165 / 191
第163話
「く、くそ‥私が‥こんな、目に、遭わされ、る、とは‥」
イェライシェンの隠れ家に転移したハリスは、床に転がって呻いた。
転移紙は、それを口の中に入れ、噛んで飲み込むことで発動する。しかし、転移は元々キリキシャにしか向かない行動だ。それを他のリキシャが無理にも使えば、身体には相応の反動が襲ってくる。
ザイダに裂かれた右わき腹に加え、諜報員の身体越しに刺し貫かれた腹の傷は、転移をしたことによって随分と悪化したようだった。
転移用に座標を設定し準備しておいた部屋なので、誰もいない。ハリスは呻きながら小机の上に置かれていた鐘に何とか手を伸ばし、必死の思いでそれを鳴らした。
カンカンカンと響く甲高い鐘の音を聞きつけ、慌てて走ってくるヒトの足音が聞こえる。
(まず‥医者を、呼ばせて‥それから)
瞼の裏に浮かぶのは、あの変なものを顔につけたザイダの姿。どうやってあのようなものを都合したのだろうか。ザイダの後ろには、請負人協会 をはじめとする平和派の族長や議員たちがついているのはわかっていた。
おそらくはそのような者たちの協力を得て、あの奇妙なものを作り上げたのだろう。あのような視線を遮るものなど、これまでハリスは見たことがなかった。
ハリスは、自分の決めた計画がその通りに行かないことが何よりも嫌いだった。だからいつも計画を立てるときには、慎重の上にも慎重を期していた。
それなのに、それをことごとく壊し、邪魔をしてくるザイダが憎くてたまらなかった。
(必ず、あいつを殺す‥!)
ザイダたちはとりあえずハリスを逃がしてしまったことと、イェライシェンに戻っている可能性が高いこと、元々の怪我に加え転移紙も使用していることから当分は動けないほどの怪我を負っていると思われること、などを書いた速信鳥紙をカズリエに向けて飛ばした。おそらく各所への連絡は、この手紙を見たカズリエがしてくれるだろうとの目算もつけてのことである。
そして、オクロト村の人々が元の生活に戻るための手助けと、生産されてしまった強制性交幻覚剤 の廃棄作業などを行った。
重傷を負っていた三人は、シンリキ操作が解けた村の医師に簡単に処置をしてもらったあと、呼び寄せた機工車でカタラニエまで移送され治療を受けることになった。
オクロトの解放はなり、協力してくれたカジャたち親子は喜んでくれたが、一行の心は重かった。
結局、肝心のハリスを取り逃がしてしまったからである。ザイダは、行き先がイェライシェンではないかと見込みがつけられただけマシだと思おう、と笑顔を見せていたが、そのザイダが一番悔しい思いを知っているのは全員がわかっていた。
オクロト村での事後処理や、怪我人の移送の手配などに追われているとき、カズリエからの返信が飛んできた。今のところ、イェライシェンで不審な動きは見られないということだったが、族都イェライシェンは広い。しかも、広大なシンカンの森に面しているところも多いのだ。隠れようと思えばいくらでも隠れられる場所はある。それがイェライシェンという都市だった。
もともとのハリスが持っていた手蔓も少なからずあるだろう。とすればハリスの傷を治療する医師の線から探りを入れても、大した情報が取れないだろうということはカズリエにもヤーレにも、無論ザイダにもわかっていた。
カズリエからの手紙には、詳細な人名こそ伏せてあったが回復薬を作ることは今後不可能になったことが明記してあった。ティルガから聞いていたこととはいえ、ヤーレはため息を零した。ジュセルの身体に不調を及ぼしてまで欲しいという代物ではなかったが、ハリスが逃げ隠れているこの時期にそれを当てにできなくなった、というのは痛かった。
『思いがけない人物の来訪によりそれが発覚した』という、なんともぼかされた記述ではあったが、誰がそれを明らかにしたにせよ力素回復薬がこの先手に入らない事実に変わりはない。
カズリエからの手紙を読んで天を仰いでいるヤーレのところに、控えめに扉を叩く音が聞こえた。「おう」と返事をすると、ザイダが入ってきた。
「今、時間いいか?」
「構わねえぜ、どうした?」
