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温度1 余白 (理央)
___第三章 温度___
コンシェルジュの前で、軽く会釈をして通り過ぎる。そのまま足早に専用エレベーターへ乗り込み、最上階のボタンを押した。
手のひらの中には、鍵。
今日、初めて使うことになる鍵だ。
家主本人がいない家に入るなんて、どうしても落ち着かない。
エレベーターが静かに上昇する間、理央はぎゅっと指先に力を入れた。
本当に……入っていいのだろうか。
今日は、両手いっぱいに食材を抱えてきている。合鍵を渡されたとき、理央は必死に断った。
「こんなホテルみたいな家の鍵、使えません……落としたらどうするんですか」
そう言ったのに、雪広は淡々と返した。
「落とさないように管理すればいい」
そして最終的に、
「同じ休みが取れる前日の夜だ。先に帰って、待っていてほしい」
そう言われてしまった。
きっかけは、雪広の冷蔵庫だった。
初めて泊まった夜、雪広は少しだけ気まずそうに言った。
「……食べるものが、何もなくてな。すまない」
冷蔵庫を開けると、中にあったのは数本のドリンク剤だけだった。
飲み物も、ウォーターサーバーの水か、棚に整然と並べられた高価そうなウイスキーだけ。
思わず、ぽつりと声が漏れる。
「雪広さん……生活感、ないですね」
責めるつもりはなかった。
ただ、あまりにも静かで、空っぽで。
雪広は否定も弁解もせず、淡々と答える。
「家で食事はしない。必要なら外で済ませる」
「それじゃ……体調を崩したら、立て直せませんよ」
理央の言葉に、雪広は少しだけ視線を落とした。考えるように、ほんの数秒。
それから、こちらを見る。
「……理央」
低い声。
「助けてくれるのか?」
その問いに、深い意味があるとは思わなかった。ただ、困っている人に向けられた言葉だと思った。
だから、勢いで頷いてしまった。
それが始まりだった。
___エレベーターが止まり、扉が開く。
鍵を差し込み、そっと回す。
静かな室内に入ると、理央はキッチンテーブルにパンを並べた。来週オープンする店に並べる予定の新作で、今日のために、少し多めに焼いてきたものだ。
それから、冷蔵庫を開けると、
「……え?」
思わず、声が漏れた。
ぎっしりと。
野菜も、肉も、調味料も、見たことがないほど詰め込まれている。
つい先日まで、ほとんど空だったはず。
「なに……これ……」
呆然としたまま、しばらく動けなかった。
さらに驚いたのは、キッチンだった。
フライパンも、鍋も、調理器具も、全部揃っている。
……この前まで、何もなかったはず。
深呼吸をして、気持ちを切り替える。
「えっと……」
理央は気持ちを切り替え、抱えてきた食材を一つずつ、隙間を探しながら、丁寧に冷蔵庫へ収めていく。
『理央のパンが食べたい』
その言葉を思い出した途端、胸の奥がふわりと浮いた。単純だな、と思いながらも、口元が緩んでしまう。
夢中で手を動かしていると、玄関の開く音がした。
「……理央」
次の瞬間、背後から抱きしめられる。
強くて迷いのない腕が回される。髪に、軽くキスが落ちた。
「お、おかえりなさい……」
恥ずかしくて、声が裏返りそうだった。
「ただいま」
雪広はそう言って、少し嬉しそうに口元を緩める。そのまま、理央の顔に視線を落とし、屈むようにして唇を重ねた。
短く、確かめるみたいなキス。
「……理央」
もう一度、距離を詰めようとしたところで、理央は小さく身体を捩る。
「雪広さん、あの……」
そっと腕を抜き、冷蔵庫の方を指さした。
「これ、どういうことですか……?」
あんなに空っぽだったはずなのに。今は、どう考えても、ひとりでは消費できない量の食材が入っている。
すると雪広は、何でもないことのように言った。
「君が、もう一度ここに来てくれると聞いて、浮かれて買った」
「……え」
「何を買えばいいかわからなかったから、とりあえず、売っているものを一通り」
理央は、呆然とした。
「こ、こんなに……一人じゃ、食べきれないのでは…」
「だったら」
当然のように続く。
「一緒に食べて欲しい」
そして、付け加えられる。
「君の予定は、どこまで空いている?」
唐突でも、詰めるようでもない。
ただ、確認するだけの声だった。
理央は一瞬だけ考えてから、正直に答える。
「……今日と……明日は大丈夫…です」
自分でも、少しだけ緊張しているのがわかった。泊まるつもりでは来ていた。でも、こうして口にすると、途端に意識してしまう。
「なら、とりあえず……そこまでは一緒にいられるな」
静かな声。そこまでと言いながら、その先を否定しない言い方だった。
理央は、思わず小さく笑ってしまった。
改めて理央は冷蔵庫の前に立ち、棚を一段ずつ確認する。野菜、肉、卵、牛乳。調味料も一通り揃っている。
「……色々ありますね。僕が買ってきた分もありますし……どうしようかな」
思わず零れた独り言に、背後から低い声が返ってきた。
「何を作る予定だった?」
「えっと……スープと、あとは少しメインを考えてました。パンに合うもので」
