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第91話
ケイレンが慌ただしくタラッカンに向けて出発し、入れ替わりにナジェルが屋敷に留まった。以前も少しだけ滞在した部屋に小さな荷物を置き、以前と同じようにまた屋敷中をゆっくりと見て回っていた。
今日はアニスもいない。ヤーレの用事で、回復薬を裏請負会 に届けに行ったということだった。アニスが不在だと、ジュセルの他に屋敷にいるのがスルジャとナジェルだけになってしまうので、ヤーレがまだ屋敷に残っている。アニスの帰りを待って、請負人協会 に戻るつもりらしい。
客人が来たので、ジュセルは厨房に籠った。本当は、ケイレンが遠くに行くことがわかっていたなら何か焼き菓子でも持たせたかったし、何よりも完成したばかりの力素回復薬を持たせたかった。
その後悔を胸にちくちくと持ちながら、ジュセルはぼんやりと厨房の中で佇んでいた。もう、今はケイレンにしてやれることはないのだ。それなら、今は自分ができることを一つずつこなしながら我が身を守っていくしかない。
ジュセルは一つ息を吐いてから食糧庫を開けて中身を眺めた。‥ナジェルは一級請負人 なだけあって恐ろしい量を食べる。気合いを入れて作ろう、と決めて、献立を考え始めた。
団欒室でお茶を飲みながら、ヤーレ、スルジャ、ナジェルの三人は寛いでいた。ナジェルはひとしきり辺りを散策してから「異常はないみたい」と言いつつ戻ってきたばかりだった。
ナジェルは、ジュセルが出してくれたお茶菓子をすべて平らげてご機嫌だ。ヤーレがゆっくり食べているのを横からかっ攫って「要らない?」と言いつつもう口に収めていた。
食べるものが何もなくなり呆れたヤーレとスルジャが黙り込んだ団欒室で、ナジェルは口を開いた。
「で、あの回復薬はいつから売り出すの?」
ヤーレがぎょっとしてナジェルを見、スルジャを見た。スルジャはさっと視線を外す。そういえばナジェルに被検体になってもらうことに関して、ヤーレの許可を取っていなかったのを思い出したのだ。
答えないヤーレに構うことなく、ナジェルは言葉を続ける。
「あれが正式に売り出されたら大騒ぎになるだろうね。どんな売り出し方をするのか、国にはどこまでのことを知らせるのか、他国にはその情報を公開するのか‥ヤーレは考えなきゃいけないことがたくさんありそうだ」
「別に、俺だけでこの薬を統括するわけじゃねえ」
ヤーレはナジェルに言われて仏頂面で応えた。ナジェルに指摘されたことをまさに今、カズリエと二人でどう対応するのがいいのかうんうん悩んでいるところだったのだ。
本当なら、族長会議に連なる有力者のだれかを巻き込んで慎重に進めた方がいいことはわかっている。しかし、ハリスに狙われているジュセルのこともある。色々、時機を合わせるのが難しい問題で、カズリエとヤーレは二人で頭を抱えているところだったのだ。
ナジェルは最後のお茶を啜って飲み干すとかたりと机の上に置き、ヤーレをじっと見た。
「ヤーレ、忘れてるかもしれないけど、今度やってくる私の恋人のサイリはカルカロア王国人だよ。退異師会にも請負人協会 にも所属しているけど、どちらもカルカロアの所属だ。‥ここでサイリにあの子の警護を頼むなら、カルカロアに情報が渡ることも考えに入れないとね」
ナジェルに冷静にそう言われ、ヤーレは膝の上に肘をついて両手でがしがしと頭を掻きむしった。せっかく綺麗に編まれていた頭は鳥の巣のようになってしまっている。
「‥あ”あ”っもう!わかってる!一応サイリにはしばらく黙っててくれるように頼むつもりだ。ナジェルからも頼んでくれるか」
ナジェルはちょっと眉を寄せて嫌そうな顔をした。
「‥‥本当にしばらくの間だけ、ならいいよ。俺はできるだけサイリの言動を制限したくはないんだ。サイリは自由に飛び回る大鷹 のようなヒトだから‥」
「とりあえず国内の根回しがすむまででいい。俺からもサイリには頼むつもりだ」
「‥なら、いいけど」
