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ノイズ9 (雪広)
忙しさに紛れて、意識していなかった。
気がつけば、ここしばらく、理央からの連絡がない。
最後に会ったのは、いつだっただろう。
考えようとしても、すぐに仕事が割り込んでくる。それほど、働いていた。
ふと、思い立ってパン屋へ向かった。
最近は、理央のアパートで試作のパンを食べていたから、店に足を運ぶこと自体、久しぶりだった。
裏通りに入り、いつもの場所へ向かう。
だが、見当たらない。
確かに、この辺りだったはずだ。
道を一つ、二つ、行き来する。
そんな昔のことではない。それなのに、思った以上に時間が経っていたのだと、そこで気づく。
見つけた場所は、角を曲がった先。
シャッターの前に、紙が貼られていた。
近づいて読む。
『閉店します。長い間、ありがとうございました』
簡素な文面。紙の端には、雨に打たれた跡が残っている。
いつから、閉まっていたのだろう。
雪広は、スマートフォンを取り出した。
理央の名前を選び、発信する。
呼び出し音は、鳴らず、メッセージも、送れない。
焦りはない。
だが、胸の奥に、小さな違和感が残る。
そのまま、理央のアパートへ向かった。
駅を挟んで反対側。少し距離はある。
それでも、この道を、ほとんど毎日のように歩いていたのだと、今さら思う。
アパートは、一階の奥だった。
扉の前に立ち、軽くノックをする。
返事はない。
もう一度、叩く。やはり、気配がない。
理央の気配ではない。人の気配そのものが、感じられなかった。
雪広は、しばらくその場に立ったまま、扉を見ていた。
どうやら、理央は、いつの間にか、いなくなっていたらしい。
いつ、という感覚も、なぜ、という理由も、まだ雪広の中にはなかった。
◇
生活の中に、ノイズが増えた。
数日…正確には、数週間が経っている。
朝、家を出るとき、無意識に、理央のアパートがある方角へ視線が向く。
気づいて、すぐに逸らす。
__意味がない。
仕事中、資料に目を通していると、ふと「ブール」という文字に目が止まる。
パンの話ではない。ただの比喩だ。
それでも、一瞬遅れて思考がずれる。
集中できていないのか……
会食の席。何気なく出された料理を口にして、考えてしまう。
……これ、あのパンには合わないな。
次の瞬間、自分の思考に眉をひそめた。
面倒だ。他人基準が、自分の判断に入り込んでいる。
それは、致命的だった。
寂しい、という感情ではない。
会いたい、という衝動でもない。
失った、という自覚でもない。
そういう言葉は、すべて否定できる。
残るのは、理由の分からない苛立ち。
雪広は、それを感情として扱わなかった。
分析すると集中力が落ちている。無駄な思考が増えている。意思決定の速度が、わずかに鈍っている。
つまり__非効率だ。
原因は明確ではないが、業務に支障が出始めている。ならば、対処すべきだ。
そう結論づけたはずなのに、その夜、雪広は予定を入れなかった。
仕事は終わっている。
司にも、連絡しない。
理由はない。ただ、何も入れなかった。
ソファに座り、部屋の明かりを落とす。
静かだ。そこで、初めて気づく。
自分は今、理央のことを考えている。
どういう人間だったか。何を好んだか。
どんな顔で、パンを切っていたか。
手つき。目線。言葉を選ぶ間。
一つひとつ、思い出せてしまう。
雪広は、そこでようやく立ち止まった。
……違う。
俺は、あの人を評価していたんじゃない。管理しようとしていたわけでも、支配しようとしていたわけでもない。
知ろうとしていた。
それは、今まで自分が向けたことのない関心だった。
雪広は、何も結論を出さなかった。
ただ、その事実を切り捨てられずにいた。
それが、何かの入口だということを、まだ認めるつもりはなかった。
そう考え始めてから……
理央と会えなくなって、二年が過ぎようとしていた。
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