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温度4 考え事 (雪広)
司がパンを切り分けている間、雪広はソファに腰を下ろし、無意識に視線を理央へ向けていた。
奏汰と話している横顔。
___可愛らしい。
そんな感想が浮かんだことに、今さら驚きもしない。
「なあ、雪広」
パンナイフの刃をまな板に当てたまま、司が手を止めてこちらを見る。
切り分けられたパンの断面から、ふわりと湯気が立っていた。
「さっきの話、気になってたんだけどさ」
ソファに腰を預けたまま、雪広は視線だけを向ける。
「どれだ。なんの話だ」
「偶然会えたってやつ」
軽い調子だが、目は冴えている。
昔からそうだ。冗談めかしながら、核心を突いてくる。
「二年だろ? 連絡もなくて、場所も分からなくて。それで街でばったり再会」
「……ああ、そうだな」
答えながら、雪広は視線を滑らせる。ソファの反対側、理央と奏汰が並んで座り、小さな声で何か話している。
理央はすっかり緊張が解けた様子で、柔らかく笑っていた。
「それ、確率的にどれくらいだと思う?」
言われて、雪広はほんの一瞬だけ考える。
「単純計算なら、限りなくゼロに近い」
「だよな」
司は肩をすくめ、再びナイフを動かす。
「で? 本当はどうした」
探るような声だ。
雪広は視線を逸らさず、淡々と答える。
「何もしていない。確率を上げただけだ」
「出た!」
司が即座に吹き出す。
「やっぱり確信犯じゃねぇか!」
パンを皿に移しながら、声を上げて笑う。
「通る時間、エリア、頻度。全部計算して偶然に寄せていくやつ!」
「合理的だろ」
ソファに深く腰を沈めたまま、雪広は平然としていた。
「合理的すぎるんだよ!」
司はとうとう腹を抱えて笑い出した。
「はははっ、奏汰聞いたか? これが囲い込みの天才だよ。偶然を設計するタイプ!」
その声に、理央と奏汰も自然と会話へ引き寄せられる。
「え……? 確率で、そんな偶然を計算できるんですか?」
奏汰が、思わず身を乗り出して聞いた。目を丸くして、本気で驚いている。
「理論上はな」
司が肩をすくめる。
「まあ、普通はやらねぇけど」
そう前置きしてから、司は指先で空中に見えない線をなぞった。
「理央くんがよく出るエリア。通ってた動線。時間帯の重なり。それを前提条件に置けばさ」
その言葉を受けて、雪広が会話を引き取る。
「偶然は、完全なランダムじゃない。人の生活には癖がある。行動範囲、曜日、時間帯、すべてに偏りが出る」
ソファに腰掛けたまま、淡々と、けれど途切れずに言葉を続けた。
「その偏りを重ねていけば、再会の確率は上げられる。探し回るより、待つ場所を選ぶ方が効率がいい」
一度、言葉を切り、それから、静かに付け加えた。
「……会いたい相手なら、なおさらだ」
「で?」
司が、にやりと笑って続ける。
「計算すると、どれくらいだ?」
「一日あたり、3パーセント程度だな」
「低っ」
司が、即座に突っ込んだ。
「一日ならな」
雪広は声色を変えず、続けた。
「だが、それを30日続ければ、6割を超える。60日なら、8割以上だ」
司はまだ笑っているが、理央と奏汰は完全に言葉を失っていた。
「……でも」
奏汰が、ぽつりと口を開く。
「フランスにいたら、そもそも会えないですよね。その確率も、当たらない」
「そうだ」
雪広は、迷いなく即答した。
「だから、何かあったはずだと思っていた」
その言葉に、理央の視線が一瞬、こちらに向いた。
「理央さん、もしかして……『確率』って名前のパンもあったりします?」
奏汰が冗談めかして聞く。
「い、いえ……それはないですけど……」
理央は小さく笑って、首を振った。
「……けど?」
パン皿を並べながら、司がすかさず続きを促す。
「……『考え事』って名前のパンはあります」
少しだけ間を置いて、理央は続けた。
「カンパーニュなんです。噛みしめながら、ゆっくり食べるパンで…」
言いながら、無意識に視線が雪広の方へ向いていた。ソファに座ったまま、静かにこちらを見ている。
「雪広さん、いつも忙しいから。静かに噛みしめながら、考え事をする時間になればいいなって……」
ぽつりとこぼしたような言葉だった。
その言葉に、奏汰がぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり!雪広先生のこと思って作ってるじゃないですか!」
「そ、そういう意味じゃ……」
理央は少し困ったように笑って、視線を落とす。
「フランスで言われたんです。好きな人を思って作ると、味が安定するって」
指先を軽く組みながら、続ける。
「食べさせたいな、とか。今どんな気分かな、とか。そういうのを想像するのが大事だって」
「……あー」
司が、ふっと息を吐くように声を出した。
さっきまで笑っていたのが嘘みたいに、少し真剣な顔になる。
「それ、分かるかもな」
「司さん?」
「俺もさ」
司は包丁を置き、奏汰の方を見る。
「奏汰の味噌汁、好きなんだよ」
「えっ……ほぼ毎日、焦がしてますけど?」
奏汰が慌てて言うと、
「それがいいんだよ」
司はさらっと言う。
「味が薄かったり、ちょっと焦げ臭かったり。たまに、すげぇうまかったり」
