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第169話
「まだ私が返事もしていないうちに瓶を開けるとは!無礼ではないか!?」
「これは失礼。こちらも安くない前金を払っているものですから、妖しいものを掴まされるわけにはいきませんのでね」
医師はのんびりとした口調を崩さずにそう言った。投資家の右後ろに立っているレイリキシャも、人を殺しそうな眼付きでこちらを睨みつけている。
「ところで、力素回復薬、というのはお取り扱いがありますかな?」
急に違う話を振られた投資家は、一瞬、あっという顔をした。が、すぐに取り繕って知らぬ顔をした。
「聞いたことはありますが‥あれは随分と販売個数が少なかったようでしてなあ‥手に入りませんでした。今はもう生産自体されていないようですし」
しかし、そう言い終えた後の投資家の口の端はわずかに上がっていた。
イシュラはそれを見逃さなかった。
ごく小さな声で医師に「決行する」と伝える。無論その声は投資家と護衛のレイリキシャには届いていなかったが、何かを話したことはわかったのか、二人とも訝しげな顔をした。
次の瞬間、イシュラの身体は跳ね上がり、まずは護衛のレイリキシャを飛びかかりざま鋭い短剣でその喉笛をかき切った。ぶしゃっとレイリキシャが血飛沫をあげて声もなく頽れるのを、投資家は何が起きたのか理解できぬままに眺めていた。
その投資家の足を、着地したイシュラはそのまま身を低くして同じ短剣で斬りつけた。今度は手加減をして足の腱を切るにとどめた。無論、それだけでも凄まじい痛みと衝撃が投資家を襲った。
「ぎゃあああ!」
「‥うるさいなあ、っと」
医師は片手で耳を塞ぎながら、万能薬を持ってきた鞄の中に収めた。そして足を抱えて転げまわっている投資家をひょいと避けた。
イシュラはすぐにその部屋の扉を開け、廊下を走ってくる別の人物の足音を耳に捉えた。しかし、イシュラが出るまでもなく、外に控えていたあと二人の諜報員が足音の主を始末したようで、物音はぴたりと聞こえなくなった。
今、響いているのは投資家の叫び声だけである。
「薬剤をしまっている部屋はどこだ」
イシュラが囁くような声で投資家に尋ねる。投資家は目に涙を浮かべ顔を歪ませたまま何度も首を振った。
次の瞬間、またイシュラの短剣が閃いた。
「ぐああああ!」
今度は、投資家の手の指が二本、斬り飛ばされた。投資家はもはや何を言っているのかわからないような呻き声をあげるばかりだ。
「薬剤をしまっている部屋はどこだ。答えなければ指を斬り飛ばしていく」
淡々とそう尋ねるイシュラに、投資家は歯をがちがちと言わせながら目で部屋の奥にある大きな飾り棚を見た。
その視線を悟ったイシュラはすぐに立ち上がり、大きな棚に近づいて調べていった。とある棚にある、ぱっと見には飾り瓶に見えるものを握ってひねるとがくん、と何かが動いた気配がした。
イシュラは大きな棚に手をかけ、ふんと押した。ズズ、と重く鈍い音を立てて棚は動き、奥に小部屋が現れた。
「意外と古典的なところにありましたなあ」
医師は相変わらずのんびりとした口調でそう言い、もはや呻き声も上げられなくなってぐったりしている投資家をただ静かに眺めている。
部屋の中には、整然と棚が置かれ、様々なものが陳列してあった。とある一角には薬剤専用の棚らしきものがあり、イシュラは医師を手招きした。
呻き転げまわる投資家を気にすることもなく、椅子でのんびりしていた医師は、イシュラの招きに気づいてよっこらせと腰を上げる。
棚の中を見せられ、ふむふむと検分していくうちに、小さな小箱に気づいた。他は瓶やハシン紙で作られた袋に入れられたものばかりなのに、これだけが真っ黒い小箱に入れられて隅にひっそりと寄せてあった。
医師は小箱を手に取り、開けようとしたがうまく開かない。力素鍵が用いられていることに気づいて小箱を持ったまま、ぐったりしている投資家のところまで戻った。
「ちょっと手を借りますねえ」
そういうと、手指が揃っている方の手を取って小箱の封に触れさせた。キリ、という微かな音がしたのを確認し、再び小箱の蓋を開ける。
