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第81話

ザイダはとある家の玄関から出てきて道の半ばまで進んでくると、ようやくはあと息を吐いた。 自分に代わる辺縁の地の医師を探し出してもらい、後を任せてからは候補として立つために根回しの日々だ。それにしても自分が思っていたよりもずっと、ハリスの悪事は様々な方面に及んでいることがわかって暗澹たる気持ちになっていた。他部族の一部の人々にもそのことは広まっていて、他部族からの推薦人を募るのにもこのままならあまり苦労はしなさそうである。 とは言え、いい加減ザイダが候補復帰に向けていろいろと動いていることがハリスの耳に入ってもよさそうな時期だ。一応自分の家族には警告をして、ヤーレからも護衛を派遣してもらってはいるが、ハリスに下子(きょうだい)をさらわれた苦い経験がある身としては油断はできない。 今は暗黒街に深く入り込んでいる分だけ、数年前よりもハリスには資金力がある。対するザイダの方にはその面での力は全くなかったので心配していたのだが、ハリスによって友人の子を違法花宿(=売春宿)に売られたという資産家のヒトが、候補復帰まで全面的に経済的な支援をしてくれるというので、ハリスを追い落とすまでは遠慮なくその力を借りることにしていた。 純朴なジュセルと、ジュセルを心から大事に想い愛するケイレンの姿は、思いのほかザイダの心に衝撃を与えていた。自分があれほどまでにヒトを好きになったことがあったろうか。あれほどまでに何か守りたいと思ったことがあったろうか、と思わされたのだ。 あの二人の幸せを守ってやりたい、と素直にザイダは思った。そのために自分ができることはやろう、と決めた。 そして、取りかかってみればみるほど、このままハリスに族長職は任せられないという思いが募る。あんな涼しい顔をしていながら、ハリスの言動はあまりにも私利私欲に走り過ぎている。 経営する心理相談所は、今では暗黒社会の窓口のようなものに成り下がっているようだ。そして何も知らぬまま、そこで心の柔い部分をハリスにさらけ出してしまった人々は、のちにハリスからの脅迫に怯えるようになるのである。 何人かから聞き取りをした感じでは、違法な花宿自体をハリスがいくつか持っているのでは、と思わされた。それほど、ハリスに関わって行方不明になったヒトの数が多い。元々はハリスを慕っていた人々が多かったので、表向きにはハリスに責はないとされてしまっているが、様々な状況証拠から見ても胡散臭いことには間違いなかった。 元婚約者であったハーナのように、騙されて売られたヒトもきっといるのだろう。この十年ばかりでこの国に急激に普及してきた強制性交幻覚剤(パルーリア)を、元婚約者に使用したことも今ではわかっている。 そういった非合法な手段を使い、人身売買などで資金を増やしているのでは、という合理的な疑いが払拭できない。 医師として見ても、強制性交幻覚剤(パルーリア)はとんでもない強毒の薬物だ。対処薬として存在する症状緩和剤(パロクシア)はあるが、寛解に至るものではなく服用が頻回に及ぶことから、強制性交幻覚剤(パルーリア)と対にして儲けるための薬剤ではないかと言われている。その裏付けるかのように、症状緩和剤(パロクシア)は、一般の薬局には流通していないのだ。 ただの一国民として考えてもカラッセ族に連なる一員として考えてみても、ハリスは政治の中枢に置ける人物ではないことは明らかだ。 このような人物であることを知ったなら、ヤーレからの要請がなくともいずれ自分は政治の世界に戻っていたのかもしれない。ザイダはぐっと伸びをして、次の訪問先に向かって歩き出した。 ハリスを族長候補から正式に降ろすためには、その悪事の証拠をできる限りたくさん集める必要がある。そのための苦労であれば、ザイダは幾らでも引き受けようという気持ちになっていた。 そして歩み出しながら、ふっとケイレンの家で会ったヨーリキシャの顔を思い出した。涼やかな目元の、美しいヨーリキシャだった。だがその身のこなしが、今まで幾多の試練を乗り越えてきたことを示していた。顔は穏やかなのに、どこか纏っている雰囲気は厳しくて、その独特な佇まいがザイダの頭の中に残っている。 「アニス‥」 ぼそりと呟いて、ぶんぶんと頭を振り、足を速めた。 北アラマサ地区にある「アルバの夜明け」は、会員制の店である。会員になるためには現会員からの紹介が必要で、なおかつここの店主の眼鏡にかなったものでなければならない。 そういった性質からある意味、「アルバの夜明け」は有名な店だった。 ただ、実際にその店に入ったことがある人物はそう多くないので、店名を知ってはいても店自体がどういったものなのか、知るものは少なかった。 実際、「アルバの夜明け」は一風変わった店だ。 