スルジャは二人の話が落ち着いたのを見てふっと力を抜いた。どこかで責められるのではないかとびくびくしながら聞いていたのだ。するとその様子が知れたのか、ヤーレがじろっと鋭い視線を投げてきた。
「‥お前にも守秘義務ってもんをとっくり教え込んでおかなきゃならねえな」
「ひっ、ごめん!いやでもいつもはちゃんとしてるよね?!」
「さあな」
苦々しげにそう言うヤーレの視線を避けるように、スルジャは肩をすくめた。ナジェルはそれにぬるい笑みを向けてから、また言った。
「いずれにせよ、売り出されたら守秘義務もへったくれもないよ。薬については矢のような速さで噂が広まるだろうしね。‥ヤーレたちが本当に考えなくちゃならないのは、それを作れるあの子の安全だろ?」
「‥違いない」
ヤーレは両手で顔を覆って深く息を吐いた。このところ苦渋の表情ばかり浮かべているので、眉間から深い皺がなかなか消えない。ヤーレは顔をあげてナジェルを見た。
「ナジェルから見てどうだ?ジュセルは高能力者 だと思うか?」
ナジェルは少し首を傾げた。
「俺にはそうは見えないね。感じ取れるキリキもかなり僅かなものだし‥ただ」
「ただ?」
「キリキ、なのかなあ?まあ髪も目も蒼いしキリキシャなんだろうけど、ちからの感じがどうも俺と同じようには思えないんだよね。かといって他のちからかと言われればそれも違うし‥とにかくよくわからない、ってのが正直なところかな」
ナジェルの言葉に、スルジャもヤーレも深く頷いた。二人はそれぞれヨーリキシャとレイリキシャではあるが、どうもジュセルから感じられるちからは自分たちが知るそれとは違うような気がしていたのだ。
「ナジェルもそう思うのなら、やっぱりそうなのかもな‥だが、その正体を調べるためには‥」
そこまで言ってヤーレは口を噤んだ。他の二人も沈黙を守る。
この世界 に満ちる力素。そこから生まれる五つのちから。シンリキ、レイリキ、マリキ、ヨーリキ、キリキ。これらのちからについて研究を重ねている国は少ない。無論その活用法などはどの国も盛んに研究を重ね、日々の暮らしを便利に快適にするべく研鑽しているのだが、そもそもこのちからとは何なのか、どういうものなのかを研究する国は少ない。というよりもほぼない、と言っていいだろう。
大気や植物、動物などにも含まれる力素自体の研究は進んでいるが、ヒトの使うこの五つのちからに関してはその限りではない。それを研究するためには、生きているヒトの力素受容臓器と力素放出臓器を調べなくてはならないからだ。死んだヒトを解剖することは、どの国でも行われていることだが、生きながらにしてその二つの臓器を調べるという非道を行う国は少ない。麻酔、というものがないこの世界 で、それを調べるということは生きた人間を切り刻んだ上で、息絶えるまで調べるという残酷なことになってしまうからである。
この辺りでその非道な研究を行っているという噂のある国は、サッカン大陸の南東にある島嶼国、ダクダルム王国だけだ。
しかし、ここにいる三人の誰も、ジュセルをそこにやりたいとは露ほども思わなかった。ダクダルム王国の非道は、請負人 を長くやっている者なら誰でも知っている。
「‥‥まあ、ジュセルのちからが何であっても、俺達が守らなきゃならねえことには変わりはねえからな」
重い空気を跳ねのけるかのようにヤーレが唐突な明るい声を上げた。他の二人も顔をあげて、ぎこちなく微笑む。
ジュセルがこの先ハリスの手から逃れ得たとしても、ダクダルムへ売られることのないように、しっかりと守っていかなくてはならない。
言葉にはしなくとも、三人の心は同じ思いであった。
そのとき、控えめに団欒室の扉を叩く音がした。
「なあ、食事ができたけど、もうみんな食べられるか?」
遠慮がちなジュセルの声に、スルジャが大きな声で返事をした。
「ジュセルの料理はいつどんな時でも食べられるよ!」
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