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第4話

「瑠生ぼー、お稽古行くよー」  土曜の朝。一階から梅ちえの声が響いた。 「ちょっと待っててー」  いつもなら誰よりも早く準備しているはず。なのに、今朝は寝坊してしまった。  昨夜のお座敷で会った男の顔が、どうしても頭から離れなかった。  日付けが変わるまで何度も寝返りを打ち、いつの間にか枕を抱えて眠っていた。  飛び起きたら稽古に行く十分前。慌ててパジャマを投げ捨てた。  寝坊したのはあの変なイケメンのせいだ。  素顔を見せろだなんて、半玉相手に言う言葉じゃない。  手まで握ってきたり、おまけに抱き締められ── 「あーっ!」  忘れろ、忘れろ。もう、二度と会うことなんてないんだから。  ぶつぶつ言いながら、着物を着て部屋を飛び出した。  階段を駆け下り、薄暗い廊下を走りかけ、その足にブレーキをかけた。  足袋のせいで危うく滑りそうになる。  いけない、いけない。走ったらまた桔梗に叱られる。  着物の裾を整え、瑠生は静々と歩いた。  いつも同じ場所できしむ廊下。畳の匂い。居間のボンボン時計。全部大好きだけれど、一番は庭の白木蓮。  外から帰ると苔の生えた門をくぐり、竹で作られた門扉を開けて飛び石を歩く。  一旦そこで足を止めてしまうのは、庭に植えられた白木蓮を見たいから。  五月には真っ白な花が上向きに咲き、甘く上品な香りが庭中に広がる。  瑠生が初めてここへ来たときは、ちょうど満開の時期だった。  母を失った悲しみで折れそうな心を、白い花と香りに慰めてもらった気がした。  梅ちえが蓮香と名付けてくれたことも頷ける。  キシキシ音を鳴らし、台所に着くと梅ちえがお茶を啜って待っていた。 「遅いよ、瑠生坊。もしかしてまだ寝てた?」 「おはよう、梅ちえ姐さん。ちゃんと起きてたよ」  言い訳をしながら、ご飯をラップの上に盛る。梅干しと塩昆布を乗せて、おにぎりを作って頬張った。 「……ふーん。けど、今日だけは寝坊しても怒られなかったかもね」  湯呑みにお茶を注ぎながら、梅ちえがにやりと笑った。 「何でだよ」  豆腐の味噌汁を飲み干すと、瑠生はお椀を流しに置いた。 「昨日、あんたが頑張ったからよ」  さっきのニヤけ顔とは打って変わり、梅ちえがにっこりと微笑む。  たまに見るこのギャップが人気の証拠かもしれない。 「なーんだ。焦って損した」  お茶を飲もうとしたら、額を指で突かれた。 「やっぱ寝坊したんだ」 「へへ、バレたか」  笑って見せると、梅ちえが真顔になった。 「お座敷終わったあと英恵さんが言ってたけど、昨日のお客が帰り際に来週の予約入れて帰ったんだって」 「え! もう? 凄いじゃん。さすが、姐さんたちだ」  褒めたのに、また額を突かれた。 「凄いのはあんたよ、瑠生」 「俺? 何で」 「ほら、一番若いイケメンのお客いたでしょ。例の雑誌に載ってた!」 「雑誌?」  首を傾げたら、梅ちえが盛大なため息を吐いた。 「あんた、もう忘れたの? 昨日、お座敷の前に一緒に見たでしょ。イケメン社長の記事を」 「見たけど……え、あれ、同じ人?」  梅ちえが、がくっと肩を落としている。 「ったく、やっぱあんたはまだ子どもだわ。なのに、その若社長が『蓮香』を指名して予約入れたのよ」  瑠生はまぶたを二、三度瞬きした。数秒後、梅ちえの言葉が脳に到達した。 「えー。無理! 無理だよ、またお座敷なんて! 姐さん、断ってくれたよね」  一瞬、沖の顔が脳裏をよぎる。胸が、とくん、と鳴った。けれど、その高鳴りは、沖の言った言葉を思い出して吹き飛んだ。  ──君の化粧を落とした顔を見せてくれないか。  やっぱ無理! また、変なことされたら今度は素が出てしまう。 「大丈夫。英恵さんが、難しいですねって言ったんだって」  ほっと胸を撫で下ろす。 「でもまた、聞いてくるかもね。蓮香のこと、気に入ったみたいだし」 「そんな、困るよ」 「あはは、ふく里の売り上げに貢献してね、蓮香」  背中を叩かれ、食べたおにぎりが飛び出しそうになる。 「おはよ、瑠生坊。今日もお稽古行くのね、偉い偉い」  里菊が珠暖簾(たまのれん)から顔を出す。笑うとできる、ふくよかな頬のエクボはお客の癒しになっているらしい。 「あら、あんたたちまだいたの? 遅刻したらお師匠さんに怒られるわよ」  里菊の後ろから凛とした声が聞こえた。  綺麗に髪を結い上げ、着物を着こなす椿が、優しく諭す。  学校のある日は慌ただしい朝も、休日はこうしてみんなと話せる。  この時間が瑠生は好きだった。 「はーい。じゃ今日も見番(けんばん)へ行くとしますか」  梅ちえがお茶を飲み干すと、風呂敷を抱えた。 「そうそう。見番といえば、あの床板、どうするのかしらね。修理代、高いんでしょう? 畳も替え時だし、何かと物入りねぇ」  里菊が瑠生の頬についた米粒を取りながら言う。  そっか。そんなに傷んでたんだ、あそこ。  料亭と置屋を取り次ぐ大事な場所なのに、使えなくなったら困る。 「そればっかりは、私らにどうすることもできないね。瑠生坊、用意できてる?」 「……れき、へる」 「食べながら返事するんじゃない。ほら行くよ、里も」  梅ちえ、里菊のあとに瑠生も続く。椿が行ってらっしゃいと言ってくれた。  玄関で草履を履きながら、ふと思う。  姐さんたちとの、たわいもない会話。朝の挨拶、寝坊を叱ってくれること。  そんな些細な出来事が、家族を失った瑠生を幸せにしてくれた。 「瑠生坊、ほら、ちょっと早足で。遅れるよ」  梅ちえに声をかけられ、瑠生は着物の裾をはためかせて走った。  まだ自分は子どもだけれど、いつかきっと彼女たちを守れる男になる。  だから、稽古も学校も手を抜かない。  二人の背中を追いながら、瑠生はこぶしを握り締めた。

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