店自体は大通りから外れた小径の建物で人目につきにくい場所だった。建物は中規模な四階建てである。 一階では、店主選りすぐりの料理人が作る美食を味わうことができる。献立表や値段表示はなく、客は食べたいものを言って出てきたものを食べ、その後要求された額をその通り払わねばならない。 二階に行けば、万能薬をはじめとした珍しい薬剤類が置いてある店がある。置かれている品物はどれも一級品で、その分値段もそれなりにする。ケイレンに頼まれたヤーレが万能薬を都合したのはこの店であった。また、性交幻覚剤(パルーラ)の正規品も売られているが、強制性交幻覚剤(パルーリア)は置かれていない。 三階は会談に使えそうな小部屋がいくつか用意してあるだけだ。ただ、防音は完璧で要求があればシンリキ誓書もすぐ出てくるし、虚偽を述べていないか見極めるためのシンリキシャも常駐している。 四階には、ここの店主がいると言われているが、実際のところ四階の正体を知るものはほとんどいなかった。 アニスを伴ってやって来たヤーレは、扉の機工躯体に会員証をかざし建物の中に入ると、そのまま三階へと上がった。部屋も相手に指定されているのでそこに向かう。アニスが心配ではあるのでちらちらと様子を見てはいるが、ヤーレが見たところではアニスは全く常と変わらぬ様子に見えた。 指定された部屋の扉を叩けば、「入れ」という太い声が聞こえた。先に来ていたか、とアニスの顔をもう一度見てから一拍おいて扉を開ける。 「アニス。久しぶりだな。相変わらずお前は綺麗だ」 「‥‥ロザイ。何年振りかね」 「八年ぶりだ。お前はちっともこの国に腰を落ち着けねえな」 部屋の中の大きな安楽椅子に座っていたロザイが立ち上がった。二十一カル(=約189㎝)を優に超す長身はヤーレと同じくらいだが、厚みがある分、圧迫感がある。首を覆う程度の長さで切られた少し赤みがかった金髪に、容貌は比較的整っていると言っていい精悍なものだが、瞳の奥にある昏いものがロザイを日陰に生きるものなのだと語っていた。 立ち上がりそのままアニスの傍に寄ろうとするロザイの前に、ヤーレが素早く身体を差し挟んでそれを阻んだ。ロザイは鋭い舌打ちをしてゆっくりと向きを変え、もともと座っていた椅子に浅く腰掛けた。 ヤーレとアニスもその向かいにある長椅子に座る。 二人が座るとすぐに音もなく扉が開き、茶菓を盆にのせたシンリキシャがやってきて、無言のまま机にそれを置くとそのまま去っていった。 ロザイが口火を切る。 「‥‥わざわざアニスを餌にしてまで、俺につなぎをつけたい理由は何だ、ヤーレ」 「餌、ってのは心外だな。確かにアニスがいればお前は会ってくれるだろうとは思ってたが」 「うるせえ、早く用件を言え。それを済ませたらアニスと話がしたい」 ヤーレがロザイに鋭い視線を投げる。 「言っておくが俺は今日、アニスから離れるつもりはねえ。お前とアニスを二人きりにはしねえよ』 ロザイは苛々した様子を隠しもせずその言葉を聞いていた。アニスはそんなロザイの様子にも構うことなく、目も合わさぬまま黙っている。 ヤーレは、ふう、と軽く息を吐いてから話し始めた。 「あんたは面倒くせえのが嫌いだって聞いてるから単刀直入に言う。今の裏請負会(ダスーロ)副頭、ヨキナのことについてどう思ってる?邪魔だと思ってはいないか?」 ヤーレの直截な言い分を聞いて、ロザイは片眉を上げた。 「邪魔かと言われれば‥今はまだ邪魔だとまでは思っていねえ。ただ俺はあいつが好きじゃねえし、あいつのやり方は俺とは合わねえ。‥‥そういうことを訊きたいんだろ?それで俺に何をしてほしいんだ?副頭の座から追い落とせってか?」 「それを望めば、やってくれるのか?」 真顔でそう詰めてくるヤーレの様子に、やや驚いたロザイは苦笑して答えた。 「随分余裕がねえようだな。そう望むってこたあ、そっちの事情を詳しく聞かせてもらえるんだろうな?」 ヤーレはロザイの顔を見つめたまましばし沈黙した。アニスの様子は変わらない。部屋の静寂は保たれたまま時間がゆっくりと流れていく。 ヤーレはようやく口を開いた。 「‥‥ハリスに狙われて暗殺対象になっている請負人(カッスラーレ)がいる。まだ成人したばかりの駆け出しだ。そいつの命を守るためにも、ハリスの依頼を取り消したい。‥ヨキナとハリスのつながりが深いことは知ってるんだろ?」 そう言われたロザイは忌々しそうに舌打ちをした。 「‥そもそもあいつを副頭にねじ込んできたのはハリスだ。‥若造(ワクスー)のくせにやることに抜かりがねえ。ふん、厄介なやつに目をつけられたもんだな」 するとそれまで沈黙を貫き視線も上げなかったアニスがぼそりと呟いた。 「ヨキナを排除してほしいと、私が望めばお前はやってくれるのか?」

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