167 / 191
第165話
まだ、薄暗いうちにジュセルは目が覚めた。
このところの不調が嘘のように、身体は軽くなっている。あれから倦怠感も熱っぽさもない。本当にあの龍人 とティルガのおかげで、自分はよくなったのだ、と実感した。
あれから、ティルガに会っていない。改めて礼を言おうと思っているのに、何やら忙しいらしくあちこちを転移で移動しまくっているようだ。時々はケイレンの屋敷に戻ってきているようだったが、ジュセルと顔を合わせぬままでかけてしまっていたりして、結局会えていなかった。
ケイレンにそのことを相談すると、少し困ったような顔を見せながら、
「まあ、そもそも忙しいヒトだからな‥今うちにいてもらえてるのが不思議なくらいなんだ。‥もう少し、色々なことが落ち着いたらきっと時間も取ってもらえるんじゃないかと思うぞ」
と言われ、子どものように頭を撫でられた。
龍人 が来訪した日から、少しずつ周りの人々に自分の前世のことも話せるようになってきていた。主には、ケイレンに話している。ほかのヒトには、何かのきっかけで尋ねられた時にだけ答えるようにしていた。
ケイレンは、ジュセルが元の世界のことを話すたびに痛いほど抱きしめてくる。
「この世界 に生まれてきてくれてありがとう」
しみじみと実感のこもったその声は、ジュセルの心を温かく包んでくれた。
お前はこの世界に生きていてもいい、当たり前の存在だ、と龍人 に言われたことは、ジュセルの中で大きな意味を持っていた。何となく感じていたこの世界 における疎外感というものを、ジュセルはようやく払拭することができたのだ。
成人してから、どこか心の中に不安を抱えたまま生きて来たジュセルは、今ようやく心の安寧を取り戻したような気持ちだった。
だからこそ、日々を大切に、自分のできることはしっかりやろう、という気持ちで過ごすことができていた。
無論、そう思えるようになったのにはケイレンの存在も大きかった。
得体の知れない、『精神のカベワタリ』という聞いたこともないようなものだと言われたジュセルを、一切拒絶することなく、丸ごと受け入れてくれた。
龍人 がジュセルを治療してから、ジュセルに対するケイレンの態度は今までよりいっそう、甘いものになった。
いや、単に甘い、というのではなく、自分自身をジュセルを庇護、擁護する存在だとしっかり位置づけているような感じである。
実際、ケイレンの心の中は、ジュセルのすべてを受け止め受け入れて行くのだという気持ちで溢れていた。
だから自分の目の届かないところにいてほしくなくて、屋敷の中でもうるさいくらいにジュセルのあとをついて回った。以前のジュセルなら、「うざい!」と一蹴していたかもしれないが、今のジュセルは文句を言いながらも、そんなケイレンを少し恥ずかしそうに受け入れてくれる。
ケイレンはそのことが嬉しくてたまらなかった。
しかし、いくらケイレンになかなかの貯えがあるとはいえ、いつまでも家の中でジュセルにくっつき回っているだけ、という訳にはいかない。
ジュセル自身も、力素回復薬が作れなくなった代わりに、元々解析してもらっていた薬草茶を作って請負人協会 に卸すことになっていた。龍人 が、お茶やお菓子を作る際に混じる程度なら、生命力が込められていてもジュセルの寿命には影響がない、と言ってくれたためだ。
だから最近は、日持ちのするお菓子や手軽に淹れられる薬草茶の製法 の開発のために、厨房に籠っていることが多かった。四級に上げてもらった手前、その位階に恥じない働きをしなければ、とジュセルは日々奮闘している。
そんなジュセルが愛おしくもあり、また歯がゆくもあった。もっと自分に寄りかかってほしいし甘えてほしい。ジュセルは基本的にヒトに甘えることをよしとしていないように見えた。だが、これまで濃密な感情の向け先を持たなかったケイレンにしてみれば、無条件で愛おしいと思える相手に甘えてもらえない、寄りかかってもらえないことが辛かった。
ジュセルからの愛情を疑っているわけではない。今では夜も必ず同じ寝台で寝ているし、ジュセルの許しが出れば睦み合いもしている。身体で愛し合う時のジュセルは快楽に弱く、遠慮なく甘えた声を出してくれるので、ついつい夜になるとその身体に手が伸びるのだが、基本的に真面目なジュセルは次の日の予定などを考えて余裕のある時しか許してくれないので、ケイレンはそこにも小さな不満を持っていた。
