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第187話
帰宅してからはすっかり疲れてしまっていたジュセルは、すぐに眠ってしまった。
翌朝、ケイレンに優しく起こされて「今日、転移しよう」と言われ、慌ててその準備を始めた。
とは言え、そこまで多くの荷物を持っていけるわけではない。転移で持っていけるのは自分と同じ体重分の荷物だけだということだったので、持っていくものは厳選せねばならなかった。
そして、残された時間でジュセルは目いっぱい色々なものを作った。ティーバッグもできる限りに作ったし、日持ちのするお菓子も焼けるだけ焼いた。スルジャの好きなお惣菜も作れるだけ作った。
ケイレンに買い物に行ってもらい、カッソも三本ばかり買ってもらった。後は転移先にあるかどうかわからなかったので、ラッカ蜜と砂糖も少し荷物に入れた。
一日中、厨房からはいい匂いが漂ってきていた。
ケイレンは自分の持っている資産の整理に忙しいようだった。他にも家を持っているらしいケイレンの資産を、すべて現金化する作業はスルジャとカズリエに頼むことになってはいたが、その委任状などの作成に追われていた。現金化できれば、それらの資金はすべてケイレンの預取金庫 の口座に入れてもらうことになっていた。カルカロア王国のアツレンという街にも、預取金庫 最北端のの支店があるらしい。
そのことも、アツレンが亡命先に選ばれた理由の一つだった。
夕方になって、厨房の作業台いっぱいに広げられたお菓子を片っ端からカラ葉で包んでいく。包みにはそれぞれ宛名を書いた紙をつけた。万が一家探しなどされたときにも見つからないよう、隠し部屋にしまう。
請負人協会 から帰ってきたスルジャが、家じゅうに充満するお菓子や料理の匂いを嗅いでまた号泣していた。
「ううう、ジュセルゥゥ」
「泣かないでよスルジャ‥」
スルジャの分のお菓子を渡し、作りおいた料理の説明をしている間中、スルジャはえぐえぐと泣いていた。
「隠し部屋においてあるやつ、それぞれ名前書いてあるからみんなに渡してね。何かのついででいいから‥結構日持ちもすると思うし」
「わかった‥」
泣きすぎて目が腫れてきているスルジャが、しゃくりあげながらかすれ声で頷いた。
その時、ひゅんと速信鳥紙が舞い込んできた。ケイレンの肩にかつんと当たって下に落ちたのを拾い上げ、目を通す。すぐさまケイレンの顔色が変わった。
「ジュセル、行くぞ。国軍の調査官がここに来ようとしているらしい。ヤーレからの緊急の知らせだ」
急いで荷物の用意をして、隠し部屋の中に入る。転移はここからと決められていた。
「じゃあ、頼んだぞスルジャ」
「任せて。黒剣こそ‥ジュセルを頼むよ」
「それこそ任せろ」
短い会話を交わした後、ケイレンはぎゅっとジュセルを抱きしめた。そのままの恰好でお互いに転移紙を口に入れる。
目と目を合わせ、間合いを合わせて同時にぐっと噛みしめると自分のちからを流した。
ぶわっ!!と空間が歪み、二人の姿がかき消えた。
それを確認して、急いでスルジャは隠し部屋から出て慎重に入り口をわからないように元に戻す。
そしてジュセルが作ってくれた料理を食事室に運び、ゆっくりと食事を始めた頃、ビーッという無機質な呼び出し音が鳴った。
「何ですかぁ?今ぁ、食事してるんですけどぉ?」
スルジャはにっこりと笑いながら扉を開けてそう言った。
ぐわんぐわんぐわん
頭が、身体が、内臓がかき混ぜられている。自分がどこにいるのかさえわからない。ケイレンに固く抱きしめられていた筈なのに、そのケイレンの腕や身体の感覚も何も感じられない。
胃の内容物が全部出そうマズイ相当マズイ絶対もう出る、と思った瞬間にパッとあたりが明るくなって足の下に固いものを感じた。
そのままバタンと倒れこむ。
そして思いっきり吐いた。
うげえうげえと吐いていると、同じような音が自分の頭の上からも聞こえてくる。
よく見れば、ちゃんとケイレンの姿は近くにあったようだ。だが、ケイレンも耐えきれなくなって離れたところで吐いているらしかった。
二人分の嘔吐物の、何とも言えない饐 えたような臭いが辺りに漂った。
