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第3話
履き慣れないぽっくりに足を取られながら、なんとかたけだ屋の数奇屋門 をくぐった。
玄関の引き戸を椿が開けると、山蔵英恵 が出迎えてくれる。
「こんばんは、女将さん。今日もよろしくお願いします」
椿が挨拶をすると、梅ちえや里菊も頭を下げた。慌てて瑠生も頭を下げる。
「こんばんは、今日も頼みますよ。おや、椿。このおぼこい半玉が例の子かい」
少し吊り上がった一重の目で、英恵が顔を覗き込んでくる。
「女将さん、精一杯務めさせていただきますので、よろしくお願いします。ほら、蓮香も」
椿に促され、瑠生は一歩前に出て深々と頭を下げた。
「蓮香と申します、よろしくお願いします」
深く下げた頭を上げる。慣れないかつらが重く、ぐらりと視界が揺れた。
「……この子、えらくべっぴんだね。幼い顔なのにどこかこう、妖艶というか、男がほっとかない顔をしてるよ。ほんとに男——とと、いけない、いけない」
ほとんど言ってるじゃんって思ったけれど、英恵の砕けた口調に肩の力が抜けた。
椿を先頭に、座敷へ続く廊下を歩く。
足袋で床板を進むごとに、心臓の音が大きくなった気がした。
「瑠生、大丈夫?」
前を歩く梅ちえが肩越しに囁く。
「う、うん……」
とは言ったものの、座敷の襖が近づいてくると、今すぐ、回れ右して逃げたくなった。
部屋の前に着くと、姐さんたちが襖の前で正座をした。瑠生もそれを真似る。
椿が襖をスッと開けて挨拶をした。ふわっと部屋の灯りが漏れて、瑠生の三つ指を照らす。
「待ってました」
威勢のいい声と拍手が上がった。
顔を上げると、目に沁みるほど鮮やかな景色が飛び込んできた。
豪華な座敷に、舞台。床の間には、満開の桜の花が生けてあった。
煌びやかな雰囲気に圧倒されていると、視線を感じた。
左右のテーブルには、スーツ姿の男性たちが並んでいた。彼らの目が探るように自分を見ている気がした。
姐さんたちが順に挨拶していることにも気づかず、全身をこわばらせていると、里菊に肘で突かれた。
「ら、蓮香と申します。本日はよろしくお願いいたします」
声が上擦ってしまった。恥ずかしいけれど、俯いているわけにはいかない。
ゆっくり顔を上げると、一斉に注目を浴びた。
「ほー、これは器量良しばかりだね。いやぁ、絶景だ」
舞台に一番近い左の席に座る、かっぷくのいい男性が叫ぶ。
入り口から一番遠い席──つまり、あそこが上座だ。
瑠生は、椿に教わったことを頭の中でなぞる。
お客は全員で五名。
上座から順に客の顔を見ていく。そのとき、入り口に一番近い席の若い男性と目が合った。
センター分けの前髪は緩くウェーヴがかかり、首に沿う長めの襟足に、つい目がいく。
キリッとした眉毛は上向きに揃えられ、切長の奥二重を引き立てている。
若い男性を見続けていると、薄い唇で笑われた。
慌てて視線を逸らし、他の客へと目を向けた。
眼鏡の人、青いネクタイ、赤いネクタイ……よし、覚えた。
椿を一瞥すると、客と話しながらお酌をしている。
……そっか、お酌か。
ふと、下座の男性が手酌しているのが目に入る。瑠生は彼のそばに移動すると、横に座った。
……まず話だよな。けど、何を話せばいいんだ?
