4 / 4
ノイズ 4話(雪広)
もう二度と、プライベートで会うことはないと思っていた。
だが、翌々日。仕事がいつもより遅くなった帰り、コーヒーを買おうと立ち寄ったカフェで、再び顔を合わせることになる。
カウンターの前に並んでいたのは、あの青年だった。
気づいたのは、青年の方が先だった。
「あ…」
短く声を漏らし、どこか気まずそうに視線を逸らす。偶然を装うには、少し間が悪い。
雪広は、その様子を見て、余裕のある調子で口元を緩めた。
「こんばんは。この前は、パンをありがとう」
青年は一瞬、驚いたようにこちらを見る。
「あれ、食べました?」
その問いに、雪広はほんの一瞬考えた。
実はまだ食べていない。家のキッチンに、紙に包まれたまま置いてある。忙しさにかまけて、存在ごと忘れていた。
今、思い出した。
「……実は、忙しくてまだ」
正直にそう言うと、青年は少し困ったような顔をした。
ちょうどそのタイミングで、注文の順番が来る。
「ご注文をどうぞ」
レジの声に、青年は前を向く。その横顔を、雪広は何気なく眺めた。
落ち着かない様子で、視線が定まらない。
さっきまでとは違う、少し柔らかい表情。
雪広は、ほんの一瞬その横顔を追ってから、気づく。他人を、こんなふうに見ることはない。不思議だな、と思った自分に、雪広は内心で小さく笑った。
「じゃあ」
青年が、控えめに言う。
「今度こそ……本当に、パン、食べます?」
逃げ道を残した言い方だ。
だが、断られる前提でもない。
雪広は短く笑う。
「……はは。いただこうかな」
会計を済ませ、雪広は二人分のコーヒーを受け取った。
「一緒に、行きます?」
青年がそう聞く。
「……せっかくだ。行こう」
特別な理由はない。ただ、流れとして自然だった。二人は並んで店を出る。
夜の空気は静かで、歩幅も、不思議と合っていた。
◇
二度目にして、ようやく分かった。
ワンルームのアパートは古い。
だが、中は驚くほど整っている。
物は少ない。余計な装飾もない。その代わり、キッチンだけが妙に広かった。
作業台は余裕があり、棚には用途のはっきりした道具が並んでいる。部屋全体に、香ばしい匂いが残っていた。
__パンの匂いだ。
「どうぞ……」
控えめな声に促され、雪広は中へ入る。
今日は、この前とは違い、キッチンの質素なテーブルに通される。
ベッドに向かう気配はない。
本気で、パンを食べるつもりらしい。
カフェで買ってきたコーヒーは、少しだけ緩くなっていた。青年はキッチンに立ち、慣れた手つきで動いている。その横顔を、雪広は何気なく眺めた。
しばらくして、ふと口を開く。
「……君の名前は?」
自分でも意外だった。わざわざ聞くつもりなど、なかったはずなのに。
青年は一瞬だけ手を止め、それから静かに答える。
「……理央 です。朝倉 理央 」
初めて聞く名前だった。
「理央くんか……」
そう言いながら、雪広は続ける。
「私は、鷹宮 。鷹宮 雪広 」
名乗った途端、理央が即座に顔を上げた。
「知ってます」
迷いのない声だった。
「テレビとか、出たことあるでしょ。見たことあります。大手教育塾の、やり手経営者って」
雪広は、わずかに眉を動かした。
「……そうですか」
理央はそれ以上触れず、鍋を火にかける。
やがて、テーブルに置かれたのは、切り分けられたブールと、湯気の立つスープだった。
ブールは軽くトーストされている。表面は香ばしく、割れ目から小麦の匂いが立ち上る。
「このスープ、少し油分があるので」
理央が淡々と説明する。
「そのままでもいいですけど、ブールをちぎって浸すと、ちょうどいいと思います」
語り口は落ち着いていて、押しつけがましくない。「美味しいから食べてほしい」ではなく、「こういう組み合わせだ」と事実を並べているだけだ。
それは、雪広の思考とよく噛み合った。
雪広は何も言わず、言われた通りに一口取った。噛んだ瞬間、わずかに眉が動く。
__違う。
いつも買っているブールとは、はっきり違った。
「……これは」
思わず、言葉が出る。
「店に出しているものとは、違いますね」
理央が、少しだけ目を見開いた。
「え……分かります? どうして…?」
驚きが、そのまま声に出ている。
雪広はブールをもう一口食べ、スープを含む。それから、淡々と答えた。
「香りが違う。焼き色も、火の入り方も…専門的なことは分かりませんが」
それでも、評価は揺らがなかった。
理央は一瞬黙り、それから、少しだけ口元を緩めた。
「……そうなんです」
嬉しさを隠そうとするような、その表情に、雪広は気づけば視線を向けていた。
「この部屋で、いくつかブールを試してて。配合とか、発酵時間とか、まだ調整中なんです」
視線が、キッチンの一角に向く。そこには、ノートと、小さな容器がいくつか並んでいた。
「これは、新作です。店に出してるのとは、まだ別で」
雪広は特に表情を変えない。
もう一口、ブールを食べる。
「……悪くない」
短い言葉だった。
「香ばしい。私の好みです」
それ以上の感想はない。だが、理央は一瞬、言葉を失ったように固まった。
「……本当ですか」
「嘘を言う理由がありません」
冷静で、容赦のない返答だ。
理央は小さく笑い、視線を落とす。
雪広は、その様子を見ながら思う。
感情は、特に動いていない。
評価も、いつも通りだ。
それなのに、理央の表情だけが、妙に視界に残った。
ともだちにシェアしよう!

