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第21話
たけだ屋で一番上等の座敷の襖を椿がスッと開けると、談笑していた男性陣の視線が一斉に芸者へ向けられる。
椿が挨拶を済ませると、順に部屋に入って行き、自己紹介を済ませた。
声が少し上擦ってしまったけれど、姿勢を意識して顔を上げた。そして、一人分の席が余っていることに気付く。
一人来ていない。キャンセル? いや、でも配膳の用意はしてある。
ただ遅れてるだけかと思い、瑠生は空席を意識せず、腹に力を込めた。
上座には沖が座っている。
向かいの席には、二人の男性客があぐらをかいてこちらを見ていた。
限られた時間内でお客様を楽しませるため、心地よく過ごしてもらうため、想像力を働かせて全力を尽くす。
瑠生は袖の中で握ったこぶしに力を込めた。
買収を阻止するとはいえ、客をもてなすことに手は抜かない。
顔を上げると視界の端に、沖の視線が刺さる。目を合わせたら見透かされそうな気がして、瑠生は畳に視線を落とした。
乾杯から始まり、歓談しながらお客が食事を始めると、姐さんたちはお酌や、会話をするために客の横へと並ぶ。
半玉の瑠生は、下座に座る客に付くのだと思っていた。けれど沖が椿を呼び、何か耳打ちをしている。
「蓮香、あなたは沖様にお酌をお願い」
耳元でそっと指示を出された。
瑠生は瞳で椿に文句を言う。『何で、バレるじゃん!』と。
椿の瞼が頷くようにゆっくり閉じて開く。『しっかりおやんなさい』と幻聴まで聞こえてきた。
蓮香を是非にと言ってきたくらいだ。こうなることは、頭の隅っこで覚悟していた。
諦めて立ち上がった瑠生の姿を見て、男たちの視線の温度が上がるのを感じた。
「へー、これは美しい。沖が指名するのも無理ない。いやいや。なるほどな」
「本当、本当。すごく蠱惑敵だ。あとでこっちにも頼むよ。いいだろ、沖」
砕けた話し方からして、どうやら沖と他の客は気心知れた仲なのがわかる。
「それは遠慮してもらおうか。蓮香はずっと僕の横にいてもらう。悪いな」
沖が独占を宣言をするものだから、瑠生の作戦が狂ってしまった。
男だとバレないよう、一箇所で長く留まることを避けようと考えていたのに。
落胆を顔に出さず、瑠生は沖の横にゆっくりと腰を下ろした。
よろしくお願いします、と囁くように言って頭を下げる。
うまく声は出せた、と思う。その証拠に沖は「ああ」と呟いておちょこを手にした。
……あ、お酌か。
すかさず瑠生はお銚子を手にして酒を注いだ。
沖が酒を飲む。瑠生が注ぐ。三度ほど続けても、沖は何も話さない。ただ、何かを測るように静かだった。
……『蓮香』に会いたかったんじゃないのか?
それとも、蓮香が男だと気づいてる?
いや、大丈夫。バレてたらもっと態度に出るはずだ。
沖の顔色を窺っていると、廊下からバタバタと足音が聞こえてきた。
慌てた音をそのまま襖にぶつけるよう開かれると、「すまない」と、叫びながら男が飛び込んできた。
遅れて来た男性の姿を見て、瑠生はお銚子を持ったまま固まってしまった。
……か、神楽さん!?
素顔の瑠生を知る人物が増えた。そのことに瑠生の指が小刻みに震えてくる。
「神楽、遅いぞ。もう先にやってる」
友人の一人がおちょこを掲げると、神楽が下座に座った。
「いやー、参ったよ。乗ったタクシーの前で玉突き事故するから、渋滞で遅れたんだ。すまないな、沖。せっかくの宴会に」
「いや、かまわない。今日は同窓会みたいなもんだ。それに僕は、半玉に会いたかったからな。お前らを呼んだのは口実だ」
涼しい顔をする沖の横で、瑠生の心臓はバクバクしていた。
お客四人のうち、二人は『男の瑠生』と会っている。
さっきまでの余裕はあっという間にたち消え、お銚子もまともに掴めない。
動揺する瑠生に気付いた沖が、「緊張しているのか」と、耳元に囁いてきた。
顔を寄せられると、大人の香りが鼻腔をくすぐった。
心臓の音が一瞬だけ消えたように感じると、代わりに、沖の吐息が耳の奥に触れて熱がゆっくりと全身に広がる。
だめだと思うのに、体が逃げない。
喉を絞って、「いえ」と何とか答えたら、手からお銚子を奪われた。
えっ、と沖の顔を見ると、優しげな眼差しがそこにあった。
「座敷は久しぶりだろう。自分でするから、君は横にいてくれるだけでいい」
極上の甘い声で言われると、耳だけじゃなく、風邪をひいたみたいに頬が熱くなる。
──相手の顔を見ないのは失礼だよ。けど、長く見すぎるんじゃないからね。
梅ちえに言われていたことを思い出し、思わず俯いた。すると、沖に手を引き寄せられ、震えをなだめるように親指が指先を撫でてくる。
その動きが鼓動の速さを確かめているように思えて、まともに息が吸えない。
視線が離れない。目を逸らした瞬間にバレる気がした。
自分の精神状態とは反対に、沖は無口で静かだった。
会話が弾まなくても、本人だけだはなく友人も気にしていない。おまけに沖は、『蓮香』が、久しぶりのお座敷で緊張していると思っている。
よし、作戦変更だ。
ここは無理に会話を広げなくても、頷いたり微笑んだりしていればいい。
「おい、沖。お前だけが半玉を独占するのはどうかと思うぞ」
神楽の声が座敷に広がると、瑠生はハッとして神楽を見た。向こうも瑠生を見ていたのか、二人の視線は絡まり、瞬きもせず重なる。
やばい、バレる!