女の人との会話は慣れているけれど、大人の男性とどんな会話をすればいいんだろう。
戸惑っていると、眼鏡の客に肩を抱かれた。
「ちょっとみなさん見てくださいよ、この半玉ちゃん、えらくきれいじゃないですか?」
そのひと声で、全員の視線が瑠生に集まった。
「これはまた美しいね。桃色の振袖に赤い肌襦袢 がちらりと見えて、白塗りの首筋が唆られるなぁ。幼いのに色っぽくて、この子は将来有望な芸者なるね」
「確かに。何とも可愛らしい。まだ十代でしょ? 先が楽しみですねぇ。吉田会長、この子はほら、あの神楽坂で有名だった蘭子を思い出しませんか?」
青ネクタイの客が前の席からこっちを覗き込んでくる。
次々と向けられる賛辞に耐えきれず、椿を見た。視線でヘルプッ、と訴える。
「蘭子と言えば好いた男と一緒になるって、あっさり花柳界から身を引いたよね。芸者衆のてっぺんに君臨していたのに潔かったが、その陰で熱鉄 を飲んだ男が何人いたことか」
「確かに。でも会長、蘭子が去ったあと急に神楽坂の料亭、えっと何て言いましたかね。ああ、そうだ。九重 だ。あそこが急激に成長しましたよね」
赤ネクタイの客が声高々に言う。
「神楽坂といえば、九重の名を挙げない者はいない。あ、沖君は若いから知らないだろうが、先代がいたころから今も大人気なんだよ、九重は」
眼鏡の客が下座に視線を向けると、沖と呼ばれた男性は手にしていたお猪口を置いた。
「存じておりますよ。何でも、今の主人が凄腕だとか」
沖が笑顔で応えていた。
「さすがだね沖君は。学生のときから、ホテルや旅館の合併や売買を手掛けてきただけある。お爺さんが生きていたらさぞ喜んだだろう。今や一国一城の主人なんだから」
会長が酒を呷って言った。
「会長は沖君のお爺さんと知り合いだったんですよね? それが今回の案件を彼に任せた理由ですか?」
「私も意外に思いましたよ。花柳界の現状視察に、吉田会長が畑違いの沖君を指名したのは」
赤ネクタイの客が首を捻りながら言った。
「私がまだ駆け出しのとき、沖君のお爺さんにはよく助けてもらったんだ。上の人間は舌が肥えててね、接待するのに彼のお爺さんの店に随分無理を言ったもんだ」
「ああ、知ってますよ。漁港の近くの小料理屋でしょ」
眼鏡をクイっと上げながら得意そうに言う。
「彼のお陰で私は会長になれたと言っても過言じゃない。その孫の沖君も今じゃ、客と客を繋げていくつもの企業を救ってる。立派だよ」
会長のお猪口が空になると、椿がスッと徳利 を差し出す。絶妙なタイミングだ。
真似しようと瑠生が徳利に手を近づけると、同じ仕草をした沖の手と触れた。
「す、すいません」
慌てて手を引っ込めた。一瞬、重なった指先が火傷したように熱い。
そのせいで、沖がまた手酌している。手を出そうか迷っていると、お猪口に口を付けながら微笑まれた。
全身の血が一気に熱くなり、咄嗟に俯いてしまう。
肌の下から心臓が激しく叩いて、顔を上げられない。
「沖君の手腕には惚れ惚れするよ。交渉術にも長けているし、多様な職種に顔も広い。何より冷静だ。まだ二十六歳なのに、大したもんだ」
「だから今回の視察には打って付けだということですな」
「そういうことだ。会社の経営者にもなると忙しいだろうに、付き合ってもらって悪いね。あとは神楽坂だけだから頼むよ」
会長たちに絶賛される沖が気になり、顔を上げてこっそり沖を見た。
褒められても同時ない横顔を、つい、見つめてしまう。
……あれ、この人、どっかで見たような気がする。
記憶中の引き出しを探したけれど、思い出せない。
きっと自分の勘違いだ。そう、言い聞かせていると隣から柔らかい声がした。
「私の方がお礼を言いたいです。こんな青二歳に貴重な仕事の参加を許してくださって。それにたくさん褒めていただけて励みなります」
沖が姿勢を正し、頭を軽く下げている。その横で、瑠生は首を傾げた。
青二歳? どういう意味だろ。
考えていると、赤ネクタイの客が向かいから徳利を差し出してきた。
「仕事の話はこの辺にして飲みましょう。半玉ちゃん、お酌しておくれ」
こっちに来いって意味だろうか。
瑠生が腰を上げかけたとき、振袖の袖口から入ってきた手で手首を沖に掴まれた。
な、何でこの人、手首を握ってくるんだ?
