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第74話
「知らなかった‥気をつけます」
「ん、それがいいよ」
ナジェルは小さく頷いてみせた。話が一区切りついた、とみたケイレンがおもむろに言い出した。
「あの。ところでナジェルさん、」
「ナジェルでいいよ、普通に喋ってくれて構わない。堅苦しいのは苦手なんだ」
少し眉を下げてそういうナジェルに、ケイレンはごくりと喉を鳴らした。
「‥ナジェル。一応言っておきたいんだが、ジュセルは俺の伴侶になるヒトだからあまり馴れ馴れしくしないでもらえると助かる」
言い終わっても顰めっ面を崩さないケイレンを二度見して、ナジェルはぶっと吹き出した。
「ふっ、くくっ、うんわかったよ。ヤーレが言っていた通りなんだな。あの『黒剣』が若いキリキシャに骨抜きにされてるって」
「うえっ!?」
何だか自分がケイレンを誑し込んでいるかのようなその言い分に、ジュセルは思わず素っ頓狂な声が出てしまった。ケイレンはケイレンで、平然とした顔で頷いている。
「俺がジュセルに身も心も捧げているのは、事実だ」
「いやちょっと待ってなんかそれ語弊があるから‥!」
慌てふためきながらケイレンの言葉を遮ろうとするジュセルを見て、ナジェルはまた笑った。
「仲、いいんだね。大丈夫だよケイレン、私も心に決めたヒトがいるから。えっと、二十日後?くらいにはそのヒトもここに来るよ」
思わぬナジェルの言葉に、ジュセルもケイレンも驚いてヤーレを見た。ヤーレは素知らぬ様子でお茶を飲み、答えた。
「ナジェルは忙しいからな。‥二十日後には依頼が終わった請負人 を頼んであるんだ。四級請負人 だが、面白い経歴の持ち主でな」
ヤーレがにやりと笑って言ったのを、ナジェルが引き取った。
「サイリはカルカロア王国人なんだよね。もともと退異師をしてたんだけど、請負人 の仕事に興味を持って五年ほど前から、請負人 としても働きだしてるんだ。何より」
ナジェルは最後のパウンドケーキの欠片を惜しそうに咀嚼してのみ下した。やはり、高能力者 は食べる量がえげつないなあ、と思いながら、ジュセルは空になった皿を眺める。
「サイリはね、シンリキシャなんだ。でも、退異武器の回路にちからを流せる。今のところ、シンリキシャで退異師になったのはサイリしかいないんじゃないかな?」
「へえ!」
スルジャが目を輝かせた。興味の赴くままに質問を始める。
「え、じゃあそのサイリさんはシンリキの高能力者 ってことですよね?普段使えるのはシンリキなんですか?シンリキ抑制の腕輪つけてるんですか?退異武器にちからを流す回路って普通の回路とは違うんですか?それから」
「スルジャ、ちょっと落ち着いて。ナジェルがびっくりしてる」
質問を怒涛のように繰り出すスルジャの肩を、アニスがそっと引いた。スルジャは驚いているナジェルを見てからハッとした顔をして、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「ごめんなさい、なんか興味深いことばかりで興奮が抑えきれなくて‥」
スルジャは照れたように鮮やかな赤髪の頭を掻いた。横でアニスがくすくすと笑っている。ナジェルもふっと表情を崩した。
「解析師も職人と同じなんだな。私も知り合いに職人が何人かいるんだが、スルジャに似ているよ。自分の興味があるものへの関心が抑えられないんだね」
そう言ってからまた言葉を続ける。
「サイリは多分、シンリキとしての力はないと思う。シンリキシャとしてのちからは使ったことがないって言ってた。だから始めはちからはないんだって思ってたらしい。でも、退異武器にはちからを流せて驚いたって言ってたなあ」
「へえ‥珍しい‥」
ナジェルは言った。
「もし、サイリがここに来るときにもスルジャがまだいるなら、スルジャに協力するようサイリに伝えておくよ」
「ありがとうございます!!」
スルジャは深紅の目を輝かせて返事をした。
ナジェルは今日は顔合わせだけだから、と言って帰っていった。次に来るのは三日後らしい。玄関で客人を見送ってから、次にナジェルが来るまでに寝台を入れないといけないかな、とジュセルは考えてケイレンの腕を引いた。
「‥ケイレン、あの、俺は金持ってないのにこういうこと言っていいのかわからないけど‥ナジェルさんとスルジャの部屋に寝台入れた方がいいんじゃないか?」
スルジャは今、アニスが持っていた|吊り網《ハンモック》を借りて寝ている状態だった。ジュセルの言葉を聞いてケイレンはふむ、と顎に手を当てて考え込んだ。
