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第82話

驚きのあまり、ロザイはぴたりと動きを止めた。ティーカップに手を伸ばそうとしたヤーレも驚いてその手が行き所を失っている。二人が硬直しているのを知ってか知らずか、アニスはまた言葉を重ねた。 「それをやってくれるなら、お前と寝る」 「‥‥‥性交幻覚剤(パルーラ)を飲んでか?」 ようやくそう言葉を絞り出したロザイに対し、アニスは黙ってこくりと頷いた。それを見たロザイはくしゃりと顔を歪めると大きくため息をついた。 「俺は、こんな稼業をしてるからお前と伴侶になりたいとまでは、今は思ってねえ。だが、お前の身体だけじゃなくて心も欲しいと思ってる。そのことは知ってるよな?」 そう言われてアニスはまた頷いた。ロザイは言葉を続ける。 「お前の身体だけが欲しいわけじゃねえんだ。‥まあ、寝てくれるってんなら寝るが‥対価として身体を差し出されるのは、あまりいい気分じゃねえ‥‥お前を買ってた俺が言うのも妙な話だが」 アニスはその言葉を聞きながら、この何十年もしつこく自分を追い続け、構い続けるヒトは無理に身体を開かせようとすることはなかった、ということに気づく。最後に身体を重ねたのは花宿で会った時だから、もう四十年近く昔のことになる。 俯いたまま顔をあげないアニスに、ロザイは言葉を続けた。 「‥ハリスの方をどうにかすればいいんじゃねえのか?」 「それが無理なことはお前さんの方がよく知ってるだろ」 すぐにヤーレが切り返す。ロザイは唇の端を少し上げた。 「‥ま、そうだろうな。しかしそれならヨキナを排除したところで解決にはならないんじゃないか?」 「ああ。だから、ヨキナを排除してもらいたいのと併せて、ハリスを失脚させるために、あいつの悪事の証拠も集めたいと思ってる。それにも協力してほしいんだ」 つらっとそんなことを言うヤーレを、ロザイは半ば呆れたような目で見つめた。 「お前な‥わかってんのか?俺は裏請負会(ダスーロ)主頭なんだぞ?お前らとなれ合うような関係性じゃねえし、アニスのことを措けばお前らに対して何かしてやる義理なんかねえ」 ヤーレはそう言われて、今の今まで迷っていたことを口にする決意を固めた。‥カズリエからはむしろそれを材料に使え、と言われてきたことだ。 「‥‥‥請負人協会(カッスラーレ)から、裏請負会(ダスーロ)に対して利となるものを差し出せる用意がある」 少し歯切れの悪そうなヤーレの物言いに、ロザイはじっとその顔を見つめる。ヤーレはその瞳を見つめ返しながら、胸の裡で自分に言い聞かせていた。‥いずれ明らかになることなら、ここで言ってしまった方がいいのだ。 「それは何だ、具体的に説明しろ」 ロザイに促されて、ヤーレはごくりと喉を鳴らした。 「力素回復薬だ」 ロザイは一瞬呆けたような顔をして目を見開き。ヤーレを見た。ヤーレの顔は至極真剣で、冗談や適当なことを言っているようには見えない。 「‥そんなもの、が、あるのか‥?」 「生成できる製法(レシピ)が、もう少しで確立されそうだ。‥その製法(レシピ)は、イェライシェンの請負人協会(カッスラーレ)が独占して販売する予定にしてる」 冷静にそう返事をするヤーレの顔を見ながら、ロザイは忙しく頭を働かせる。何ということだ、こいつは自分が何を言っているのかわかっているのか? 「今まで、力素を回復する薬剤なんぞ存在したことはない。‥体力を回復させるのに伴って力素の回復を望むくらいのものだった。‥それを、力素だけを回復する薬剤ができるっていうのか」 「‥‥そうだ。だが、その製法(レシピ)はウチで厳重に秘匿するつもりだ」 やや苦悩しているような顔つきを見せながらも、ヤーレはそうはっきりと告げた。横に座るアニスは顔色を変えることなく黙っている。 ロザイは低く唸った。 そのような画期的な薬剤があるなら、どんな立場のものだって欲しがるに違いない。力素の枯渇を気にせず活動したいとは、高能力者(コウリキシャ)であれば誰しも思うことだろう。自らは高能力者(コウリキシャ)ではないロザイでさえも、その薬剤の重要性は恐ろしいほどにわかる。 