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第50話
ライジは今年四十六歳になるキリキシャだ。
仕事は裁縫師をやっていて、十日のうち六日は職人の集まる縫製工房で仕事をしている。今日は工房での仕事の日だった。
伴侶であるベラとは、一緒になって十年になる。そろそろ子果納め金も貯まってきたし、来年あたり子果を授かるために子果清殿を訪れようかという話をしていた。
伴侶であるベラは三十六歳になるシンリキシャで、少し前まで小さな隊商会で事務の仕事をしていたのだが、そこの隊商会が事務所をたたむことになって仕事を変わったばかりだった。小柄なベラは病気になることも多く、子果を授かってもうまく胎に実らせることができないのでは、と心配していた。ライジは自分が産んでもいい、と言い張ったが、ベラは「私があなたに挿れるなんてこと想像できないし、できる気もしないわ」と言って笑顔とともに断っていた。
ようやく、ここ最近になってベラの体調も整ってきたので、子どもの話が出るようになったところだった。ベラの新しい勤務先はやや大きな隊商会の事務や雑用ということだったが、ベラ本人も
「今一つ何を扱っている隊商会なのか、よくわからないのよねえ‥まだ検算とかお客様へのお茶出しくらいしかしてないからかなあ」
と首をかしげていた。
明日はベラもライジも仕事が休みだ。久しぶりに足をのばして森にでも散歩に行こうかな、などと考えながらライジは家の扉に鍵を差し込んだ。
開いている。
ライジは首を傾げた。ベラは今日、夕方まで勤務のはずだ。自分の方が絶対に早く帰るだろうと思っていたのに。
「ベラ?帰ってるのか?」
ライジは扉を開けて、そう呼びかけながら家の中に入った。中は薄暗いままだった。
「ベラ?」
二歩、歩み出したところでライジの足が止まった。床に何かが転がっている。
ライジは、背中に冷たい汗がにじむのを感じた。震える手で、壁際にある照用石ランプを点けようとする。指先がガタガタと震えてなかなかうまく点けられなかった。
ようやく点いた弱い灯りに照らされて、床に転がっているものの正体が明らかになった。
「ベラ!!」
床に転がっていたのはベラだった。衣服は破けてずたずたになっている。身体中に青あざがあり、何か所かには血も滲んでいた。‥噛みつかれたような痕さえある。靴も履いていない足には無数の傷があった。
あまりと言えばあまりの恐ろしい光景に、ライジの身体はどうしようもなく震えた。膝ががくがくとして立っていられない。崩れ落ちるようにしてベラの近くにうずくまると、そのまま這うようにしてベラに近づいた。
「べ、ベラ、ベラ‥どうしたんだ?何があったんだ?」
震える腕でなんとかベラの身体を抱きしめ、抱えあげる。ベラの顔には殴られたような痕があり、頬は青黒く変色していた。半分腫れ上がっている瞼の下の金色の瞳は虚ろで何も映してはいない。かわいらしいと評判だった顔は見る影もなかった。
「べ、ベラ‥」
あまりのことに言葉を失くしているライジの耳に、かすかなベラの声が聞こえてきた。
「やめ、て、はんりょが、いる、んです‥ああ、らいじ、らいじ、なの?ああ、いや、もう、くすり、は、いや‥らいじ‥ライジ‥」
ここに至って、ライジはおのれの伴侶が、|強制性交幻覚剤《パルーリア》を使われ凌辱されたことを理解した。
二人が平和に暮らしていた家の中に、ライジの絶叫が響き渡った。
アニスにのせられて、コモ|麺《エン》を莫迦みたいに大量に作ったせいか、腕の筋肉が痛い。このところ、力仕事らしいことは何もしていないし、運動だってろくにしていない。何もなくとも必然的に歩くことが多かった生活だったのに、命を狙われるようになってろくに歩いてもいない。
そのせいかすっかり身体が鈍ってしまっている気がする。傷む腕を大きく振ってから、ぐにぐにと筋肉を揉んでみる。たいして痛みは軽減されなかった。
この生活がまだ続くのなら、いざという時戦力になれるように身体を鍛えておかなければならない。この世界に筋力トレーニングの概念はなく、そういったことに使うような道具もない。
前世のジュセルは、身体を鍛えることには全く無関心であったので、どのようにして鍛えればいいかもよくわからなかった。
