせた。酒ではなく、柑橘水 だ。むっつりと黙っているケイレンの前にもついっとそのグラスを滑らせて置いた。そして自分もこくりとそれを飲む。
ケイレンは少し苛ついたような様子を見せつつも、黙って柑橘水 を飲んだ。やや火照っていた身体の中を、冷たく、爽やかな果実の香りが抜けていく。
その爽やかさはふとジュセルのことを想起させ、またケイレンは苦々しげな表情を作った。
ヤーレは半分ほどもグラスを開けてから言った。
「ジュセルとなんかあったのか」
ケイレンは黙ってまた少し柑橘水 を口に含んだ。鼻を爽やかな柑橘の香りが抜けていく。
抱きしめたときに似たような爽やかさを纏っているジュセル。
明るく、裏のない笑顔を見せるジュセル。
そして、それをなくさせてしまった自分。
ケイレンはぎり、と左手を握りしめた。
すき、と言って縋りついてきたジュセルを抱きしめたかった。めちゃくちゃに抱きしめて口づけてその身体を貪りたかった。
「‥‥俺のせいで、ジュセルは‥命を狙われる羽目になったんだ。俺がいなければ‥あの時、俺がジュセルに好きだと言いさえしなければ」
「あーそんなことで悩んでんのか」
ヤーレはあっけらかんとした調子で言った。大したことでもないようなその言いぶりに、ケイレンはむっとして鋭くヤーレを睨んだ。
ヤーレはニヤッとした顔を作った。
「共金貨二十枚。準備するように言ったのは、ジュセルのためか。‥確かに裏請負会 の未達成違約金も半値だと聞いたことがある」
「‥俺がいるせいで起こったことだから、俺が払うのが当然だ」
ヤーレはバンバンと雑にケイレンの背中を叩いた。
「別にそのことについてどうこう言いたいわけじゃねえ。お前がどうでもいいことでへこんでんのがおかしいだけだ」
今度こそケイレンはガタンと椅子を蹴って荒々しく立ち上がった。到底聞き逃せない一言だった。どうでもいいとはどういうことだ。
「ジュセルの命を守ることが、どうでもいいことなのか」
「ちげえよ、莫迦」
ヤーレは残りの柑橘水 を一気に飲み干して、グラスをかたんとカウンターに置いた。
「ヒトはな。どこでどういう業を背負うのかなんてわからねえしそれを操作することもできねえ。子果の巡りの中で、俺達は日々生きていくしかねえのさ」
「‥そんなことはわかってる」
「いいや、わかっちゃいねえな」
ヤーレは鋭くケイレンの言葉を遮った。そして真っ直ぐにケイレンの瞳を見た。
「ジュセルは確かに、今、お前のせいで命の危機にあるかもしれねえよ?だが、この先ジュセルが生きていく中で命の危険が一切ない人生を送れると思うか?」
「‥それ、は‥」
ヤーレの勢いに思わずケイレンは言いよどんだ。すかさずヤーレが言葉を続けた。
「生きていりゃあ、誰だって色々なことが起きていく。それでなくとも、ジュセルは請負人 という道を選んだんだ。多少の覚悟はあったと思うぜ?それに‥いつ、何が起こるかわからねえのが人生ってもんだ。違うか?お前の人生は、予想した通りの穏やかなものだったか?」
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