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第90話

ロザイからの手紙を受け取ったアニスは、ヤーレから預かった力素回復薬を持って指定された場所に来ていた。 そこは、中心部からは外れた静かな住宅街である。少し離れたところに職人の工房がいくつかあるらしく、そこからの作業音が遠くに聞こえていた。 アニスは首を傾げた。‥ここで、合っているのだろうか? 目の前にあるのは瀟洒な造りのかわいらしい一軒家で、‥例えて言うなら伴侶誓言式を挙げたばかりの若い伴侶が好んで住みそうな家だった。白い壁に濃い緑の屋根板、正面に見える玄関扉も屋根と同じ濃い緑色に塗られている。その横には呼び出し釦がついていたので、アニスは不審に思いながらもそれを押した。 ビーッという家に似合わぬ無機質な音が響く。と、すぐに扉が開いた。 「よう。早かったな」 そう言ってぬっと顔を出したのは間違いなく裏請負会(ダスーロ)主頭のロザイだった。 「‥合ってたんだ、‥なんだかあんたに似つかわしくない建物だったから驚いたよ」 一瞬息をのんだ後そう言ったアニスの言葉を、聞いた様子でもなくロザイはすぐに扉の奥に身体を引っ込めた。 「入れよ」 「‥邪魔するよ」 中に入れば、外観を裏切らない可愛らしい内装の部屋だった。通されたのは厨房にほど近い居間である。やや小ぶりな薄い檜皮色の長椅子が向かい合わせに二脚置かれており、その間には小さな机があった。厨房に近い方には食事をとるためのものだろうか、こちらも小ぶりなテーブルと椅子が二脚据え付けてある。厨房と居間の間には、長い半円形の出入り口が設けられた壁があるが扉はない。その出入り口から見える厨房は小ぢんまりとした、橙色の煉瓦で組まれたものだった。 居間自体も壁の上半分は白く塗られ下半分は煉瓦で装飾されており、窓際に据え付けてある小机の上には幾本かの花が挿された花瓶さえ飾ってある。 顎でしゃくられ、長椅子に座ったアニスはひとしきり辺りを見回してからしみじみと言った。 「‥‥聞いていいかよくわからないけど‥この家って、あんたの持ち物なのかい?随分と可愛らしい家だね」 ロザイは大雑把な手つきで小机の上に置いてあった木筒(タプケ)の栓を取って、小さな茶碗に中身を注ぎ、アニスの前に突き出した。 「一応は俺の持ち物だ。住んだことはないが、たまに手入れはしてる」 アニスは目を丸くして思わず目の前にいる熟練の裏請負(ダスル)を眺めた。 「あんたにこういうものを好む趣味があったとは知らなかったよ」 ロザイは自分で注いだ茶碗を手に取って一気にぐいと飲み干した。中身は酒でなく、ラッカ水である。 「‥‥‥‥こういうのが好きなのは、お前だろ」 アニスは息をのんだ。ロザイはアニスの顔を見ないようにしてぼそぼそと話し続ける。 「お前が、‥‥美花売り(パレイラ)(=売春者)だったころ、言ってた。自分の家は白い壁と緑の屋根の家だったってさ。まあ‥お前は性交幻覚剤(パルーラ)を飲んでいたから、あんまし覚えちゃいねえかもしれねえが」 ロザイの言葉で、アニスは何十年かぶりに子どもの頃家族と住んでいたパルト屋の家を思い出した。この家のように真っ白な壁ではなく、すすけた色の壁だったしここまで小綺麗な家ではなかった。ただ、確かに白い壁と緑の屋根で、パルトを焼くための大きな窯と煙突が備わっている家だった。 小机の上に置かれた茶碗を手に取る。確かに、湯や茶を飲むとき、このような少し分厚い茶碗で飲んでいたっけ。自分はそんなことまでロザイに話していたのだろうか。 「俺がお前を何度買ったと思ってるんだ。‥金と時間の許す限り俺はお前を買った。そして性交幻覚剤(パルーラ)に浮かされているお前と、何度も身体を重ね、言葉も交わした。