それを、イェライシェンの請負人協会(カッスラーレ)で独占販売する、ということは、まともな経路でその薬剤を裏請負会(ダスーロ)が手に入れることは、かなりに難しいということだ。基本的に本来、請負人協会(カッスラーレ)裏請負会(ダスーロ)は、おたがい相容れない組織なのだから。 「‥‥ヨキナを追い払うついでに、ハリスとのつながりを示す証拠を持って来いってところか?」 「そういうことだ。ハリスが失脚しなければいつまでもうちの請負人(カッスル)は狙われ続ける。それでなくとも、あいつには族長なんぞになってほしくないからな。‥どうだ、受けてくれるか?」 ロザイは沈黙したまま膝の上に肘をついて、頬をかりかりと掻いた。視線の先には低い机の下からアニスの足の先が見える。そこからゆっくりと視線を辿ってアニスの顔を見た。 アニスは何の表情もない、無を体現したかのような表情をしている。考えてみればロザイの目に映るアニスは、いつもこの顔をしていた。 だから、光級請負人(カッスル)のティルガと共にいるアニスを見たとき、衝撃を受けたのだ。 ああ、こいつはこんな顔もできたのか、と。 そしてその顔にできるのは、自分ではなかったのか、と。 転移もこなせる光級請負人(カッスル)で「迅雷(ゼッツ)」の二つ名を持つキリキシャ、ティルガ。裏請負(ダスル)として独り立ちし、ようやく名を売り始めた頃のロザイにとって、ティルガの後ろ姿は途轍もなく大きく、また遠く見えた。そして、その横で笑っているアニスも。 アニスがティルガと共に暮らし始め、請負人(カッスル)の訓練を始めたと聞いた時、自分とは違う道を歩き始めたのだ、と思った。この先、自分の人生とアニスの人生とは交わることがないのだろうとも思った。 しかし、それでもアニスを諦めることはできなかった。二人がともに暮らし始めてから半年が過ぎた頃、アニスが請負人(カッスル)の試験に受かった。その後すぐに、ティルガがアニスの前から姿を消した。ロザイはいつもアニスの姿を見ていたから、アニスが深く落ち込んで悲しんでいるのも、ティルガにかなわぬ恋情を抱いていたのも知っていた。 これまでそこそこ長く裏請負(ダスル)として生きてきた自分が、今さら堅気の道は歩けない。 だが、これまでの人生の中で、アニスほど欲しいと思ったヒトはいなかった。 だから、叶わぬまでも追いかけた。その姿を目で追った。迷惑がられていることは知っていたが、それでもやめられなかった。 いつも素っ気なく、挨拶もそこそこに背を向けてしまうアニスであっても愛おしくてたまらなかった。攫ってきて性交幻覚剤(パルーラ)漬けにしちまえばいいのに、と言ったやつは両足の骨を折って森に置き去りにしてやった。 初めて会った時から何十年経っても、アニスを追い、見つめることがやめられない。そんなロザイに対し、アニスが手を尽くして避けていることも知っている。 そのアニスが、自分と寝てもいいと言った。一人の若者(ワクシャ)を守るためだけに。 アニスらしい、とロザイは思った。自分自身も過酷な時を過ごしたアニスは、苦労をしている若者(ワクシャ)に優しい。 ロザイは頬を掻いていた手を下ろし、返答を待っているヤーレの顔を見た。 「‥‥すぐには信じられねえから、まずはその回復薬の現物をよこせ。俺は高能力者(コウリキシャ)じゃねえから、俺の仲間にその効果を確かめさせる。そのうえで効能を確認してから返事をする」 ヤーレは苦悩している表情を崩さぬまま黙って頷いた。 「いつ頃都合できる?」 「‥‥おそらく、五日以内には。出来上がったらここの四階に預けておく」 「わかった。効能を確認したら俺からつなぎをつける。それでいいか?」 「構わない」 ヤーレの返事を聞いてロザイは立ち上がった。ふと顔を上げたアニスに目をくれる。 「‥俺がヤーレにつなぎをつけたら、次はアニスがここに一人で来てくれ」 「いや、それは」 「わかった。ヤーレから知らせを受けたらここに来る」 ロザイに言葉に色をなして返答しようとしたヤーレの言葉を遮り、アニスが短く返事をした。ヤーレが驚いた顔でアニスを見る。アニスは少し困ったような顔をして微笑んだ。 「いいんだ、ヤーレ」 その声を耳に収めて、ロザイは部屋を出ていった。

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