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ノイズ 4話(雪広)

もう二度と、プライベートで会うことはないと思っていた。 だが、翌々日。仕事がいつもより遅くなった帰り、コーヒーを買おうと立ち寄ったカフェで、再び顔を合わせることになる。 カウンターの前に並んでいたのは、あの青年だった。 気づいたのは、青年の方が先だった。 「あ…」 短く声を漏らし、どこか気まずそうに視線を逸らす。偶然を装うには、少し間が悪い。 雪広は、その様子を見て、余裕のある調子で口元を緩めた。 「こんばんは。この前は、パンをありがとう」 青年は一瞬、驚いたようにこちらを見る。 「あれ、食べました?」 その問いに、雪広はほんの一瞬考えた。 実はまだ食べていない。家のキッチンに、紙に包まれたまま置いてある。忙しさにかまけて、存在ごと忘れていた。 今、思い出した。 「……実は、忙しくてまだ」 正直にそう言うと、青年は少し困ったような顔をした。 ちょうどそのタイミングで、注文の順番が来る。 「ご注文をどうぞ」 レジの声に、青年は前を向く。その横顔を、雪広は何気なく眺めた。 落ち着かない様子で、視線が定まらない。 さっきまでとは違う、少し柔らかい表情。 雪広は、ほんの一瞬その横顔を追ってから、気づく。他人を、こんなふうに見ることはない。不思議だな、と思った自分に、雪広は内心で小さく笑った。 「じゃあ」 青年が、控えめに言う。 「今度こそ……本当に、パン、食べます?」 逃げ道を残した言い方だ。 だが、断られる前提でもない。 雪広は短く笑う。 「……はは。いただこうかな」 会計を済ませ、雪広は二人分のコーヒーを受け取った。 「一緒に、行きます?」 青年がそう聞く。 「……せっかくだ。行こう」 特別な理由はない。ただ、流れとして自然だった。二人は並んで店を出る。 夜の空気は静かで、歩幅も、不思議と合っていた。 ◇ 二度目にして、ようやく分かった。 ワンルームのアパートは古い。 だが、中は驚くほど整っている。 物は少ない。余計な装飾もない。その代わり、キッチンだけが妙に広かった。 作業台は余裕があり、棚には用途のはっきりした道具が並んでいる。部屋全体に、香ばしい匂いが残っていた。 __パンの匂いだ。 「どうぞ……」 控えめな声に促され、雪広は中へ入る。 今日は、この前とは違い、キッチンの質素なテーブルに通される。 ベッドに向かう気配はない。 本気で、パンを食べるつもりらしい。 カフェで買ってきたコーヒーは、少しだけ緩くなっていた。青年はキッチンに立ち、慣れた手つきで動いている。その横顔を、雪広は何気なく眺めた。 しばらくして、ふと口を開く。 「……君の名前は?」 自分でも意外だった。わざわざ聞くつもりなど、なかったはずなのに。 青年は一瞬だけ手を止め、それから静かに答える。 「……理央(りお)です。朝倉(あさくら)理央(りお)」 初めて聞く名前だった。 「理央くんか……」 そう言いながら、雪広は続ける。 「私は、鷹宮(たかみや)鷹宮(たかみや)雪広(ゆきひろ)」 名乗った途端、理央が即座に顔を上げた。 「知ってます」 迷いのない声だった。 「テレビとか、出たことあるでしょ。見たことあります。大手教育塾の、やり手経営者って」 雪広は、わずかに眉を動かした。 「……そうですか」 理央はそれ以上触れず、鍋を火にかける。 やがて、テーブルに置かれたのは、切り分けられたブールと、湯気の立つスープだった。 ブールは軽くトーストされている。表面は香ばしく、割れ目から小麦の匂いが立ち上る。 「このスープ、少し油分があるので」 理央が淡々と説明する。 「そのままでもいいですけど、ブールをちぎって浸すと、ちょうどいいと思います」 語り口は落ち着いていて、押しつけがましくない。「美味しいから食べてほしい」ではなく、「こういう組み合わせだ」と事実を並べているだけだ。 それは、雪広の思考とよく噛み合った。 雪広は何も言わず、言われた通りに一口取った。噛んだ瞬間、わずかに眉が動く。 __違う。 いつも買っているブールとは、はっきり違った。 「……これは」 思わず、言葉が出る。 「店に出しているものとは、違いますね」 理央が、少しだけ目を見開いた。 「え……分かります? どうして…?」 驚きが、そのまま声に出ている。 雪広はブールをもう一口食べ、スープを含む。それから、淡々と答えた。 「香りが違う。焼き色も、火の入り方も…専門的なことは分かりませんが」 それでも、評価は揺らがなかった。 理央は一瞬黙り、それから、少しだけ口元を緩めた。 「……そうなんです」 嬉しさを隠そうとするような、その表情に、雪広は気づけば視線を向けていた。 「この部屋で、いくつかブールを試してて。配合とか、発酵時間とか、まだ調整中なんです」 視線が、キッチンの一角に向く。そこには、ノートと、小さな容器がいくつか並んでいた。 「これは、新作です。店に出してるのとは、まだ別で」 雪広は特に表情を変えない。 もう一口、ブールを食べる。 「……悪くない」 短い言葉だった。 「香ばしい。私の好みです」 それ以上の感想はない。だが、理央は一瞬、言葉を失ったように固まった。 「……本当ですか」 「嘘を言う理由がありません」 冷静で、容赦のない返答だ。 理央は小さく笑い、視線を落とす。 雪広は、その様子を見ながら思う。 感情は、特に動いていない。 評価も、いつも通りだ。 それなのに、理央の表情だけが、妙に視界に残った。

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