「たまにって!」
奏汰が即座に突っ込む。
「でもさ、毎日食べるもんだろ?完璧じゃない感じが、俺は好きなんだ」
「……お前も、相当惚気るな」
雪広が静かに言った。
「人のこと、言えないぞ」
司は気にした様子もなく、軽く笑う。
「俺は最初からこうだ。態度も言葉も、ずっとはっきりしてる」
そう言ってから、ちらりと雪広を見る。
「お前みたいに、回りくどく囲わないだけだ」
その一言に、奏汰が吹き出し、理央は、顔を赤くしていた。
◇
「へぇ〜、そうなんだ。じゃあ、理央くんは、ずっとパン屋さんなんですね」
奏汰の声は明るく、自然だった。同い年だと分かってから、二人の距離は一気に縮まり、並んで座ったまま砕けた調子で話し始めている。
父の代から続いていたパン屋を一度閉めたこと。場所はそのままに、自分の店として新しくオープンさせたこと。今はパン屋の二階で両親と暮らしていて、開店当初は手伝ってもらっていること。
理央は、少し照れたように、けれど楽しそうに話していた。
__ああ、いい顔だ。
無意識に、そう思う。
「今度、行ってみます!」
奏汰が身を乗り出す。
「『考え事』ってパン、食べてみたいし」
「でっ! そこに〜?」
と、司がこちらを見て言った。
「お前は、通ってるってわけか」
「ああ……ほぼ毎日だな、通ってる。というか、生活の一部だな」
否定する理由もない。
「うわ〜… 変な客って思われねぇ?」
司は笑いを含んだ声で続ける。
「毎日毎日、現れる、でっかくて圧のある男だぞ?しかも両親いる店だろ?普通なら通報案件じゃねぇ? どう考えても怪しいだろ」
「いや、そんなことはないだろう」
視線を逸らさず、淡々と続けた。
「ご両親には、すでに挨拶している。俺のことは、もう知っているからな」
その一言で、空気が固まった。一瞬、時間が止まったような沈黙が落ちる。
それから、
「はぁっ?!」
司と奏汰の声が、ぴたりと重なった。
理央が慌てたようにこちらを見て、視線を彷徨わせる。
「おい、ちょっと待て」
司が身を乗り出す。
「知ってるって……どのレベルでだよ。名前知ってる、とかじゃねぇよな?」
「あ、挨拶……ですか?」
奏汰が恐る恐る確認する。
雪広は、わずかに眉を動かした。そこまで驚かれる話だとは、思っていなかった。
「そうだ。挨拶だ」
間を置かず、淡々と続ける。
「むしろ、しない理由が分からない」
「……なんて挨拶したんだよ」
司が、半ば呆然としたまま聞く。
「それは……理央を大切にしている。生活も、時間も、将来も引き受ける覚悟で付き合っている、と」
事実を並べただけだ。それでも司は、言葉を失ったまま固まっている。
「……それ、全部言ったのかっ?」
「言ったが」
「重っ……!そんで、はやっ!」
司が思わず頭を抱えていた。
「何をそんなに驚くんだ」
雪広は首を傾げる。
「お前だって、西島くんと一緒に住んでいるだろう。両親への挨拶くらい、しているはずだ」
「い、いや〜……」
司は視線を泳がせた。
「……まだ、かなぁ〜」
「まだなのか?」
「タイミングがさ……色々あるだろ」
「司」
低く名を呼んでやった。
「お前は、誠実じゃないな」
司がぎくりと肩を揺らす。
「好きな人の親に顔を出せない理由があるなら、先に片付けるべきだ。逃げているように見える」
感情を挟まない、淡々とした声音。
だからこそ、言葉はそのまま、司の内側に刺さるようだった。
司は口を開きかけて、すぐ閉じた。
反射的に出かけた反論を、一度飲み込んだのが分かる。
「逃げてねぇけど……」
語尾が、わずかに弱い。
雪広は、表情を変えずに返した。
「どうだかな」
司は小さく息を吐き、視線を上げた。
「で、雪広……」
少し間を置いてから、問いを投げる。
「お前、その勝算の確率は?」
半ば冗談、半ば本気な声で司が聞く。
雪広は少しだけ考えるように視線を落とし、それから、いつも通りの声で答えた。
「親に挨拶に行く。誠実に、具体的な覚悟を示す。相手が子を大切にしている親である前提なら__」
ほんの一呼吸置いた。
「承諾される確率は、8割を超える」
「……高ぇな」
司が思わず呟く。
「残りの2割は?」
「それでも反対される場合だ。だが、その場合は時間をかければいい」
まるで、最初から折り込み済みのように続けた。
「時間をかければ、9割5分までは上げられる」
司は一瞬、言葉を失っていたが、苦笑混じりに、首を振った。
「……お前さ、それ、もう計算じゃなくて覚悟の話だろ」
「同じことだ。好きな人を失いたくないなら、覚悟を決めればいい」
雪広は、静かに言い切った。
司は甘いブリオッシュを一口かじり、少しだけ噛みしめてから、ふっと笑う。
「……なあ、雪広」
視線だけこちらに向けて、続けた。
「そのうちさ、理央くんの店、行くわ」
「『考え事』、ちゃんと腰据えて食べるか」
奏汰も、楽しそうに頷く。
「一緒に行きましょうか。考え事、しなくちゃいけないですね」
冗談めかしたその言い方に、場がふっと和らぐ。理央は少し驚いた顔をしてから、照れたように笑った。
「……ぜひ」
その一言が、やけにあたたかく響いた。
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