中には、ごく小さな瓶にやや濁りのある半透明な液体が満たされているものが収められていた。
医師はちらりと床に転がっている投資家の表情を見る。明らかに目の色が変わったそれを確認して、
「うん、多分これが噂の力素回復薬かな」
と言うと元通りに箱に収めた。
他の薬剤もいくつか見て鞄の中に収めていく。来るときには薄かった鞄は、様々な薬剤で膨らんでパンパンになった。
「ん、じゃあ行こうか。用事は済んだことだし」
「わかった」
イシュラは医師の呼びかけに対して短くそう答えると、投資家の横を通り過ぎるときにすっとかがんでずぶりと投資家の胸を深く刺した。「うぐ」と短い呻き声をあげた投資家は、すぐに動かなくなった。イシュラは首筋に手を当てて、絶命したのを確認すると、先に部屋を出ていった医師を追いかけていった。
シュカンデ地区に潜んでいたハリスのもとに、追手がかかってきているとの知らせが入り、急いで隠れ家を移ることになった。中心部からは少し離れたところにある家を新しい隠れ家に選び、家人には精神操作と暗示をかけて遠くに離れるように指示をして追い出した。
こんなに追い詰められたのは初めてであったし、気に入った料理人を連れてくることもできなかった。さらにはなかなか身体の深部に受けた損傷が治らないこともあり、ハリスは最高に不機嫌な状態だった。
そこにイシュラからの連絡で、目的のものが手に入ったと聞いてようやくハリスの機嫌は少し上向いた。ハリスの手の者達が必死に家の中をハリスの好みに整えている中、身体の痛みとだるさを抱えて顔を顰めたまま、ハリスは今か今かと二人の到着を待っていた。
そして待ちかねた万能薬を服用し、身体の痛みが随分と楽になった上で、力素回復薬らしき小瓶を手に取った。
「‥‥随分と小さな瓶だな」
「おそらく規定量より少ないものなのでは、と思いますね。実際の瓶はもっと簡素なものだったと聞いていますし、売られなくなってからは小分けにして売った者達もいたようですから‥おそらく、二分の一か三分の一くらいの量ではないかと思われます」
「フン‥」
医師の言葉を聞き流しながら、僅かに濁った透明な液体をじっと見つめ、ハリスは少し飲むのをためらった。ここで飲めば、次いつこれを手に入れられるかわからない。
しかし、何とも言えないこのだるさは、明らかに力素の枯渇状態からくるものだ。日々の睡眠や休養によって少しずつ体内の力素は回復してきてはいるが、やはりまだ身体は本調子ではなかった。
「くそっ」
小さな声で悪態をついてから、ハリスはその小瓶の中身を一気に呷った。
「う、ああ」
ぶわり、と身体の中心から力素が溢れる感覚が一瞬、湧き上がった。
その感覚が治まったとき、ハリスは自分の身体が全快に近い状態になっていることを知覚した。
「‥これは‥」
ハリスが飲んだ力素回復薬は、どうやら規定量ではなかった疑いが濃厚だ。しかし、それであったとしても、この効力。
「欲しい」
ぎらり、とハリスの目が輝いた。この薬剤さえあれば、シンリキの枯渇を心配することなく使うことができるし、重傷を負った場合でも万能薬を併せて使えば、かなり早い治癒を見込むことができる。
自分の身体でそれを実感したハリスは、どんな手を使ってでもこの薬剤を手に入れなくてはならない、と考えた。
「今は作っていない、というのは本当か?」
いきなりそう訊かれた医師は、おそらく力素回復薬のことだろうと思って頷いた。
「請負人協会 が鳴り物入りで売り出してたんですけどね。‥作れる職人が、急な病で亡くなってしまったとかで。新しい薬剤だったから、その職人にしかわからないこともたくさんあったようで、引継ぎもできてなかったらしいんですよね。‥今や幻の薬ですよ」
医師の言葉を聞き、ハリスは考え込んだ。
医師は「ではこれで」と言って、あらかじめ小机の上に出してあった金袋をひょいと拾い上げるとそのまま部屋を出ていってしまった。
ハリスは気づいているのかいないのか、何も言わず、ただじっと立ったまま考え込んでいた。
その時、小さく開いていた専用の窓から、速信鳥紙がひゅッと飛び込んできてハリスの目の前でぱさりと落ちた。
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