理央のパンが食べたい、というリクエスト。それを前提に、頭の中で何通りも組み立ててきた献立だった。
静かに、雪広が言う。
「それでいい。……それを頼みたい」
その声に、理央は小さく息を吐いて、ふっと笑う。
キッチンに立つ理央のすぐ隣に、雪広がいる。距離は近いが、手は出さない。ただ、そこにいるだけだった。
理央はエプロンを結び直し、まな板を置いた。
「じゃあ、順に使っていきますね」
淡々と包丁を入れる。
一定のリズムで、迷いのない音。
「鶏か?」
「そうです。鶏をメインにしようかと…」
玉ねぎを刻みながら、続ける。
「野菜はスープにします。雪広さん、ブロッコリー……大丈夫ですか?」
「問題ない」
即答だった。
理央が一瞬だけ顔を上げると、雪広は肩をすくめるように続ける。
「嫌いなものは特にない。食事は、だいたい受け入れる」
相変わらずの言い方に、理央は思わず小さく笑った。
「じゃあ、助かります」
包丁を置き、ボウルを取り出していると、背後から声がした。
「俺も、何かしたい」
少し間を置いて、続ける。
「指示をくれ。君の邪魔はしたくない」
思っていたよりも素直な言い方だった。理央は思わず目を瞬かせ、それから、ふっと表情を緩めた。
「……じゃあ」
少しだけ考えてから。
「ブロッコリー、洗ってください。房ごとで大丈夫です」
言われた通り、雪広は行う。袖をまくる動きがどこかぎこちなく、水を出す手つきも、慎重すぎるほどで、理央はその背中を横目に見て、思わず口元を緩めた。
◇
「君のパンはどれも好みだ」
食べ終えてからも、雪広に言われると理央は嬉しくて胸がいっぱいになる。パンを褒められるのが一番嬉しい。
テーブルに並んだ料理は、決して華やかではない。湯気の立つスープに、切り分けたブール。
それから、『余白』と名付けた、新しく焼いたバゲット。添えたのは、簡単な一品だけのメインだった。
ブール以外のパン__
その『余白』を口にして、雪広が言った。
「これも、俺の好みだ」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
『余白』は、考えたり、味を足したり、一緒に食べる時間のために残しておく部分、という意味を込めたパンだ。使い方を、あらかじめ決めない。
どれも主張しすぎず、きちんとパンを引き立てている。理央が思い描いていた「パンの隣にある食事」そのものだった。
食事を終え、食器を流しに運びながら、理央はふと冷蔵庫の方を見た。
さっき見た光景が、頭から離れない。
冷蔵庫いっぱいに詰め込まれた食材。野菜も肉も、明らかに量が多すぎる。
「……あの」
振り返って、雪広を見る。
「他の食材、どうしましょう」
「冷蔵庫の中、結構ありますよね。これ……一人じゃ、消費しきれないと思います」
言ってから、余計なことを言ったかもしれないと少しだけ不安になる。
でも、雪広は特に気にした様子もなく、淡々と答えた。
「確かに。今日だけでは減らないな」
「おいで……理央」
そう言って、理央の手を取る。強くはないが、迷いのない動きで、キッチンテーブルの椅子に座らされた。
「コーヒーを入れる」
それだけ告げて、背を向ける。
理央は、少し考えてから口を開いた。
「なにか……作っておきましょうか。僕、作れるものは限られてますけど」
一流のシェフみたいに、何でも作れるわけじゃない。だけど、フランスでの修行では、パンだけじゃなく、簡単な惣菜も任されていた。
スープや、付け合わせ。それに、簡単だけれど一品として成り立つメイン。
派手さはない。けれど、パンの隣に並べることを前提に考えられた料理だった。
「……そういうのなら、少しは」
控えめに付け足すと、雪広は興味深そうに視線を向けた。
「フランスでは、そのような見習いもしていたのか」
「はい。日本で店を出すなら、パンだけじゃなくて……簡単に食事もできる形の店にしたくて」
理央がそう言うと、雪広は小さく頷く。
「なるほど」
それから、ごく自然な調子で続けた。
「なら……また一緒に、キッチンで教えてくれないか」
明日でも。
明後日でも。
その次の日でも。
言外に、期限は設けられていない。
「理央の生活もあるだろう」
一呼吸置いてから、穏やかに伝えられる。
「だが、俺一人ではどうにもならない。助けてほしい」
「え……」
「この食料を、一緒に減らしてほしい」
理央は冷蔵庫の方を思い浮かべる。
ぎっしりと詰まった中身。
……無くなるまで、という意味だろうか。
毎日? それとも、もう少し先まで?
理央は小さく息を吸い、言葉を探す。
けれど、雪広はそれ以上、踏み込んでこなかった。答えを急かすことも、理由を並べることもない。
ただ、断る選択肢だけを、そっと消す距離で、静かにそこに立っている。
「急いで考えなくていい」
低く、落ち着いた声。
「……今夜は、ゆっくり二人で過ごしたい」
それだけ言って、雪広はコーヒーをことりとテーブルに置いた。
次の瞬間、距離が詰まる。
確かめるように。
唇に、やさしくキスが落ちた。
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