お前は‥‥忘れているだろうが」 「‥‥そうか」 アニスはそれ以上の言葉が出ず、短い返事をすることしかできなかった。客前に出る時には必ず性交幻覚剤(パルーラ)を飲まされていた。それ自体は売春者によく使われる合法のものであったが、飲む頻度が高くなると、意識が朦朧とするときがたまに出てくる。 アニス自身は、自分がそのような状態になったことはあまりないと思っていたので、ロザイの言葉には驚くしかなかったのだ。 「ブツは持ってきたのか」 「あ、ああ、これだ。四つある。多分高能力者(コウリキシャ)が飲めばすぐに効能はわかると思う」 そう言いながら鞄から薬剤の入った小瓶を取り出し、机の上に並べた。ロザイはそれを見て頷き、手元に置いていた紙にさらさらと署名をするとアニスに渡す。 「これが受け取りだ。二日以内にはまた俺の方からヤーレに連絡をする」 「わかった」 これで、用件は済んだ。二人は机を挟んで沈黙する。 アニスは、今日はきっとロザイが自分を抱きたいというのだろうな、と思っていた。それでロザイがこちらの言うことをきいてくれるのならそれでもいいか、と考えていた。ジュセルのことは可愛らしくて守ってやりたいと思う。家族もいない自分には、他に大切にしなければならないものがあるわけでもない。あの成人したばかりの若い|請負人《カッスル》が、安心して暮らせるのなら自分の身体を使うことくらい訳もないことだ。 しかし、表向きの用件は済んだはずのロザイは何も言ってこない。すっかり飲み干して中身が空になった茶碗を、両手で弄びながら俯いて黙っている。元々、言葉数の多いヒトではなかったが、このような様子のロザイを見たことがなかったので、アニスは不思議な気持ちでそれを見つめていた。 結構な時間の沈黙が流れた後、ロザイは急に天井を見上げふーと息を吐いた。そのまま顔を正面に向け膝をパン!と両手で叩くとアニスの方に姿勢を正した。 「アニス」 「‥ん?」 「お前、俺がどうなったら伴侶になってくれるか?」 突拍子もないロザイの言葉(少なくともアニスにはそう思えた)に、驚きのあまりアニスは言葉が出ない。 目を見開いたまま、硬直しているアニスの目を見つめ、ロザイは言った。 「俺は、どうしてもお前が欲しい。日々お前と過ごしたい。お前の身体だけでなく心も欲しい。その気持ちはこの数十年変わらない。おそらく、この先も変わらねえと思う。‥‥俺は、お前を買った最後の日から、誰も抱いてねえ」 ロザイは真剣な顔で言葉を続ける。思いもかけない言葉の連続に、やはりアニスは動くこともできない。 「‥俺は、裏請負(ダスル)としてしか生きてきたことはねえ。もう色々なしがらみもあるし、俺を慕ってきてくれたやつらもいる。だからここから足を洗うのはすぐにはできねえ。だが」 「ロザイ!」 ここに至ってようやくアニスは声を出すことができた。ロザイの言葉を遮って声を出したが、何を言えばいいのかはまだわからないままだ。このままロザイの言葉を聞き続けるのはよくない、とアニスの中で何かが言っていた。 しかし、ロザイは止まらなかった。 「アニス、時間はかかるかもしれねえがお前がそれで俺を伴侶に選んでくれるというなら、俺は裏請負(ダスル)を辞める」 「ロザイ!」 アニスは思わず立ち上がった。目の前の、この高能力者(コウリキシャ)でもないヒトが、どのような道のりを辿って裏請負会(ダスーロ)の主頭にまで上り詰めたのか、考えてみればわかる。 おそらく口にはできないような辛酸を舐め苦労をしながら、今の地位を築いたのに違いなかった。 そんなヒトが、それを自分のために投げ捨ててもいいと言っている。 アニスは、にわかにはその言葉をのみ込むことができなかった。

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