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温度3 遠回り (理央)
二年ぶりに雪広と再会した、あの日。
そのとき一緒にいた男の人の家に、今日は二人で向かっている。
雪広の車の中は、静かだった。
エンジン音と、一定の速さで流れていく景色だけがある。
膝の上には紙袋。今朝、少し早く起きて焼いたパンが入っている。
「あいつは、司だ。俺の、親友」
ハンドルを握ったまま、雪広が淡々と言った。
「……親友、ですか」
そう返しながら、胸の奥がきゅっとなる。
雪広の親友に会う。それも、恋人として一緒に行くなんて、まだ実感が追いつかない。
「お邪魔するなら、なにか手土産をと思って……」
昨日、そう伝えたときのことを思い出す。
「理央のパンがいいだろう」
雪広は一瞬考えてから、すぐに笑いながらそう言った。
「司の家には、恋人もいる。変な気を遣わないから、大丈夫だ」
変な気を遣わない、という言い方が、少しだけ可笑しい。
「だから……今朝は少し早く起きて焼きました」
膝の上の紙袋に目を落とすと、雪広が静かに問いかけてくる。
「パンの名前は?」
「……『遠回り』と、『眠れない夜』です」
名前を口にすると、やっぱり少し恥ずかしくなる。
「それから……ブールも」
一瞬、言葉に詰まる。
雪広は、ブレーキを踏むタイミングで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「その名前を聞いたら、司はそこに食いつくだろうな」
「……やっぱり、変ですか」
「いいや」
きっぱりと否定される。
「分かりやすい。それに、俺はそのパンが好きだ。知ってるだろ?」
直球すぎて、返事ができない。
車内に、短い沈黙が落ちる。
「……緊張しているか?」
さっきと同じ問いかけ。けれど今度は、声音が少しだけ柔らかい。
「……少しだけ」
正直に答えると、雪広はそれ以上、何も言わなかった。
赤信号で車が止まる。そのとき、そっとこちらに手が伸びてくる。
指先が、理央の手の甲に触れた。
「大丈夫だ。俺が紹介する」
その言葉の意味を、ちゃんと理解してしまって、胸の奥が、静かに熱くなった。
◇
雪広のマンションと同じように、司の家もホテルみたいなタワーマンションだった。
エントランスを抜けるだけで、自然と背筋が伸びる。
……大丈夫。雪広と一緒だから。そう思った瞬間、玄関の扉が開いた。
「こんにちは!」
ぱっと明るい声。
立っていたのは、思っていたよりずっと若い青年だった。同じ年くらいだろうか。人懐っこい笑顔で、こちらを見る。
「西島くん、久しぶり」
雪広の声が、いつもより柔らかい。
それだけで、少し驚いた。
「理央、西島 奏汰 くんだ。司の恋人」
「えっ……あ、はじめまして……」
慌てて頭を下げると、
「理央さんですね! はじめまして、お話、いっぱい聞いてます!……あ、それ、パンですか?」
奏汰の視線が、理央の手元の紙袋に吸い寄せられる。
「はい。手土産に……よかったら」
そう言って、紙袋を差し出す。
「わ、なんかすごくいい匂い!」
紙袋を渡すと、奏汰の目がぱっと輝いた。
部屋に通される間、隣で雪広が、さらりと説明を始める。
「理央のパンには、名前がついているんだ」
淡々とした口調なのに、どこか誇らしげだ。
「味の説明より先に、情景が浮かぶ名前だ。食べる時間や気分ごと、差し出すつもりで作っているらしい」
「へぇ……」
奏汰が感心したように頷いて、理央を見る。
「どんな名前なんですか?」
「えっと……『遠回り』と……『眠れない夜』です。……今朝、焼いたものです」
言い終わる前に、
「なにそれ、可愛いんですけど!」
ぱっと振り向いて、理央を見た奏汰が声を上げた。
「名前からもう好きです。食べる前から期待値高い!」
屈託のない反応に、理央の肩から、すっと力が抜けた。思わず、奏汰に微笑み返してしまう。
あ、この人とは、きっとすぐ仲良くなれる。そんな気がした。
リビングに通されると、ソファに、雪広と同じくらいの体格の男が座っていた。
この前、偶然会った人だ。
雪広の親友__司。
「おっ、こんにちは。理央くん?」
「は、はじめまして……」
少し緊張して答えると、奏汰が嬉しそうに割って入る。
「司さん、理央さんがパン、持ってきてくれたんです。しかも、それぞれに名前がついてるんですって」
奏汰が紙袋を抱えたまま、嬉しそうに言う。
「へぇ〜、なるほどねぇ」
司は興味深そうに相槌を打ち、紙袋の中を覗き込んだ。
「うわ、なにこれ。めっちゃ甘い匂いするんだけど」
奏汰がそう言いながら取り出したのは、つやのあるブリオッシュだった。
「理央さん、このパンの名前ってなんですか?」
「それは……『遠回り』です」
少しだけ照れながら、理央が答える。
「ハニーバターのブリオッシュで。生地をまっすぐ焼くより、一度ねじった方が、甘さが中まで行き渡るんです」
指先で、空中にねじる仕草をしながら続ける。
「手間はかかるんですけど、その分、ちゃんと甘くなるので。だから……遠回りした方が、甘くなる、って意味を込めました」
一瞬、静かになり、次の瞬間、奏汰がぱっと顔を上げる。
「なにそれ……可愛い。名前聞いただけで、もう食べたくなるんですけど」
その言葉に重ねるように、雪広が低く言った。
「……遠回りも、悪くないと思わせるな」
