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第51話

体力が今日はもうもたないから晩御飯を作れない、とジュセルに言われてようやく、アニスは自分がやり過ぎたことを知った。階段を昇り降りしているだけでそんなに疲れるなどとは思いもよらなかったのだ。ふらふらになって自室の寝台にだらりと伸びているジュセルに、アニスは心から申し訳なく思った。 「ごめんな、ジュセルと私でそんなに体力に差があるなんて思わなくってさ‥」 「‥いいよアニス、言われれば言われるだけ俺自分が情けなくなってきちゃうからさ‥」 なんとか喋れるまでに回復してきたジュセルが、きまり悪そうに言った。‥ジュセルの中ではやはり、アニスは「女性」だという気持ちがあり(この世界に女性も男性もないと重々わかってはいるつもりなのだが)、その「女性」に圧倒的に体力が劣っていることがかなりショックではあったのだ。 (‥まあ、アニスの方がずっと上級の請負人(カッスル)なんだから当然と言えば当然なんだけどさ‥) そう自分に言い訳をしながら、ジュセルは全身の筋肉痛と戦っていた。おそらく明日になればもっとつらくなりそうだ。‥どえらい筋トレのスタートになっちゃったな、と思いながら目を閉じる。 アニスはしょんぼりしたまま、ジュセルの寝台傍に佇んでいた。そして、はっとして言った。 「ジュセル、今日はジュセルを一人にしても大丈夫だと思うから、私が晩御飯何か買ってくるよ!防護機工もあるし!」 ジュセルは目を開けてアニスを見た。後ろにぶんぶんと大きく振られている犬のしっぽが見えたような気がした。 「‥じゃ、お願いしようかな‥お金はあの、いつものとこにあるから‥」 「うん、大丈夫!‥変なやつから買わないようにとかも、十分気をつけるからな!ジュセルはなんかほしいものある?」 ジュセルは少し考えてから欲しいものを伝えた。今日はどうにもこってりしたものは食べられそうにない。野菜でだしを取った旨いスープを商っている店があるので、そこのスープを頼む。市場の少し外れにある店だが、そこまで遠いわけではないので気兼ねなく頼めた。アニスはうんうんと頷いて、元気よく出かけていった。 日はもう傾いて、少しずつ夜の闇が辺りを暗く染めつつある。この世界(トワ)はきっちりと夜と昼の時間が半分ずつで、朝焼けと夕焼けの時間が長い。そのぼんやりとした暗さを好んで出かける人も多いので、きっと今頃市場のある辺りは賑わっていることだろう。恋人たちが出歩く時間も、朝方と夕方が多いのだ。 美しく空を染めている薄紅色を窓から眺めながら、ジュセルは身体の向きを変えた。そういえば最近はゆっくり薄暮の時間を楽しむこともなかった。 実家で暮らしているときは、三日に一度ほどは家族で薄暮の時間になると、外に椅子を出してお茶を飲んだりしたものだった。そんなのんびりした生活を送っていたのはついこの間のことなのに、随分と昔のような気がしてくる。 薄桃色に染まった長い雲が、空の中を悠然とたなびいていくのをぼんやり眺めながら、ジュセルは昼前の出来事について思いを巡らせた。 ようやく、自分の気持ちが固まってケイレンに伝えられたと思ったけど。 迷惑だったみたいだ。 やっぱり、ケイレンの気持ちは俺が思っているようなものじゃなかったんだな。俺、莫迦みたいだな。しばらく好きとか言わないで、なんて頼んだりして‥ケイレンもきっと心の中では呆れてたのかもしれない。 恥ずかしいな。 じわ、とまた涙が浮かんで目尻に溜まる。拭おうと腕を持ち上げると背中の筋肉に響いてさっとは動かせない。仕方なく、涙が流れるままに任せた。すると、次々と涙があふれて零れていく。 ‥‥本当なら、自分で自分の身を守らなくちゃいけないし‥アニスを雇ってる代金だって防護機工や万能薬の代金だって俺が払うべきなのに。