気合いと根性と、笑顔。それとあとは神頼みしかない。
なるべく自然に目線を下げ、瑠生はそっと微笑んだ。
「それは無理だ。第一、お前みたいに手の早い男のそばに蓮香はおけない。それに今日は、いや、この先も僕がここに来るときは、必ず蓮香には横にいてもらう。そう、約束してあるからな」
「この先の予約? 随分と景気がいい話だな。接待でもないのに高級料亭を何度も利用しようなんて、さすが一国一城の主人だ」
友人の一人が言うと、もう一人の男性も、本当になと、援護射撃してくる。
「約束ってなんだよ。俺は聞いてないぞ。もういい、俺がそっちへ行く」
言いながらもう、神楽が立ち上がって瑠生の横にどかっと座ってきた。
神楽が近い。しかも、顔を覗き込んでくる。何か、気を紛らわせることをしないと。
救いを求めるよう椿を見ると、彼女はもう、立ち上がって三味線の用意を始めていた。
さすが、椿姐さんだ。
「ではお食事も中盤でございますので、そろそろ踊りを披露させていただきますが、よろしいでしょうか」
椿の声で友人の一人が、「よ、待ってました」と掛け声を飛ばす。
その声に引っ張られて拍手が沸き起こった。
二人のそばから離れらる。そう思った瞬間、安堵のため息が出そうになった。
瑠生がごまかしながら立ち上がると、所定の位置について椿の演奏を待つ。
梅ちえを里菊と挟むように立つと、三味線の音色に耳を傾けた。
指先から足先まで意識し、師匠や桔梗に言われたことを忠実に守る。
不思議と踊っていれば不安は消えていた。沖と神楽からの視線を除いては。
二人の瞳の色は他の客と明らかに違う。
沖は見守るような、包み込むような眼差しだ。けれど神楽のソレは、確かめるような鋭さを感じた。
瑠生はなるべく神楽から見えないように振る舞う。尽きない不安を隠すように。
踊りを終えて沖の横に座ると、神楽も同時に席を立った。
そうして瑠生は、また二人に挟まれる形になる。
率先して会話を展開する神楽からは、踊っていたときに感じた視線は消えていた。その代わりに、初めて出会ったときのように、無邪気な顔を見せてくれる。
おかげで瑠生の緊張は、僅かに解けていった。
宴会は滞りなく進み、怪しまれることもなく無事終了。
よし、あとはお見送りだけだ。
姐さんたちはお客と一緒に、送迎車のところまで行ってしまった。瑠生も一緒に行きたかったけれど、沖に引き止められてまだ部屋に残っている。
そう言えば……と、初めて出会ったときのことが浮かんだ。
あのときも沖は帰ろうとしなかった。でも、あれは目上の人を接待していたからだ。
沖の肩にジャケットを乗せようとしたとき、背中を向けたままの沖に手首を掴まれた。
百八十センチ以上ある沖に腕ごと引っ張られ、体のバランスを失って倒れそうになった。そこにもう片方の手で腰を抱えられると、一瞬、宙に浮いたような感覚になる。
まるで社交ダンスのように、沖の正面にクルッと体を運ばれた。
一連の流れに目を見張っていると、そのまま無言で体を抱き竦められた。
沖の胸にすっぽりと閉じ込められ、沖の香りが濃く香ってくる。
……まただ。このスキンシップは、当たり前のことなのか?
