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オーブン1 (理央)
___第ニ章 オーブン___
朝は早い。
理央はアパートを出て、まだ人の少ない道を歩く。駅とは反対方向、パン屋へ向かう道だ。
まだ眠気の残る頭で、今日焼くパンのことを考える。
フランスパンは多め。配合を少し変えた試作も、一本だけ入れてみるつもりだった。
角を曲がると、古びた店が見えてくる。すでに明かりは点いていて、両親は先に来ていた。
「おはよう」
「おはよう、理央」
父はいつものように穏やかに笑い、母は手を止めずに頷く。
「今日はフランスパンが多い日だっけ」
「うん。あと、少しだけ試作」
「無理はしないでね」
その言い方が、相変わらず優しい。仕込みを始めながら、母がぽつりと聞いてくる。
「フランスの修行先、もう決まったの?」
「うん。小さな店だけど、ブールが評判のところ」
「生活は? 寮とか?」
「最初は住み込み。必要なものは、向こうで揃えるって」
「そう……」
母は少し安心したように息をついた。
「言葉、大丈夫?」
「まだ全然。でも、何とかなると思う」
父が、こちらを見て言う。
「最初は掃除と下働きだろうな」
「だと思う」
「それでいい」
父はそれ以上、何も言わなかった。行くと決めたことを、もう止めないと分かっているからだ。
オーブンが温まり、成形に入る。指先は覚えているが、毎日同じ感触ではない。
湿度、気温、空気。
同じ条件の日は、二度とない。
だから面白いし、難しい。
午前中になると、常連が一人、また一人と入ってくる。
「おはよう、理央くん」
「今日も早いねぇ」
「フランス行くんだって? 寂しくなるよ」
「向こうでも頑張りなさいよ」
小麦屋のおじさんも、いつもの時間に顔を出す。
「理央のブール、今日もいい香りだな」
「ありがとうございます」
「向こうでは、水も粉も違うぞ。最初は戸惑うだろうな」
「はい。でも、それも勉強ですから」
みんな、心配している。同時に、ちゃんと応援してくれている。それが分かるから、胸の奥が少しあたたかい。
昼前、ふと扉の方を見る。
無意識だった。
父がそれに気づいて、何気ない声で言う。
「……今日は、あの人来るかな」
母も、ちらりと入口を見る。
「最近、よく来てたものね」
「忙しい人だよね」
「この前、テレビに出てたわよ」
母の独り言のような言葉を聞き、心の中では、来るかもしれない、と少しだけ思っている。
ブールだけを買っていく人。
理央が焼いたものを好む人。
午後になっても、その人は現れなかった。
それでも、パンは焼く。いつも通りに。
夕方過ぎて、店を閉める。
「今日もお疲れさま」
「気をつけて帰ってね」
「また明日」
シャッターを下ろす音が、少しだけ重く感じられた。この日常は、もう長くは続かない。それを、理央はちゃんと分かっている。
だから今日も、一つひとつ、丁寧に焼いた。来るかもしれない人のためにも。
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