沖を見ると、何事もないような涼しい顔で酒を飲んでいる。
目の前では、赤と青のネクタイの客が、手招きしてくる。でも、瑠生の手は見えない場所で拘束されている。
どうしていいかわからず視線を泳がせていると、椿と目が合った。
視線で合図をくれたけれど、椿より先に動いたのは、沖だった。
「吉田会長、そろそろ芸者さんの踊りを見たいと思いませんか」
沖が上座に向かって会長に話しかけた。
「そうだな。今日はそれを一番楽しみにして来たんだ。ふく里の芸者は一級品だからね」
会長がクイっと酒を呷ると、それが合図のように椿が腰を上げた。
三味線を抱えて椿が舞台の隅に座ると、梅ちえと里菊も舞台に立った。瑠生も二人の横に並んだ。
舞台から、ふと、沖と目が合う。
椿でも梅ちえでも里菊でもなく、その視線は自分に向けられていた。
眼差しを全面に受け、扇子を持つ手が震える。
それでも三味線と里菊の歌が聞こえると、震えが止まって体が勝手に動いていた。
踊りを終えて挨拶し終えるまで、瑠生は沖の視線を浴びていた気がする。
けれど、踊っていると集中して最初より気にはならなかった。
芸を披露したあとも、微笑んだり相槌を打ったりして、どうにかこうにかお座敷はお開きを迎えた。
会長たちを見送るため、姐さんたちが廊下へ出ていく。
瑠生もあとに続こうとした。けれど、部屋にはまだ沖が残っている。
沖が出るまで待とう。
そう思ったとき、沖が瑠生に手を差し出してきた。
握手?
応えるよう手を伸ばした瞬間、手首を掴まれて沖の方に引き寄せられてしまった。
戸惑っていると、握られたままの指先を沖が撫でてくる。
何してんだ、この人っ。人の指ばっか触って!
カチンときた気持ちを我慢し、文句を喉の奥に押し込めた。
困ったときの微笑み戦法で挑むと、沖の目が細められ、手が緩む。
離してくれた。これで帰れる。
ほっとした瞬間、今度ば頬を撫でられて叫びそうになった。それを唇を噛んで我慢する。
こんなこと、芸者の世界ではあるあるなのか? お触りって自由なの!?
ぐるぐる考えていると、沖の手が止まった。頬から離れそうな気配。
逃げるなら今だ。そう思ったけれど、できない。
あからさまに嫌がった素振りをすれば、せっかくの座敷が台無しになる。
とにかく笑顔だ。対処法は、これしかない。
もー、早く部屋を出て──
心の中で叫んだとき、突然、身体が引っ張られて沖に抱き締められた。
身体を閉じ込めるように、沖の腕が背中に回ってくる。けれど、その手は帯に阻まれていた。
すると、沖の腕が下へと移動してうなじに触れてきた。
もう片方は腰に回され、さっきより力がこもって胸に引き寄せられてしまう。
抱き締められてる? こんなのも芸者の仕事なのか!
瑠生よりずっと背も高く、胸板も厚い。小さな身体はすっぽり包まれてしまった。
……椿姐さん、こんなことされるって、聞いてないよ。
もがくように動いても、沖の体はびくともしない。
胸と胸の隙間を埋めるよう、力を込められていると、ふわっといい香りがした。
大人な香りと温もりに戸惑っていると、
「蓮香……」
耳元で名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。
頬に触れられた途端、信じられないことを言われた。
「君の化粧を落とした顔を見せてくれないか。できたら違う着物を着てるのも見たい」
一瞬、耳を疑った。
……この人、今、なんて言った? 違う着物ってなに?。
呆気に取られていると、また手を握られ、しげしげと眺めている。
ヤバい……この人、絶対、ヤバい人だ。
逃げ出す方法を考えていると、廊下から会長の声が聞こえてきた。
「おーい、沖君。車はすぐ来るのかー」
不意に沖の手が離れると、そのまま何も言わず座敷を出て行ってしまった。
取り残された瑠生が呆然としていると、心配した梅ちえが迎えに来てくれた。
「瑠生——じゃないや、蓮香、帰るよ」
「は、はい……」
取り敢えず返事はしたけれど、頭の中は怒りでいっぱいだった。
化粧を取った顔って……おまけに、違う着物って。あの沖って人、何を考えてるんだっ。
怒りが足音に出そうになり、慌てて足袋を滑らせるように歩く。
半衿 を整えていると、そこから沖の香りが立ち上がった。
腹が立っているはずなのに、その香りはどこか心地いい。
そっと自分の頬に触れると、やけに熱い。
瑠生は自分の手をもう片方の手で隠すと、沖が去って行った廊下を見つめていた。
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