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ノイズ6 (雪広)
帰り際、理央は紙袋をいくつも差し出してきた。中身は、パンだ。
一人暮らしには明らかに多い量だったが、雪広はそれを指摘しなかった。
「ありがとう」
そう言って、営業用の笑みを添えて受け取る。
相変わらず、玄関まで見送られる。理央は服の乱れを整えているつもりなのだろう。
だが、目元には、わずかな名残が滲んでいた。本人は気づいていないが、情事の色は隠しきれていない。雪広は、それを特に指摘せず、靴を履いて部屋を出る。
自宅に戻り、キッチンに紙袋を置く。そこには、少し古くなったブールが、無造作に転がっていた。
この前、もらったままのものだ。
新しく渡されたパンと並べると、数は、かなりのものになる。
処理が必要だな、と思う。それだけだ。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には、司の名前。
先日送った連絡への、返信だろう。
◇
翌日の土曜日。仕事が休みだという司の家を、雪広は訪ねた。
司は、いくつかの学習塾を手がける経営者だ。週末でも仕事の話題が途切れることはないが、今日は珍しく完全な休みらしい。
すでに、恋人と同居している。
その相手は、西島奏汰。
もともとは、雪広が経営していた高校で教師をしていた男だ。現場が合わず、司の塾で講師として引き取ってもらった。
結果は、見ての通りだ。
司は、あっという間に奏汰を食っていた。
気づけば家に引き込み、生活ごと抱え込んで、自然に囲っている。
手の早い男だと、雪広は思う。
インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「よっ、雪広。元気〜?」
相変わらず軽い調子で司が顔を出す。その背後から、ひょこっと奏汰が覗いた。
「こんにちは!お久しぶりです!」
タイミングを見計らったような声だ。
「邪魔するよ」
雪広は短く言い、手にしていた紙袋を差し出す。
「手土産」
「え?」
司が受け取り、中を覗いて目を丸くした。
「……パン?」
「もらったものだ。一人では食べきれない」
正確には、食べる気がなかった。
「へぇ〜、めっずらしい」
司がニヤニヤしながら雪広を見る。
「お前がパンを手土産にするなんてねぇ。ふーん?」
探るような視線。
「深読みするな」
雪広は靴を脱ぎながら答える。
すると、奏汰が一気に前に出てきた。
「雪広先生!ありがとうございます!パン屋って……どこのですか?」
目を輝かせて聞かれる。
「……さあ。場所までは把握していない」
あえて、曖昧に答えた。
「あ、そうなんですね。じゃあ、お知り合い、とか?」
「なになに、知り合い?」
間髪入れずに司が食いつく。
「奏汰、そのパン屋調べて行こうぜ。俺、今日空いてるし」
「司さん、またすぐ外出ようとする」
そう言いながらも、奏汰の声は楽しげだった。
「だってさ、雪広がパンを手土産なんて、珍しいじゃん。どこだ?このパン屋。あやしいぞ〜」
司は紙袋を軽く揺らしながら、にやっと笑った。完全に面白がっている顔だ。
「つまり、そういうことだろ〜?」
探るような視線が飛んでくる。
「どういうことだ」
雪広は即座に返す。
「お前は本当に、話を都合よく組み立てるな」
雪広に言われた司は、声を上げて笑った。
「図星だと、そういう言い方になるんだよな〜」
奏汰は話がわからない様子で、きょとんとした顔をしている。それを見た司は、ますます楽しそうに雪広へ視線を向けた。
雪広はそれを軽く受け流し、何も言わずにソファへ腰を下ろす。
その間に、二人は並んでキッチンへ向かった。奏汰がパンの袋を開け、司が断りもなく一つ手に取り齧る。
「ちょ、司さん」
「いいじゃん。減っても問題ないだろ」
そんなやり取りを見ながら、雪広は静かにソファの背に身を預けた。
「だ、だめですって!後で!」
「大丈夫、大丈夫。減っても愛は減らないから」
「そういう問題じゃないです!」
軽口を叩き合う様子は、騒がしい。だが、不思議といつもより鬱陶しくはなかった。
雪広は、しばらく二人の様子を黙って眺めてから、ふっと息を吐いた。
「……恋人って、そんなにいいものか?」
二人の動きが、ぴたりと止まる。
「え……?」と奏汰が目を瞬かせ、司が振り返った。
「おい、雪広。どうした? 急に」
雪広は、感情を乗せずに続ける。
「合理的とは思えない。時間も、手間も、確実に増えるだろう」
淡々と切り捨てた。
「それでも選ぶ理由があるとは、思えない」
司は一瞬だけ黙り、それから肩をすくめた。
「増えるよ。間違いなく」
奏汰の方を見る。
「効率は落ちるし、予定も狂う。面倒も増える」
それから、少し笑って声を落とす。
「でもな、一人で抱え込む前提じゃなくなる」
雪広は、即座に返す。
「分担すればいいという話なら、契約で足りるだろ。時間の無駄だ」
奏汰が一瞬言葉に詰まり、それでも、まっすぐに言った。
「……契約だと、気持ちは分けられないです」
少し照れたように、でも逃げずに続けた。
「それに……分け合えるようになるんです」
「これでいいのかな、とか。間違ってないかな、とか」
「そういう迷いを、捨てずに投げられる相手がいるって……」
小さく笑う。
「時間の無駄、じゃないと思います」
司は、何も言わずに頷いた。
「俺も、お前と同じで、基本突っ走るタイプだよ」
少し照れたように笑う。
「でもさ、奏汰が迷って、悩んで、考えて……それでも前に進むのを、横で見ていられるのがいいんだよ」
雪広は、低く言った。
「結果が出ていない過程を見る意味が、俺には分からない」
司は、苦笑する。
「だろうな」
そして、少し真面目な顔になる。
「でもな、結果だけを見るなら、相手はいらねぇんだよなぁ」
司の声が、静かに落ち着く。
「どう考えて、何に引っかかって、どんな顔して決めたのか。そういうのを知れるのが、楽しい」
真面目な顔をして、そして、笑う。
「好きな人って、完成形を見る相手じゃない。変わっていく途中を、全部見せてもらえる相手だ」
「恋人ならさ、なおさらだろ。知れるってこと自体が、もう一番のご褒美なんだ」
司は最後に、軽く言った。
「試して、返事が返ってくる場所がある」
「それだけで、人は無駄なことも続けられる」
雪広は、それに答えなかった。
ただ、昨日のキッチンと、パンの匂いと、嬉しそうにブールを語る横顔を思い出す。
それを、言葉にすることはなかった。
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