とはいえ、ジュセルが大事で、一生傍から離したくないという思いは変わらない。ジュセルが忙しく立ち働いているときには自分も仕事を受けるべきか‥とケイレンはこのところ悩んでいた。
そんな時にカズリエからの知らせで、ハリスがまた逃げおおせたことを屋敷の人々は知った。ケイレンに対する執着もあることから、屋敷の内外での警備体制はそのままだ。今のところ変わったことはないが、ハリスがその身体を癒してからが、本格的に事態が動く時期になるだろう、だから今は少し警戒を緩めてもいいかもしれない、とカズリエもヤーレも言っていた。そう言ってはいるが二人ともしっかりと情報収集の手は四方八方に伸ばしている。その上での判断だった。
今のケイレンの屋敷には、スルジャとナジェル、サイリが常住している。アニスは時折、どこかに行って二日くらい家を空けることが多くなった。おそらくそれは、伴侶候補であるロザイのところに行っているからだろうということは皆薄々わかっていたので、特にそれについて深く尋ねるものもいなかった。
ヤーレは、一度オクロトから帰ってきたが、その後はずっと:請負人協会(ルビ )の方に詰めているようだ。ハリスの処遇を巡り、議会や国軍の中でも色々な意見が出て紛糾しているらしい。もともと渉外担当のヤーレは、そちらの方で忙しいようだった。
スルジャはケイレンの屋敷から、請負人協会 本部の解析部に通っていた。今はまだ、協会の解析部が主となってゴーグル作りにいそしんでいるからだ。ショレルダ隊商会の協力も得て、原材料となる上質の灰輝石や伸縮繊維もふんだんに使うことができるようになり、またゴーグル自体の軽量化なども進んでいた。ただ、ハリスの手に渡ることを恐れ、未だ一般への販売は解禁されていない。
万が一の襲撃に備え、ケイレンの屋敷にも八個ほどのゴーグルを常備してある。いざという時にはすぐに装着できるよう、住人たちは何度もその装着訓練をしていた。
ナジェルは、さすがに一級請負人 なだけあって、このような事態でも依頼が絶えず、時々幾日か屋敷を空けることがあった。それでも、依頼が終わればすぐに屋敷に戻るようにしていた。サイリが心配なことと、ジュセルの料理を食いっぱぐれないためである。
ナジェルに心配されている方のサイリは、故国カルカロア王国からの密命を受け、国外へ脱走したヨーリキシャ、グンデの行方を追っていた。色々な情報を入手しそれをまとめていく中で、やはりハリスと接触していたと思しき証拠が挙がってきた。だが、ハリスがオクロトに現れた時期以降のグンデの居所がなかなか掴み切れない。
グンデはいわゆる天才である。機工の仕組みや新しい機工躯体、薬剤の開発など数多くの功績をあげてきた。その一方で、倫理観や道徳観が欠如した問題のある人物としても知れ渡っていた。平気でヒトを、機工や薬剤の実験に使い、その結果そのヒトが傷ついたり最悪の場合亡くなったりしても、本人は何一つ悪いと思っていないのである。
「グンデの素晴らしい研究に役に立ったのだからいいではないか?!」
ということを、本気で言うような危険な人物だった。
だからこそ、カルカロア王国ではグンデをあえて重く罰することなく、あまり人に触れない場所に閉じ込めて研究をさせていた。グンデは自分の発明や研究の他には特に関心を持たない人物だったので、これでうまく行く、と思われていたのだ。
しかし、グンデ本人はそうでもグンデの目の前に餌をぶら下げるヒトが数多くいる。そこによく注意を払えなかった、カルカロア管理行政部の見込みの甘さが最悪の形で露呈する。
グンデは、見張りやその施設で働いていた人々をほぼ皆殺しにして閉じ込められた施設を破壊し脱走した。無論、カルカロア王国としてもこういった事件をあまり大っぴらにすることはできない。
行政部にごく近い何人かを選び、グンデの捜索及び抹殺の命を下したのである。その命を受けた一人が、フェンドラ領主ルウェンの長子、サイリだったのだ。
現在入手出来ている情報を照らし合わせ考えてみれば、おそらくイェライシェンにいることは間違いなさそうだった。だが、イェライシェンはサッカン大陸でも有数の大都市である。ハリスの捜索が難航しているのと同じく、グンデの居所も追いきれない状況が続いていた。
ともだちにシェアしよう!