ザイダは腕組みをして、ふう、と息をついた。
「‥明日には、機工車を動かせるまでセキセイが回復できる見込みだそうだ。明日、ここを出てイェライシェンへ戻る」
「そうか、昨日には怪我人の移送から戻ってきてたしな。‥あとの処理は、あの漁師たちに任せても問題ないだろう。シンリキ操作されているヒトももう確実にいないようだし」
ヤーレはザイダの言葉を受けて笑顔を見せ、そう答えた。ザイダの顔はいまだ昏い。
「色々‥お前にも、請負人協会 のヒト達にも世話になっておきながら、‥やつを取り逃がしてしまって‥」
ザイダはぼそぼそと呟いて、俯いた。ハリスを取り逃がしたあとの様子を見ていれば、それに大きな責任を感じているのがヤーレの目にもわかっていた。
「お前だけの責任じゃねえだろう?そうやって何でもかんでも自分でひっかぶろうとすんじゃねえよ。あいつが転移紙を持っている可能性も考えて行動しなかった、俺達全体の失態だ」
「‥ああ‥」
ザイダは、俯いたまま顔をあげない。ヤーレは、この義に篤く責任感に溢れた人物をつくづくと眺めた。‥仄暗い政治の世界にこの人物を引き入れたことは、誤りではなかっただろうか。
とはいえ、今の時点で他にめぼしいカラッセ族の族長候補はいなかった。ハリスの将来に明るいものが望めないなら、選択肢はザイダしかなかったのだ。それは、請負人協会 を含む平和派全体の総意でもあった。
しかし、ザイダという人物を知っていくにつれ、ヤーレはおのれの決断が正しかったのかと何度も胸の内で問い返してしまっていた。腹に一物も二物も含んでいそうな人物が跳梁跋扈する政治の世界で生きるには、ザイダという人物は清廉すぎるような気がしてならない。
今回のハリス襲撃において、ザイダがヒトを傷つけることに対して躊躇いがなかったことにヤーレは驚いたほどだった。元々医師をしていたこともあるザイダは、いざとなれば相手を傷つけてしまうことに躊躇してしまうのではないかと危惧していたのだ。
だがその危惧に反して、ザイダの剣先に一切の迷いは感じられなかった。そこに、ザイダの覚悟を見た気がした。
「‥ヤーレには関係ないことにここまで付き合ってもらって、申し訳ないと思っている」
再びぼそりと呟いたザイダの言葉の意味を、一瞬ヤーレは理解できず返事が遅れた。するとそのままザイダが言葉を重ねてきた。
「イェライシェンに帰ったら、‥国軍や警備隊と連携してハリスの行方を探る。引き続きゴーグルの製作を頼む。おそらく効果はあったと思われるし‥力素神鐘 もまだこちらにあるから、作戦をうまく考えて対処していく。‥こんなところまで同行してもらって‥礼を言う」
「おいおいおい!ちょっと待てよ!」
ヤーレは思わず声を荒げた。まるでヤーレをこの件から切り離すようなザイダの物言いが、気にくわなかった。
「俺は、俺の意思でここに来てる。別に嫌々来てるんじゃねえぞ。お前だってそれはわかってる筈だろ?政治の世界にお前を引き戻したのは俺だ。最後までとことん付き合わせてもらうつもりだからな」
ザイダにそう反論するヤーレを見て、ザイダはまた俯いて目を瞑り、片手で顔を覆った。
「俺のせいでお前に‥これ以上危険な目に、遭ってほしくない‥」
自分に言い聞かせるような、かすかなその呟きを、今度は聞き逃さなかった。ヤーレは座っていた椅子から跳ね上がるようにして立ち上がり、一足でザイダの傍に駆け寄ってその大きな身体を抱きしめた。ほんのわずか、ヤーレの方が上背がある。ザイダの頭を右手で押さえ込むようにしながらぎゅっと力を込める。
「莫迦だなお前‥俺ぁ腐っても請負人協会 副会長のヤーレ様だぞ?お前よりよっぽど修羅場はくぐってきてる。‥‥それより」
ヤーレは少し腕の力を緩め、ザイダの顎に手を当てて上向かせた。ザイダの精悍な顔立ちの中で、黒い瞳が少し潤みながら輝いている。
「‥‥これは、脈ありだと思っていいのか?」
ヤーレのひそやかなその言葉を聞いて、ザイダは困惑したように視線を逸らす。その様子が何ともかわいらしく見えてしまったヤーレは、思わずそのまま口づけた。
ともだちにシェアしよう!

