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温度2 好きな人 (雪広)

日本に戻った理央は、両親のもとで暮らしている。雪広が以前から通っていた、あのパン屋と同じ場所。 建物の二階が住居で、そこの一階で、理央は店を新しくオープンさせた。 生活と仕事が切り離されていない環境。だが、それを負担にしている様子はない。 店をオープンさせるには、時間も体力も要る。想定外の問題がいくつか出るのは、むしろ当然だ。 それなのに、理央は予定を崩さず、淡々と準備を進め、予定通り店を開けた。無理をしている様子もない。 冷静だ。 判断が早く、線の引き方を心得ている。 感心する、という評価は正しい。だがそれ以上に、その無理をしない選択を積み重ねているところが、好ましかった。 できるだけ時間を調整し、閉店が近い時間に店へ向かうようにしている。客としてではなく、生活の延長として、そこに行く。 「雪広さん、こんばんは」 声をかけてきたのは、理央の母親だった。 「こんばんは」 自然に挨拶を返す。オープン直後は忙しいため、両親が店に立っていた。 この距離に違和感がないことに、自分でも少し驚く。いつの間にか、家族公認の恋人、という位置に立っている。 __理央が、両親と同居していると知った日のことを思い出す。 「……挨拶に行かせてほしい」 そう伝えたとき、理央は目を見開いていた。 「え?い、いや……そんな、わざわざ……」 理央は慌てて否定したが、自分の中では、すでに結論は出ていた。 「君の生活の基盤だ。なら、俺が顔を合わせない理由はない」 感情ではなく、判断だった。 だが、譲る気はなかった。 挨拶に行った日のことは、今でも鮮明に覚えている。 営業後の住居のリビングに通してもらう。理央の隣に座るでもなく、少し距離を取って立ち、背筋を伸ばした。 「初めまして。鷹宮雪広と申します」 低く、落ち着いた声で名乗った。 「理央さんと、お付き合いさせていただいています」 一瞬、部屋の空気が止まった。 驚いたのは、当然だろう。視線の端で、理央の父親が静かにこちらを見ていた。 母親は、理央の顔を一度見てから、穏やかに言った。 「……理央、前から気にしてた方よね」 理央が赤くなったのを覚えている。 雪広は、そこで余計な説明をしなかった。 だが、曖昧にもしたくなかった。 必要なのは、感情的な言葉ではない。 これからどう向き合うか、その姿勢だ。 雪広は、改めて両親の方を向き、はっきりと頭を下げた。 「理央さんを、大切にしています」 短く、だが、言い切って伝えた。 「軽い気持ちではありません。生活も、時間も、将来も引き受ける覚悟で、お付き合いしています」 声は低く、落ち着いていた。取り繕う余地も、逃げ道もない言い方だった。 「至らない点も多いと思いますが、どうか、見守っていただければ幸いです」 それだけ告げて、もう一度、深く頭を下げる。 沈黙が落ちた。 だがそれは、拒絶ではなかった。 理央の父親は、しばらく雪広を見つめてから、静かに息を吐いた。 「……分かりました」 少し考えるように間を置き、それから、ゆっくりと頷く。 その様子を受けて、雪広は背筋を正し、改めて頭を下げた。 「……よろしくお願いします」 それで、十分だった。 「……雪広さん、今日は仕事、大丈夫だった?」 奥から顔を出した理央が、自然にそう聞いてくる。忙しさを、隠せているつもりはなかった。 「問題ない。順調に終わったよ。理央は?」 「うん。今日もほぼ完売。……そろそろ、種類を増やさなきゃって思ってて」 少しだけ眉を寄せる。その表情ひとつで、店のことを真剣に考えているのが分かる。 「何か、ここで食べます?」 そう聞かれて、雪広は一瞬だけ考えた。 本当は、このままマンションに連れて帰りたい。明日は休みだ。時間もある。 __冷蔵庫の中身を、また増やしている。 食材があれば、理央は気にする。放っておけず、結局マンションへ来てくれる。 冷蔵庫の前で、毎回少し困った顔をするのも、知っている。それが理央の性分で、放っておけないところだということも。 だから、早く一緒に暮らすという結論に辿り着いている。理屈としては、もう十分すぎるほど揃っている。 それでも、その話になると、理央はいつも、少しだけ言葉を濁す。それを否定ではなく、遠慮や、ためらいだと判断していた。 拒まれているわけではないと分かっているから、雪広は、それ以上は詰めない。 雪広は、視線を店の奥へ向けた。 __この近くで、土地を探している。 家を建てて、理央と生活するために。 