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オーブン5(理央)

「いやいやいや……お前さ、なんでいつもそうなの? ほんとごめんね、ナンパじゃないから」 横から、場違いなくらい軽い声が割り込んできた。でも、理央の意識は、そんな声を拾えなかった。 目の前にいる人から、目が離せない。 腕を掴まれている、その感触だけが、やけに現実的だった。 会いたくて、会いたくて、 それでも、もう会えないと思っていた人。 「……理央。今まで、どこにいた……」 低く、抑えた声。 責めるでもなく、問い詰めるでもなく、それでも、はっきりと揺れていた。 名前を呼ばれただけで、胸が苦しくなる。 「……雪広さん……なんで……」 言葉が、それ以上続かなかった。 どうしてここにいるのか、どうして会えたのか、全部が追いつかない。 「えっ? うそ。マジ?……え、マジで? この子、お前が何年も探してた子?」 横で、目を見開いている男の人が視界の端に映る。 雪広は、一度だけその人の方を見た。 「司。悪い、今日は無しだ」 それだけ言うと、迷いなく、理央の手を引いた。 強くもなく、でも、離すつもりのない力。 「……っ」 言葉を挟む暇もなく、理央はそのまま引かれて歩き出す。 繁華街の喧騒が、背後に遠ざかっていく。 足は勝手に前に進いているのに、心臓だけが、置いていかれそうだった。 逃げる間も、考える時間も、与えられない。それでも……この手を、振りほどきたいとは、思えなかった。 しばらく歩くと、雪広は無言のままマンションの中へ入った。重厚な扉、柔らかい照明、静かすぎるほどの空気。 まるでホテルみたいだ、と一瞬思う。 コンシェルジュの視線を受け流し、エレベーターで最上階へ上がる。 扉が開き、すぐに玄関のドアが開いた。 ここに、この人は住んでいるのだろうか。 現実感が追いつかないまま、部屋に入る。 「あ、あの……雪広さん……」 やっと、名前を呼べた。 雪広は靴を脱ぎ、ゆっくりと振り返った。 さっきまでの繁華街とは違う、静かすぎる室内。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。 「理央……悪かった。連れ去ってきたみたいになったな」 少しだけ、息を整えるようにしてから続ける。 「でも……どうしても、無理だった」 そのまま、ソファに座らされる。 雪広は目の前の床に座った。 距離は近い。目線が合う。 それでも、手は離されない。 指先に、確かな熱があった。 「理央。教えてくれ」 低い声。命令でも、詰問でもない。 「何があった。君は……今まで、どこにいた」 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 「あ……あの……」 一度、ゆっくり息を吸った。 「フランスに……行ってました。パンの、修行で……」 言葉は拙くなる。 それでも、止めなかった。 両親のこと。店を畳んだこと。修行の期間。帰国して一ヶ月だということ。 雪広は、途中で遮らなかった。 ただ、離さずに聞いていた。 「……どうして、言わなかった」 責める声じゃない。 でも、ひどく静かだった。 理央は視線を落とす。 「……雪広さんは、他人の事情を……知りたがらない人だと思って……」 喉が震える。 勝手な決めつけかもしれない。 でも、そう思っていた。 「重くなりたく、なかったんです。引き止めてほしかったわけでも……なくて……」 少し、間が空いた。 雪広の指が、理央の手を包み直す。 「……探していた」 短く、はっきりとした言葉だった。 理央の心臓が、跳ねる。 「突然、いなくなった。店も、部屋も……何も残っていなかった」 視線が、まっすぐ向けられる。 「合理的に考えれば、終わった関係だと判断すべきだった」 それでも、と続ける。 「……探していた」 その言葉が__ 理央の胸の奥に、静かに落ちた。 もう二度と会えないと、分かっていた。 それを選んだのは自分だと、何度も言い聞かせてきた。 それでも__ 「探していた」と告げられた、その瞬間。 積み重ねてきた覚悟が、音を立てて崩れた。 胸が、きゅっと縮む。 息の仕方を、忘れてしまったみたいに。 喉の奥が熱くなって、言葉がうまく形にならない。だけど、理央の胸は確かに音を立てていた。 「雪広さん……僕は……」 続けようとして、声が詰まる。 何を言えばいいのか、わからなかった。 会えないと思っていた。 帰国してからも、探してはいけない、会ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせてきた。 それなのに。 「……会いたかった……」 考えるより先に、声が零れていた。 言うつもりなんて、なかったはずなのに。 「……会いたくて……でも、会っちゃいけなくて……」 言葉が、途切れ途切れになる。 「フランスにいても……毎日……」 そこで一度、唇を噛む。 「……毎日、考えてました……」 顔を上げられなかった。 こんな気持ちを、口にしてしまうなんて思っていなかったから。 「忘れなきゃって……何度も……でも……」 小さく、息を吸う。 「……どうしても……消えなかった……」 最後は、ほとんど囁きだった。 雪広の表情が、ほんのわずかに崩れた。 それは、理央が初めて見る顔だった。 「俺もだ」 次の瞬間、引き寄せられる。強くはない。けれど、確かに逃がさない腕だった。 額が触れ、吐息が混じる。近すぎる距離に、理央は息の仕方を忘れる。 「……理央」 名前を呼ばれて、視界が滲む。 「もう、どこにも行くな。……行かないで欲しい」 低く抑えた声。それは願いのようだった。理央は、言葉を返せず、ただ静かに頷く。 そのまま、抱き寄せられる。胸に額を預ける形で、少しだけ間があった。 やがて、頬に指先が触れ、ゆっくりと顔が持ち上げられる。触れる直前、ほんの一瞬、空気が張りつめた。 それから、そっと。 唇が、触れ合った。 確かめるように、浅く。 すぐに離れて、もう一度。 初めて触れる唇は、思っていたより柔らかくて、思っていたより、あたたかい。 息が混じる距離で、ためらうように間があって、それから、ゆっくりと温度が上がるように。 何度も、確かめるように、唇を重ねた。

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