「‥そうだな、吊り網だとすぐ起きるのにコツがいるし、買うべきだな‥うん、スルジャとアニスに買ってきてもらおうか。金のことは心配しなくていいよジュセル。本来、この規模の家だったら客室に寝台は入れておかなきゃならないもんだしな」
ジュセルは小首をかしげた。
「‥ケイレンが買いに行かなくていいの?」
するとケイレンはジュセルの頭にぽんと手をのせ、にやりと笑った。
「‥‥このところジュセルと二人きりになる機会があまりなかったからな。家で二人、ゆっくりしようぜ」
「え、あ、‥うん」
改めてケイレンにそんなことを言われたのは初めてだったジュセルは、自分の顔が真っ赤になっていることがわかって思わず顔を伏せた。ケイレンは嬉しそうにそのジュセルの頭をずっと撫でていた。
翌日、ケイレンに金を渡されてスルジャとアニスは元気よく出かけていった。アニスの知り合いに家具職人がいるのだが、少し離れた場所に住んでいるらしい。せっかくだからそこまで行ってくる、と、アニスはケイレンから馬を借りてアニスと二人騎乗して出ていった。
アニスの過去の話を聞いてから、ジュセルはずっとアニスを見ると胸が痛くなっていた。そんな目で見ること自体アニスに対して失礼だと思うのだが、自分のせいでアニスがまた痛ましい過去と向き合わねばならないのかと思えば、考えずにはいられなかった。
しかし、スルジャが来てからのアニスは前よりも明るくなったように思う。同じヨーリキシャとして話すことも多いらしいのだが、なにせスルジャは底抜けに明るい。スルジャのまくし立てるようなお喋りにも、アニスは臆することなく微笑みながら対応している。ジュセルは、スルジャが来てくれてよかった、と思っていた。
今日はケイレンのために菓子を作ろうと思っている。先日、ナジェルが全部食べてしまった蜜入りのパウンドケーキに加え、今日はミルクレープを作ってみようと思っていた。なぜなら、力自慢のケイレンがいるからだ。ホイップクリームを作るにはかなりの体力を使う。自分の体力のなさを自覚しているジュセルは、自分で作ることはなかった。
朝から厨房に籠って何枚ものクレープ生地を焼いているジュセルを、ケイレンは粗末な椅子に座ってにこにこと眺めていた。厨房は分厚い石壁に囲まれているので、外から襲われる心配をしなくていい場所である。
コマネズミ のようにくるくると厨房の中を動き回って働いているジュセルを眺めているのは楽しかった。何より、働いているときのジュセルは、生き生きとした顔をしている。
命を狙われてから自分で稼ぐことが絶望的になってしまったジュセルが随分落ち込んでいたことも、ケイレンに気兼ねをしていることもわかっている。ジュセルはどうしても経済面で甘えることができないのだろう、とケイレンは思っていた。だから積極的に食べたいものを伝えたり家の中の仕事を頼んだりして、できるだけジュセルが気兼ねすることのないように気をつけていた。
今日は美味しいもの食べさせてやるからその代わりに手伝って、と言われてケイレンは嬉しかった。いつ呼ばれるかとうきうきしながら眺めていると、クレープ生地を十数枚ほど焼き上げたジュセルが、ボウルに入った濃乳と不思議な道具を渡してきた。
「ケイレン、これでこの濃乳混ぜて。混ぜ方としては‥こう、こんな感じ。結構時間かかると思うけど、角が立つまで泡立てて」
「つの?」
ケイレンはボウルに入っている液体の濃乳を見て尋ね返した。‥‥混ぜていると何かに変じるのだろうか?
問われたジュセルは、あ、という顔をして少し思案すると言い直した。
「えーと、もったりして、固まってきたら教えて」
「‥‥?混ぜると、固まる、のか?」
「うん、多分。これから乳酪 も取れたし」
「ばたー‥?」
「と、とにかく頑張って混ぜて!こう、空気を含ませるようにね!」
ケイレンに渡した道具は泡立て器である。これは似たような道具を見つけられなかったため、近所に住んでいた道具屋に頼んで作ってもらったものだ。だが、作ってもらったはいいものの、あまりに体力を使うので、ホイップクリームを作ったことは一回しかない。家を出るときにジュセルが持ってきた道具の一つだった。
ケイレンは大人しく泡立て器を持って濃乳を混ぜ始めた。横で時々助言をしながらジュセルも見つめていた。
クリームがもったりとして少しずつ固形化していくのを見て、ケイレンは感嘆の声を上げた。
「うわ、本当だ!固まってきた!何でジュセルはこんなこと知ってるんだ?」
う、とジュセルは言葉に詰まった。
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