もがいていると、耳たぶに吐息が触れる。
「ずっと君に会いたかった。待った甲斐があったな。相変わらず、美しくて愛くるしい」
上質な声音が耳に囁かれる。あまりの心地よさに酔いそうになっていると、もう一人の自分が叫んだ。お前は男だと。
沖は蓮香と思っている。自分は沖を騙してることになる……
沖に対して初めて罪悪感が生まれた。
ずっと探していた半玉が男だと知れば、絶対にショックを受ける。
申し訳ない気持ちでいると、「痛っ」と、頭の上で声がした。
そろっと顔を上げると、沖が顎を撫でている。
そうか。簪が刺さったんだ。
瑠生は手を伸ばすと、沖の顎に触れた。赤くなった肌を指先でそっと撫でてみる。
「ごめんなさい。大丈夫ですか……」
傷の心配をしていると、熱っぽい目で見下ろされた。
「……蓮香」
名前を囁かれるのと同じタイミングで、顎に置いていた手を取られる。
大きな手の中に包まれ、指先同士が絡み合う。
「あ、あの……」
戸惑っていると、沖の唇で指を喰まれた。
湿った熱が触れたところから、体の奥に火が灯るような感覚。
呆然としていると唇が離れ、指先のほくろをなぞられて思わず息が漏れる。
指を引っ込めようとしたら、もう一度、指のほくろに柔らかい口づけが落とされた。
沖の唇が瑠生の指から離れるのを惜しむよう、甘い愛撫が繰り返される。
指先だけなのに、どうしてこんなに身体が疼くのか。
胸の奥がじんじんして、息を吸うたびに熱が広がっていく。
沖の瞳から目を離せずにいると、腰を支える手に力がこもった。
沖の胸にもたれかかるような形になり、瑠生の耳に心臓の音が流れ込んでくる。
……沖さんの鼓動、早い。でもこれって、俺じゃなくて、蓮香に触れているから?
そう思った瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
沖が抱いているのは、男の自分じゃない。『蓮香』なのだ。
それが分かった途端、どうしようもなく苦しくなった。
打ちひしがれていると、沖に顎を掴まれて互いの唇が触れそうになる。
吐息が触れ合ったそのとき、「おい」と、声がして二人の体は、パッと離れた。
振り返ると、ふすまに寄りかかって腕を組む神楽がこちらを見据えていた。
「沖、何をしている。タクシーが来てるぞ」
初めて聞く低い声の神楽は、沖に鋭い視線を向けている。
さっきまでの柔らかな顔とは別人のように、神楽の目は釣り上がっていた。
その目がゆっくりと瑠生をなぞったかと思うと、目の前に来て沖の手から引き剥がされた。
「あのっ……」
「君の指はきれいだな。それにこのほくろ、〝相変わらず〟可愛くて好きだよ」
指先を撫でながら、神楽は上目遣いで微笑んできた。
〝相変わらず〟という一言が、細い矢のように胸に突き刺さる。
神楽を見ると、口角がゆっくりと上がった。
その瞬間、終わったと思った。
瑠生は声を上げたくなる衝動を抑え、沖を見た。すると、冷ややかな眼差しで自分を見てくる沖と目が合う。
途端に、瑠生の頭の中がすっと冷えていった。
もう……だめだ。
やっぱり無理だったんだ。男が半玉のフリでやり過ごそうなんて。
必死で保っていた心の支えは、音もなく崩れ落ちた。
砕け散った破片が、足元に散らばっている。
足がすくんで一歩も動けずにいると、空気を変えたのは沖だった。
「……俺は迎えが来る。タクシーは神楽が使え」
畳に放置された上着を掴むと、沖は何も言わず部屋を出て行ってしまった。
残された瑠生は力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
「蓮香ちゃ──いや、ルイクンダヨネ」
神楽は小声で瑠生の正体を呼んだ。沖への配慮はもう不要なのに。
黙ったままでいると、神楽にそっと体を起こされた。
「何か理由があるんだろうけど、俺の親友を騙すのは見過ごせないな」
恐れていた言葉が、神楽の口から静かにこぼれた。
そうだ……真っ当に働く大人を、自分は騙している。
条件を呑むことばかりに必死で、バレたときの沖の気持ちを考えていなかった。
「ごめ、なさ……おれ、おれ。ごめんなさ……」
堪えていた緊張が一気に崩れ、涙が頬を伝って畳に落ちていく。
化粧を擦らないよう、瑠生は振袖の端に涙を吸わせた。
後悔や悲しみ、沖を裏切った罪悪感。その中で芽生えた淡い感情が生んだ涙は、おしろいが剥がれるまで流れ続けていた。
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