ケイレンは責任感が強いから、自分のせいだって言って全部の費用を払ってくれてる。 グーラに渡すお金だって‥あんなに頑なな態度を見せるってことは、恐ろしいほどに高額なんだろう。 とめどなく流れる涙のせいで、ジュセルはだんだん鼻の奥が痛くなってきた。 ‥鼻水出そう。しまらねえな、俺。 痛む身体を時間をかけて起こし、寝台脇の小机に置いてある布を取って洟を拭いた。そのまま、また窓の外を眺める。 どうすれば、大きい金額を稼げるかな。‥花街に行って身体を売ろうたって、俺みたいな貧弱な身体のやつは高く買ってもらえねえだろうし。‥何よりそんなことをしたらアミリが悲しんで死んじまうかもしれない。‥サンガやリーエンにも顔向けできないし‥。 かといって他に‥ 「あ」 ジュセルははっとした。ある。一つだけ、そこそこに高額な金を稼げそうな手段が。 「‥‥生涯奴隷」 ぽつりと呟いて、きゅっと唇を噛んだ。話に聞いたことがあるだけで、実際にジュセルがそういった身分のものを見たことがあるわけではない。 生涯奴隷とは、その名の通り奴隷契約だ。この国はもちろん、大陸のほとんどの国で人身売買は禁止されているが、自分で自分を売る場合のみは許されている。 生涯奴隷の首輪というものがあり、自分の意志でしか首に装着できない仕組みのものがある。 シンリキ誓書に、生涯奴隷の首輪とその鍵を以って奴隷契約は成る。買主が解放しない限り、奴隷契約が解除されることはなく、譲渡もできない。 どうしても大きな金額が欲しいものや、死刑や斬刑を免れたいものなどがこの首輪を買い、契約をすることが多い(犯罪者の首輪は色が違うので一目でわかる)。 去年あたりに近所の大人たちがそういった話をしているのを小耳に挟み、詳しいことを説明してほしいと言ったが、大人たちは言を左右にして教えてくれなかった。 そこでビルクに聞いたところ、ビルクは濃く太い眉毛をぎゅっと寄せて「何で知りてえんだ」と訊き返してきたものだ。 ジュセルが、「俺ももうすぐ成人だから、そういった知識も持っておくべきかと思ったんだ」と答えると、渋い顔をしながらも詳しく教えてくれた。そういう意味では、ジュセルはビルクに子ども扱いされたことはなかったように思う。いつも一人前の大人として叱り、導いてくれていた。 「花街に身体を売るのと生涯奴隷、どっちの方が高く売れるかな‥」 誰に言うともなく独り言ちたジュセルの耳に、がた、と物音が聞こえた。 ゆっくりと首を動かして扉の方を見ると、扉の枠を片手で掴んで立っているケイレンの姿があった。その顔は蒼白になっている。 (‥やば) あの感じは、今言ったことが聞こえていたに違いない。どうやってごまかせばいいか、と考えていると、よろよろとケイレンが近づいてきた。 「‥ジュセル」 ケイレンが震える声で声をかけてきた。ジュセルは返事をせずに、またゆっくりと身体を動かして寝台に横になった。そして掛け布団を頭からかぶる。 もう、めんどくさい。 説明するのも言い訳するのも面倒だ。 半ば自暴自棄になって、頭から布団をひっかぶりジュセルはぎゅっと目をつぶった。 ケイレンがすぐ傍に立っている気配がする。昼前の自分の行動をも思い出し、ジュセルはぎゅっと布団を掴んでいる手に力を込めた。 ぎしり、と寝台が軋む。ケイレンが寝台に腰かけたのだろう。この部屋の寝台は大きく、大人二人は余裕で寝れるほどの幅がある。ケイレンが腰かけてもジュセルの身体に触れるおそれは全くなかった。 「ジュセル、今の‥どういう、こと‥?」 かすれたようなケイレンの声が聞こえてくる。やはり聞こえていたのだ。‥だが、何を言ってもケイレンはジュセルの考えに賛同しないだろう。それなのに説明をしたって仕方がない。 そんな考えばかりが頭の中をぐるぐる回り、ジュセルは布団をかぶったまま沈黙していた。

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