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オーブン2(理央)

店を閉めたあと、まっすぐ帰る気になれなかった。一日中、静かな場所でパンと向き合っていたからだ。 ただ、人の多いところを歩きたくて、繁華街の方へ足を向けた。 もうすぐ、修行でフランスに行く。 理央がフランスに行ったら、両親は店を畳むという。年も高齢だし、悔いはないと二人とも言っている。 数年、向こうで修行をしたら、今度は自分の店を持ちたいと思っている。 そんなことを考えながら歩いていたとき、 ドン、と肩に衝撃が走った。 「あ、すいません」 反射的にそう言う。ぶつかった拍子に、体がわずかによろけた。 人混みで賑わっている路地で、大きな男の人が、急に振り返ったようだ。次の瞬間、背中にそっと手が添えられる。 「ああ、こちらこそ。大丈夫ですか」 柔らかい声だった。 顔を上げた、その先に、会いたくてたまらなかった人が、立っていた。 鷹宮(たかみや)雪広(ゆきひろ)。 大手教育塾の、やり手経営者。 テレビやメディアで、よく見かける人。 両親と一緒にやっているパン屋に、いつもブールを買いに来てくれる客だ。 店でトラブルがあったときも、感情的にならず、冷静に間に入ってくれた。 だけど_それよりも前から、知っていた。 その人は、自分が焼いたパンだけを、選んで買っていく。 最初は、好みが近いのだろうかと思った。 次に、どんな人なのだろう、と考えるようになった。 気づけば、今日は来るだろうか、と店の扉を気にするようになっていた。 だから__ 繁華街で偶然会ってしまった、その瞬間、 考えるより先に言葉が出た。 「あの……もしよければ、この前のお礼をさせてください」 「一杯だけでいいので」 必死だったと思う。 小麦屋のおじさんに教えてもらったバーへ誘い、一緒に飲めただけで、胸がいっぱいだった。 それだけで帰るつもりだったのに…… 欲が出た。 気づけば、自分のアパートに誘っていた。 軽いと思われただろう。 それでも、構わなかった。 神様、ありがとう。 心の中で、そう思っていた。 ◇ パンを焼くために、この部屋に住んでいる。だから、キッチンだけがやたらと広い。生活に必要なものは、最低限でいい。 簡単なベッドは、ひとり用だ。けれど、その上で最近は、好きな人に抱かれている。 「雪広さん……いつも、どうやって食べてますか?」 好きな人が、名前を呼ぶことを、許してくれる。 「このまま、ちぎって食べている。焼くこともせず、そのまま。たまに、チーズと一緒に食べるくらいかな」 聞きながら、少しだけ後悔した。誰かと一緒に食べている、そんな答えが返ってくるかもしれないと思ったからだ。 欲が出てくる。少しずつ、確実に。 そんな自分が、嫌だった。 「パンは、合理的だろ」 雪広の声は、淡々としている。 「そのまま食べられる。腹が減れば、何か入れないと動けない」 やはり、雪広の好みはブールだった。 ほぼ毎日のように店に来ていたから、分かってはいた。 それでも、この部屋で、理央が焼いたブールを口にしてもらえたときは、素直に嬉しかった。 きっと、好みが近いのだと思う。 シンプルで、誤魔化しのきかないパン。 難しいけれど、正直な味。 それを好むところが、理央には、どうしようもなく好ましかった。 雨の日に焼いたパン。 暑い日に焼いたパン。 発酵の進み方も、焼き色も、微妙に違う。 そんな話をすると、雪広は淡々と意見をくれた。褒めるわけでも、期待を持たせるわけでもない。ただ、事実としての言葉。 それを聞いている時間が、嫌いではなかった。 男の人に抱かれるのは、初めてだった。 それでも引かれたくなくて、慣れているふりをしてみた。 たぶん……ばれていないと思う。 最初は、正直つらかった。声を出さないように、涙が出ないように、必死で相手にしがみついた。 それでも、いつの間にか、抱かれること自体が、苦しくなくなっていた。 パンを一緒に食べて、そのあと、自然とベッドへ向かう。 どう誘えばいいのかなんて、分からない。 けれど、二人は迷わず、同じ方向へ進んでいた。 好きな人に触れられている。 その事実が、体の奥に残る。 好きな人との時間は、こんなにも感覚が違うのだと、初めて知った。 そして、帰り際には、いつもたくさんのパンを持たせた。 言葉の代わりに。 引き止める理由を、作らないために。

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