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オーブン3(理央)

その日が来ることは、最初から分かっていた。これで最後になることも。 「夜、遅くなってもいいので」 短いメッセージを送った。 雪広からの返信は、来るときと来ないときがある。けれど、不思議と、送ってしまえば、必ず部屋のノックが聞こえていた。 だから、その日も来てくれるだろうと、どこかで思っていた。 それなのに。時間は過ぎ、深夜に近づいても、ノックの音は聞こえない。 会えなかったら、きっとこのまま、二度と会えない。 そう考えた途端、部屋の中で落ち着かなくなった。 意味もなく歩き回り、オーブンの前に立ち、焼き上がったパンを見つめる。 気づけば、パンはたくさん焼けている。 これをどうしようか、と苦笑いした、そのとき、静かなノックの音がした。 一瞬、息が止まる。 理央は、はっとして、ほとんど跳ねるように玄関へ向かった。 「雪広さん……っ」 扉を開けると、そこに雪広が立っていた。 理央は、部屋に迎え入れる。 いつもより静かで、いつもより胸が苦しい。それなのに、嬉しくて、今にも舞い上がってしまいそうだった。 「雪広さん……」 言葉を探して、結局、やめた。 「……お願い…ちゃんと抱いて」 最後に図々しいお願いを口にしてみる。 嫌がられて部屋から出て行かれてしまうかもしれない。 この人はその振る舞いを嫌うはずだから。 だけど、雪広は意外にもネクタイを緩めベッドの上で理央と向き合ってくれた。 キスはしない。 普段は……服を脱ぐこともない。 だけど、最後だけは雪広と素肌で抱き合いたかった。 理央は、着ていたTシャツを自分から静かに脱いだ。布が床に落ちる音が、やけに大きく聞こえる。 恥ずかしかった。けれど、それ以上に、今を逃したくなかった。 震える手で、雪広のシャツに触れる。 ボタンを外す指先が、うまく動かない。 それでも、雪広は何も言わず、理央の手に任せてくれた。 素肌が触れ合った瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。嬉しくて、このまま泣いてしまいそうだった。 抱きしめられると、理央は目を閉じた。 好きな人に、ちゃんと抱かれている。 それだけで、世界が満たされていく。 いつもより激しく抱かれた。 嬉しい。そして…初めてセックスで、射精をした。 けど、声を我慢するのが大変だった。 壁の薄い部屋では、隣の物音がはっきりと聞こえる。気配だけでも伝わってしまうから、声を上げてはいけない。 理央は、必死に唇を噛み締めていた。 同時に、この時間が終わることも、分かっていた。 終わってほしくない。 けれど、終わらせなければならない。 フランスに行くことは、言わなかった。 雪広は、他人の事情を知りたがる人ではない。 重くなりたくなかった。引き止めてほしかったわけでもない。ただ、最後まで、静かに一緒にいたかった。 胸がいっぱいになり、声を抑えるために、理央は唇を噛み締めた。 鈍い痛みが走る。 どさり、と雪広がベッドに仰向けに倒れる。その隣に、理央もころんと身を預けた。 もう触れられないと分かっている人が、すぐ隣にいる。 「……大丈夫か。唇が」 「あっ……ふふ……ちょっと、我慢しちゃったかも」 声を抑えるために、噛んでいたのだろう。 雪広の指が、ためらうように、そっと唇に触れた。理央の身体が、びくりと揺れる。驚いて見つめると、そこには、静かな視線があった。 指先は、思っていたより、ずっと優しかった。 嬉しくて、切なくて、会えなくなるのが、どうしようもなく悲しくて。 それでも、理央は何も言わなかった。 雪広が帰ったあと、部屋は、急に広くなった気がした。 ベッドに腰を下ろしたまま、声が出ないように、手で口を押さえる。それでも、涙は止まらなかった。 静かに、静かに、落ち着くまで、泣いた。 翌朝。理央は荷物を持って、部屋を出た。 パンの匂いのしない部屋。 昨日までの温度が、もう残っていない。 それでも、立ち止まらなかった。 選んだのは、自分だ。 フランス行きの飛行機に乗る。 あの人に、何も告げないまま。

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