まだ、言うつもりはない。 だが、もう決めている。 「理央、明日は休みなんでしょ。雪広さんのところに行くんだよね?」 母親が、何でもない調子で声をかけた。 迎えに来てくれてるんでしょう、と言外に含ませていた。 「え……っ、あ、……うん……」 返事は小さくなり、語尾が曖昧になる。 照れているのが、隠す気もなく伝わってくる。 相変わらず、分かりやすい。その反応が愛おしくて、雪広は思わず笑ってしまう。 「理央」 雪広は、穏やかに声をかけた。 「また冷蔵庫の中が、大変なことになっている。助けてほしい」 冗談めかして言うと、 「えっ……ええ……もう……」 理央は困ったように眉を下げ、それから小さく息をつく。 「……じゃあ、少し待っててください」 そう言って、店じまいの準備に取りかかった。 雪広は、静かに店内を見渡す。 パンをトレーに取って選ぶスペース。 その奥には、こぢんまりとしたカフェのような席。 焼きたてのパンだけでなく、惣菜やスープを選ぶことができ、そのまま食事ができるように整えられている。 __これが、受けている理由だ。 客の動線も、滞在時間も、自然に計算されている。理央は無意識にやっているが、その精度は驚くほど高い。 「……本当に、いいところを突いている」 胸の内でそう呟きながら、雪広は視線を巡らせる。 だが、理由はそれだけではない、とすぐに思い至る。 店の工夫の奥には、誰が、どこで、どんなふうに過ごすのかを思い描く視線がある。 効率ではなく、人を置き去りにしないための配慮だ。 理屈が先に立つ自分とは、まるで違う。それなのに、不思議なほど噛み合ってしまう。 その感覚が、心地いい。 そして、抗いがたい。 それが、雪広が理央を好きだと自覚してしまった理由のひとつだった。 もうひとつは__ こうして成果を前にしても、理央がそれを自分の才だと誇らないところだ。 当然のように次を考え、淡々と、もっと良くしようとする。 その背中を、雪広は何度も見てきた。 考え、迷い、それでも前を向いて手を動かし続ける背中だ。 理央が積み上げてきたもの。 朝の仕込みも、店の空気も、無意識に作られる居心地のよさも。 気づけば、ここで過ごす時間も、理央の作るものも、当たり前のように自分の生活に組み込まれていた。 空になった、パンの陳列用トレーに視線を落とす。木のトレーの端には、小さな札が並んでいた。 パンの名前と、金額。 それだけのはずなのに、ここは少し違う。 『寒い日の朝』 バターの香りが強い、さくりと軽いクロワッサン。 『眠れない夜』 ビターなチョコレートを織り込んだ、甘さ控えめのデニッシュ。 『遅く起きた朝』 外は香ばしく、中はやわらかい、素朴な丸パン。 『考え事』 噛むほどに味が出るカンパーニュ。 静かに噛みしめながら、ゆっくり考えごとをするためのパン。 どれも、味を説明するより先に、情景が浮かぶ名前をパンにつけている。 なるほど、と雪広は思う。 これは、パンを売っているのではない。時間や気分を、一緒に差し出している。 そして、ひとつ。中央のトレーに置かれた札に、視線が止まる。 『好きな人』 ___ブール。 初めてそれを見た時、雪広は思わず、口元を緩めてしまった。 理央らしい。 まっすぐで、照れ屋で、それでいて、いちばん大事なところは隠さない。 「……好きな人、か」 誰に向けた名前なのか。 そんなことを考えるのは、無粋だろう。 けれど。 この店で、そのパンを選ぶのは、間違いなく特別な時間を欲しがる人間だ。 雪広は、トレーの前で、ほんの少しだけ立ち止まった。 店じまいが終わり、理央の母親が「お先に」と声をかけて帰っていく。その背中を見送ってから、理央は慌ただしくエプロンを外し、ぱたぱたと雪広のほうへ駆け寄ってきた。 「お待たせしました」 少し息が上がっていて、頬がほんのり赤い。 「理央……『好きな人』は、完売したのか?」 雪広がそう尋ねると、理央は一瞬きょとんとしてから、はっとしたように視線を泳がせた。 「え、あ……はい」 それから、小さく笑って答える。 「一番の自信作なので。ありがたいことに、毎日、完売してくれます」 照れを隠すように、視線を落としながらそう言う仕草が、あまりにも分かりやすい。 本当に、可愛い。 雪広はそれ以上、何も言わなかった。 ただ、理央を見つめながら、胸の奥で静かに思う。 この店も、この時間も、 そして、この可愛い人も。 手放す理由など、どこにもない。

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