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第5話
稽古場へ来るたびに思う。
踊りも唄も鳴り物も、何百年も前から続いてきた芸だ。
お客に見えるのは数分の踊りだけ。けれど、その数分のために芸者たちは何年も稽古を重ねる。
姐さんたちもそうだ。
毎日同じ稽古を繰り返し、それでも手を抜かない。本当に凄いと思う。
……俺も、少しは姐さんたちのように出来てるのかな。
男の自分が芸事──しかも、踊りに惹かれるなんて、思いもしなかった。
お客に気持ちよく過ごしてもらうために努力する。それは、母の仕事も芸者も同じだ。
ホテルの仕事に誇りを持っていた母を、かっこいいと思った。
最初はただ、母から聞かされる祖母の話に興味があっただけだった。
それを見てみたいと思っていただけなのに、気がつけば扇を返す指先も、爪先の向きも所作も、全部が好きになっていた。ふく里で暮らすまで知らなかった世界。
けれど、楽しいことばかりじゃない。稽古はやっぱり厳しい……
わざとなのか、癖なのか。萩巣宇多 が扇子を開いたり閉じたりしている。その音が止むまで瑠生の心臓は落ち着かない。
パシッと、風を切るように扇子が閉じられた。
「中々いい出来だ。やっぱり蘭子さんの血は争えないねぇ」
背筋をピンと伸ばした姿勢で、宇多が瑠生を見てくる。
宇多の言葉で、身体の骨が一気に抜かれたように弛んだ気がした。
「ありがとうございますっ」
正座をして指先を揃え、瑠生は畳に深く頭を下げた。
「ただねぇ……」
……来たっ。
褒めるだけで終わらないのがわかっていても、この瞬間は慣れない。
「瑠生の踊りは美しいけど、下半身が頼りない。反対に上半身、特に指先の所作はいい。腰をもっと落とす練習をしなさい」
宇多に注意されるのはいつも下半身だ。前にこっそりスクワットを試してみたけれど、腰を落とすたびに体が揺れて思う通りにできなかった。
「それと、あんたには色気がない。やっぱり中学生にはまだ早いか」
結ったグレイヘアの後毛を整えながら、宇多がスッと立ち上がり、肩越しに振り向く。
その動きのなめらかさに、思わず息が止まった。
……体のどこをどう使えば、あんな色気が出るんだろう。
七十は過ぎているのに、色っぽい。それに比べて──
「お師匠さん、その前に瑠生坊は男の子ですよ。もしかして、忘れてません?」
梅ちえに言われ、宇多が今、気付いたように大袈裟に目を見開く。
いや、前から知ってるだろっ! と、叫びたくなった。着物だって、男物なのに、と。
「師匠、そのネタ、もう飽きましたよ」
瑠生のダメ出しに、宇多がつまらなさそうな顔をする。
ウケが欲しいなら同じネタはやめた方がいいと、心の中でさらにツッコんでしまった。
宇多は、藤宮流 の師範として全国に名の知れた人だと桔梗に聞いた。
初めて宇多を前にしたとき、足が震えたのを今でも覚えている。
普段は冗談ばかり言っているのに、稽古が始まると声の調子まで変わる。
その瞬間、誰もが息を止める。瑠生も例外じゃない。
「瑠生は珍しいよね、男の子なのに芸者──しかも踊りに興味を持つなんて」
「俺、笛も好きだよ。上手く吹けると嬉しい」
休憩中、みんなで大福を食べていると、瑠生は振り返って言った。
すると、里菊がくすくすと笑いだす。
「なぁに、瑠生坊、そのお顔。また半玉にでもなるつもり?」
まったりした口調で言われ、瑠生は鏡台までにじり寄ると、自分の顔を鏡で見た。
「うわっ、ほんとだ。真っ白」
鏡の中の自分に思わず顔をしかめた。そこには、大福の粉を口の周りにつけた自分がいた。
「そのまま顔全部真っ白にしてお座敷デビューしたら? あの、若社長みたいに、あんたのファンが大勢できてうちの置屋も儲かるってもんよ」
一瞬、沖の顔が浮かんだ。
自分に触れてきた指先を思い出し、かき消すようにティッシュで口元を乱暴に拭った。
瑠生はスクっと立ち上がると、着物のしわを伸ばしたあと、梅ちえの前で仁王立ちした。
「そんなに俺を虐めると梅ちえ姐さんのお客、俺がみんなメロメロにしてやるからな」
好き勝手に言う梅ちえを懲らしめるよう、腰に手を当てて見下ろした。
「それはやめて、本当になりそうだから」
大袈裟に泣いて縋ってくる梅ちえを見て、宇多と里菊がお腹を抱えて笑っている。思わず自分も笑ってしまった。
こんな穏やかな日々を、母を亡くしたときにはもう味わえないと思っていた。
親戚中に拒まれた瑠生を、友人の孫ってだけで引き取ってくれた桔梗。
桔梗を、ふく里を、絶対に大切にしよう。そう思わずにはいられなかった。
梅ちえに軽口を叩かれ、里菊の笑い声に包まれる。名高い師匠から稽古もつけてもらえて、瑠生はこの幸せがずっと続くことを心から願っていた。
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