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第2話

「ヤバい。本当に私のお客、瑠生坊に取られるかも……」  梅ちえが、ムンクの叫びのような仕草をする。 「やだー、可愛いわ瑠生坊。もう、私が水あげしちゃいたい」 「これ、里っ。いつの時代のこと言ってるの!」  今にもこぶしを振り上げそうな声で、椿が叱る。 「だってぇ、瑠生坊が可愛すぎるんですもの」 「芸妓がそんなこと言うもんじゃないの。けど、それにしても、瑠生。あんた本当は女の子なんじゃないの? 股間に付いてるもん、どっかで落としてきてない?」 「椿姐さんの発言の方が問題ありっ」  すかさず梅ちえが突っ込む。  綺麗に髪を結い上げ、上品に着物を着こなした椿が、キョトンとした顔でこちらを見る。  落ち着いて見える椿なのに、時々とんでもない天然をかます。  ただし、怒らせると一番怖い。桔梗よりも、だ。  その証拠に、梅ちえも里菊も、椿の前では少しだけ大人しくなる。  支度部屋の真ん中で、瑠生は振り袖姿のままちょこんと座っていた。  好き勝手言う姐さんたちに囲まれながらふと、桔梗の顔が浮かぶ。  あのとき見た、沈んだ表情。  ……あんな顔、初めてだった。  ──来週のたけだ屋のお座敷、芸者の人数が足りないんだ。  重いため息が桔梗の口からこぼれた。  瑠生はすぐに聞き返した。半玉の小桃(こもも)がいても足りないのか、と。  けれど聞いた瞬間、思い出した。稽古中に鳴った、小桃のスマホ。電話を切ったあと、泣きそうな顔で田舎に行ってくると言っていた。  静まり返った茶の間には、秒針の音だけが響いていた。  ──お得意様なんだ。だから、どうしても人数が要る。  その声が座卓に落ちたとき、もう、頷いていた。すると、目尻のしわをくしゃっとさせ、ほっとしたように桔梗が笑った。  あんな顔も、初めて見た。  鏡に映った半玉姿の自分を見ていると、椿がかつらの位置を整えてくれる。 「椿姐さん……」  縋るように呟いてみたけれど、紅筆を片手にっこり笑うだけだった。  紅を塗られている間も、頭の中は後悔の波で渦ができていた。  踊りは多分、いける。問題は、男だってバレたときのことだ。 「姐さんたち、面白がってるだろ」  自分の後ろに立つ姉さんたちを、鏡越しに睨んでやった。 「瑠生なら大丈夫よ。だって、可愛いもの」  気の抜けた声に、ますます気が滅入る。  初めての振袖に重いかつら。そこには桜のかんざしが揺れている。  鏡に映る半玉姿にため息を吐くと、梅ちえの嬉々とした声が降り注いできた。 「みんな、瑠生坊の名前は今日から『蓮香(らんか)』だからね。間違って瑠生って呼ばないように」  梅ちえが念を押すように言った。 「ねえねえ、梅ちえ。何で『蓮香』なの?」 「あ、俺も知りたい」  手をあげて言うと、梅ちえに扇子でその手を叩かれた。 「痛ってー」 「痛いのは蓮香がお馬鹿だからよ」 「何でだよ、俺はちゃんとやって──」  最後まで言わせてもらえず、また扇子で叩かれた。 「あんたが『俺』って言うからじゃない。やっぱり椿姐さんの言ったとおり、立方(たちかた)にして正解ね。この調子じゃ瑠生──じゃない、蓮香はボロを出すわ」  (しゃ)に構えた梅ちえに言われて、ムッとした。  三味線も太鼓も習ってないんだから、仕方ないだろ。 「ほんと、ほんと。瑠生坊は今日から女の子なのにねぇ」  まったりした声で里菊に言われ、心の中で、女じゃねーし、と逆らった。 「じゃ、みんなに教えとくね、『蓮香』の由来を。お客様に聞かれたらちゃんと説明してよ」  めいめいが最後の仕上げをしている中、梅ちえが着物の袂をめくった。そこから伸びた腕を胸の前で組んでいる。  姐さんたちに余裕あっても、こっちは綱渡りの心境なんだ。 「ふく里の庭に木蓮(もくれん)の木があるでしょ? 瑠生がこの置屋に初めて来たとき、この子を歓迎するように木蓮が満開でさ、すっごくきれいだったんだ」 「そう言えば、香りもすごかったの覚えてるわぁ」  里菊がうっとりと目を閉じた。 「あのときは、何ていうか、花の一輪一輪が大きくて、色も真っ白でさ。お座敷が終わって帰ってくると、いい香りがしてね。おかえりって、言う瑠生坊の顔と花が重なったんだ」  梅ちえの声に混じって、鼻を啜る音が聞こえてきた。 「待って。何で今そんな話するのよ、梅ちゃん。里が泣いてるじゃない」  ティッシュの箱を手に椿が言うと、瑠生は梅ちえと顔を見合わせた。 「だって里が聞きたいって。っていうか、椿姐さんも泣きそうだし」  芸者三人が、化粧が崩れるだの、鼻水が垂れるだのと騒いでいると、勢いよく襖が開いた。  一斉に振り返ると、目を釣り上げた桔梗がそこにいた。 「あんたたち、今日が大事な日だって自覚はあんのかいっ。さっさとお座敷に行きな!」  ピリッと七味が降りかかったように、着物の背中が伸びる。  慌てて姐さんたちのあとについて廊下に出ると、梅ちえがそばに来た。 「あとね、あんたの源氏名は蘭子さんをかけてるんだ。だから胸はって堂々と踊りなさい。あんたは花柳界伝説の芸者の孫なんだからさ」  梅ちえがそっと耳打ちし、瑠生にウィンクをした。  さっきまでの不安が梅ちえの言葉で少しだけ和らぐ。  今はしっかりと三和土(たたき)に立ち、背筋を伸ばせている気がした。  自分には心強い三人の姐さんたちがいる。きっと、大丈夫だ。 「さ、みんな背中を向けて」  全員が帯を桔梗に見せるように、背中を向ける。  無事を願う、切り火の音で身が引き締まる。  振り返って桔梗を見ると、目を細めて自分を見ていた。 「瑠生、姐さんがいるんだ。いつも通りに踊っておいで。頼んだよ」  目の端にしわを刻んで微笑むと、桔梗が肩をゆっくりと撫でてくれた  柔らかな温もりは、いつも気持ちを安心させてくれる。 「はい。いってきます」  自然と笑顔になると、瑠生はぽっくりの音を鳴らし、馴染みの料亭、『たけだ屋』へと向かった。

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