はあはあぜえぜえと荒い呼吸を合間に挟みながら、二人は身体を二つに折り曲げてそれぞれ吐きまくった。
何も吐くものが無くなって、胃液しか出ないくらいになった頃、誰かの足音が聞こえてきた。
それまで気づかなかったが、ここは野外のようだ。転がっている地面は、真っ黒な土に覆われていて固い。
ケイレンは、ぐらぐらと回る頭と全身の不快感に耐えながらも腰に提げた片手剣の柄に手をかけ、もう片方の手を地面について半身を起こそうとした。
すると、明るい声がかけられた。
「おっと、無理はするな!長距離の転移の後は死ぬほど苦しいと聞いてるよ!まずはゆっくりと呼吸をしろ」
そう言いかけてきた人物の方に目をやれば、ややほっそりとした身体つきのマリキシャのようだった。だが、声の響きから推してみるに相当に体術か剣術を使うものではないか、とケイレンには感じられた。
「お、こっちのキリキシャの方はちっとまずいな」
先ほどまでげえげえと吐いていたジュセルが、少し静かになっている。はっとしてジュセルの方を見ようと身体をひねってみれば、土気色の顔をしたジュセルが嘔吐物の名残を口の周りにつけたまま、目を半開きにして失神しているように見えた。
「じゅ、せ、」
話しかけようとしたがケイレンも声が出ない。それを見たマリキシャは、ケイレンの方に小さな木筒 を放ってよこした。
「お前さんもそんなにいい状態じゃない。ゆっくり、少しずつそれをのめ」
ケイレンにそう言ってからマリキシャはジュセルの傍まで来て跪き、その身体を抱え上げた。
そして、汚れたジュセルの口元を拭いてやってから、もう一本の木筒 を取り出してその口にあてがい少しずつ傾けていく。
ジュセルの口元からたらたらと水のようなものが流れ落ちる。あれが毒物だったら、と思うとケイレンはいても立ってもいられなかったが、いかんせん身体が全くいうことを聞かない。
「おいおい、お前も結構きついだろ?早くのめよ」
マリキシャはケイレンの方を見て、呆れたように言った。よくよく見れば、腰に提げている大剣は退異回路がついた武器のように見える。
「退、異師、か‥?」
ようやっとそれだけを口にのぼせたケイレンに、マリキシャは未だゆっくりとジュセルの口に何やらを注ぎながら、ニッと笑った。
「ああそうだよ。これでも一位退異師をやってる、エレネってもんだ。安心したかい?早くのみなよ」
開けた場所はどこやらの裏庭だったらしく、うっすら意識は取り戻したものの未だ立つことができないジュセルをひょいと抱えたエレネは、何とか立てるようになったケイレンを少し離れたところにある屋敷に案内した。
そこはケイレンの屋敷の三倍以上もあろうかという大きな屋敷で、その規模に随分驚いたケイレンだったが、他に行くべき場所もないので言われるがままに中へと足を運んだ。
気がつけば暖かく焚かれた暖炉のある、広い部屋に案内されていた。中にあった寝台のように大きな長椅子に、エレネはそっとジュセルを寝かせた。ジュセルはまだ、うまく話すこともできないようで、真っ青な顔のまま目を瞑っていた。
「来たか」
そう声がして、部屋の扉が開いた。
そこから入ってきたのはまたマリキシャだったが、かなり体格のいいマリキシャだった。しかも一目でそうとわかる仕立てのいい衣服を身につけている。相応の身分の者だな、とケイレンは思った。
「こっちのキリキシャの方がまだあんまりよくないですね‥もう少し、薬剤もらってきましょうか?」
「そうしてくれ」
体格のいいマリキシャが鷹揚に応えると、エレネはすぐに部屋を出ていった。
部屋にはケイレンとジュセル、マリキシャだけが残される。
マリキシャがゆっくりと一人掛けの長椅子に腰を下ろした。
「あなたも座ったらどうかな?‥あなたが二位退異師のケイレンか?」
「‥そうです。あなた、は?」
まだ少し頭がぐらぐらして喋りづらいのを押して尋ねてみる。マリキシャはにっこりと笑った。
「サイリが随分と世話になったようだな。俺は‥私はサイリの|親《シンシャ》で、フェンドラ領主代行をしている、ルウェンというものだ」
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