(とりあえず、屋敷内の階段の昇り降りを何回かして‥あと、腕立てとか腹筋とかかな?それから‥水桶とかをウエイト代わりにして負荷をかけるか‥)
早速今日からやってみよう、と、ジュセルは日記代わりのメモをつけているノートに「筋トレ」と書き込んだ。この世界にない言葉を書く時には、自然と日本語を書いてしまう。
普段、この世界の言葉を書いているときには全く意識していないのだが、日本のことを考えながら書き物をすると勝手に日本語になってしまう時がある。何度か家族にもそれを見られ、「どこの国の言語?共通語とは違う言語だよね?」と訝しがられたことがあった。
少し大きな紙を取り出してきて、一番上に「筋トレ」と書き込み、横に今日の日付を書いた。まだ外れたままの扉の横にピンで貼り付け、忘れないようにする。さっそく階段の昇降からやってみることにした。この屋敷は天井が高いので階段もなかなかの段数がある。
屋敷には、玄関から二階に上がる階段と、厨房の方から二階に上がる階段の二か所があった。玄関の方にある階段は手すりに飾り彫刻なども施されており、広く美しいものだったが、厨房近くにある階段は幅も狭く、実用的なものだった。
ジュセルはその実用的な方の階段を使うことにした。
腿を上げることを意識しながら小走りに階段を昇り降りする。二往復しただけでもう足の筋肉がピキピキと痛み始める。
(‥マジで衰えんの早えな‥)
二往復して階段下で荒い息を整えていると、防護機工のチェックをしていたアニスが戻ってきた。水でも飲もうと厨房に来たところで、荒い呼吸をしているジュセルを見つけ声をかける。
「ジュセル、何してんだ‥息が荒いな?体調でも悪くなったのか?」
心配げな様子を隠そうともせず、傍まで飛んできたアニスにジュセルは何とか笑いかけた。
「いや、最近ろくに運動してねえから‥ちょっと鍛えようと思って階段を昇り降りしてたんだ」
アニスは目を丸くしてジュセルをじっと見つめた。‥‥用もないのに階段を昇り降りする?それで身体が鍛えられるのか?‥‥筋トレの概念がないこの世界 では、ジュセルの行動は少々奇異に映ったのだった。
アニスの顔の表情を見て、ジュセルは(あ、また常識違いのことしちまったかな‥)と少し焦ったが、結局自分の身を守るのは自分でしかない。へらへらと笑いながらジュセルは言い訳をした。
「いやあ、最近歩くことも少なくなって体力が落ちたような気がするからさ‥階段の昇り降りって結構足に来るから、それを余分にやってれば鍛えられるんじゃねえかなって‥」
あははは、とごまかすように笑っているジュセルを見て、アニスは多少不審に思う気持ちはあったが、ジュセルが元気にしているならそれが一番だ、と考えた。
「へえ、撃ち合いや行軍の他にも鍛錬になるものがあるのか‥うん、私もちょっと付き合うよジュセル」
ジュセルは、え、と思わず息をのんだ。二往復しただけでも足の筋肉が悲鳴を上げているから、今日はもう終わろうと思っていたのに。
「あの、えっと、もう今日はやめようかなって‥」
「へ?何でだい?何回昇ったんだジュセル」
「えっと、二回‥」
アニスはにかっと口角を上げて笑った。
「ジュセル、二回くらいじゃ鍛錬にならないよ!ヨシ、一緒に昇り降りしよう!私が後ろからついていくから!行こう!ほら!」
満面の笑顔を浮かべたアニスに促され、ジュセルは悲鳴を上げている足を叱咤してまた階段に臨むことになってしまった。へろへろになって速度が落ちそうになるジュセルに、アニスは「おっ、ジュセル遅くなってるぞ!ほらほら頑張って!」とか言いながらどんどん追い立ててくる。
結局、十往復したところでもう一歩も動けなくなったジュセルが、アニスに泣きを入れてやめさせてもらう羽目になった。涙を滲ませ呼吸も荒くうずくまっているジュセルを見下ろしながら、
「‥?ぜんぜん辛くないんだけどなあ‥これ、本当に鍛錬になってるのか?」
と、息も乱さずに首をかしげているアニスを見ながら、ジュセルは
(‥‥上級請負人 とは、もう、基準が違うんだ‥同じようにしてたら、死ぬ‥化け物じゃん‥)
と床にだらりと転がりながら、二度とアニスとは一緒に基礎鍛錬をしない、と心に誓った。
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