間を置かず、司が吹き出す。
「おいおい、合理性の塊みたいなお前が、それ言うか?」
肩を揺らして笑いながら、雪広を一度見て、今度は奏汰の腕の中へと視線を落とす。
「じゃあさ、この……でっかくて丸いやつは?」
そう言って、ひょいと無遠慮にブールを掴み上げた、その瞬間。
「そのパンは『好きな人』だ」
隣から、間を挟まず、雪広の声が落ちる。
「……好きな人?」
司と奏汰の声が、揃って上がった。理央は一瞬だけ視線を落とし、それから、こくんと小さく頷き「……はい」と返事をした。
少しの沈黙があり、司が、にやりと口角を上げる。
「……雪広がさ。一番好きなパンとか、言わないよな?」
軽い冗談みたいな口調だった。
けれど。
「俺が一番好きなのは、そのパンだ。よくわかったな、司」
雪広は、間を置かずに答えた。
声は低く、淡々としている。
冗談でも、強調でもない。
一瞬、空気が止まり、次の瞬間、
「っはははははは!!」
司が、腹を抱えて笑い出した。
「雪広! お前っ……今、すっげぇ顔してるぞ」
あーもうウケる、と言いながら、笑い転げている。
「でも……『好きな人』って、人気ありそうですね」
奏汰がパンを見つめて、素直に言った。
「名前も可愛いし…それに、もう美味しそうです」
その言葉に、理央は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……このパンを作りたくて、フランスで修行してました」
視線を落としながら、続ける。
「自分の店を出すなら、これだけはちゃんと焼けるようになりたくて」
生活の真ん中に、自然に置けるパン。
特別じゃないけど、いないと落ち着かない存在。
「……毎日の中に、当たり前みたいに『好きな人』がある、そんな生活がいいなって」
最後は、少し照れたように笑った。
遠くから見てた人。その人が一番、よく手に取ってくれていたパン。
だから、この名前にした。
でも、そのことまでは、言わなかった。
雪広は何も言わず、ただ静かに理央を見ている。
「いやぁ、それにしてもさ。お前、ほんと変わったよなぁ、雪広」
ひとしきり笑ってから、司はふっと理央に視線を向ける。
「でさ、理央くん。この前、偶然会った俺のこと、覚えてる?」
「え、あ、あの……」
声が詰まる。
正直に言えば、はっきりとは思い出せない。あの時は、雪広に偶然会えた衝撃で、頭がいっぱいだった。
「覚えてるわけないだろ」
遮るように、雪広が言った。
「あの時は混乱していた。二年ぶりに、偶然会えた時だった」
少し間を置き、静かに続ける。
「……だが今は」
少し間を置き、静かに続ける。
「理央は、俺の恋人だ」
紹介ではなく、事実として告げる声。
堂々としていて、揺るぎがない。
「……っは、やっば」
司が遅れて吹き出す。
「おいおいおい。奏汰、聞いたか? これ」
肩を揺らしながら、笑いを噛み殺す気もない。
「雪広だぞ? あの雪広が恋人って言ってんだぞ? いやもう……愛ってすげぇわ」
「え、え……?」
奏汰は目を丸くしたまま、雪広と理央を交互に見る。
「ほ、ほんとに……あの雪広先生が…って感じはしますけど」
言葉を探しているうちに、声が小さくなる。
「……なんか、すごいですね」
率直すぎる感想に、司がまた笑った。
「いやいや、でもさ」
司は楽しそうに、今度は理央を見る。
「無事に会えてよかったよな。マジで。なぁ理央くん、雪広、この二年、相当だったんだぜ?」
その言葉に、胸がきゅっと締まる。
人混みで。
街角で。
似た背格好の人を見つけるたびに、雪広は立ち止まっていた。
そんな話を、淡々と聞かされる。
「……っ」
知らなかった。
そんなふうに、探されていたなんて。
恥ずかしさと、申し訳なさと、それ以上に、胸がいっぱいになって、顔が熱くなる。
視線を落としたまま、動けずにいると、何も言わず、雪広がそっと理央の背に手を添えた。
「気にするな、理央」
低く、落ち着いた声。
「今は、そばにいてくれる。それでいい。俺は、君がいるだけでいい」
迷いのない声だった。
「かーーっ! マジか!」
司の声が跳ね上がる。
両手を大きく上げ、信じられないものを見るように雪広を指差した。
「お前さ……その言葉、どの口で言ってんだよ。昔のお前が聞いたら、マジで卒倒するぞ?」
肩を揺らして笑っている。けれど、その目は冗談だけではなかった。
「……いや、ほんとだわ」
司はふっと息を吐くように言ってから、肩をすくめた。
「そこまで言わせる相手、初めてだろ」
「二年前なんて、人の気持ちはノイズだの、効率がどうだのって言ってた男がさ」
ちらりと、理央へ視線を向ける。
「いるだけでいい、だってよ。……いやもう、最高かよ」
「おい、司」
雪広が短く名前を呼ぶ。
けれど、司は止まらない。
「いや止まらん、止まらん。これは言わせてくれ」
大げさに胸に手を当てて、少しだけ声を落とす。
「理央くん。君、すごいよ。雪広をここまで変えたの、たぶん人生で初だ」
そして、にっと悪戯っぽく笑った。
「大事にされすぎてる自覚、ちゃんと持っときな?」
理央は言葉を探そうとして、結局見つけられなかった。
胸の奥がいっぱいで、声が出ない。
ただ、こくこくと、小さく頷く。
その瞬間、雪広は何も言わず、理央の背にそっと手を回した。
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