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第25話

「瑠生ー、殿がいらっしゃったわよぅ」  気の抜けた声で里菊に呼ばれ、思わず振袖の裾を踏みそうになった。  ……ったく。『殿』ってなんだよ。  てっきり瑠生のお座敷仕事は反故になると思っていた。けれど沖の『瑠生の半玉が見たい』の鶴の一声で、ふく里はてんやわんやだ。  お目当ての半玉が男だとわかったのに、沖は条件を続行してくれた。そして、沖の予約した座敷には、瑠生こと、『蓮香』が呼ばれる。しかも、お迎え付きで。  その回数は今夜で片手分になった。  客が芸者を迎えに来ることなんて殆どない。それなのに、沖はわざわざふく里まで足を運んでくれる。自家用車を乗り付けてまで。 「あの、沖さん。ここまで迎えに来なくても、ちゃんとお座敷には上がりますから」 「それはできない。たけだ屋で待っていると、神楽に先を越されるかもしれないからな。それに少しでも早く僕は蓮香に会いたいんだ」  歯の浮くような言葉を照れもしないで言う。  恥ずかしいからやめてくれと言いたいけれど、余計なことは言わない方がいい。沖には機嫌良く過ごしてもらわなければ。  瑠生の正体がバレて以降、沖のお座敷は『蓮香』だけで、他に客も芸者もいない。  つまり、仰々しく料亭の予約をして、たった一人の半玉をお座敷に呼ぶ、と言った、とてつもなく贅沢なことを沖は何度もしているのだ。  しかも、運転をするからアルコールは飲まないし。  今夜は神楽も一緒だから、料金はかなりの額になると思う。  沖の懐を心配しながらぽっくりを履くと、里菊と咲希が、頑張ってねと見送ってくれる。  引き戸を開けようとしたら、沖が先に手をかけて開けてくれた。もう片方の手が瑠生の手を取ると、エスコートするように庭へと誘われる。  ……はあ。これ、何回やっても恥ずかしい。  握られた手を追いかけるように見上げると、見守るような眼差しがそこにあった。  初めて出会ったときに感じた、凛然とした姿勢。そこに、ほのかな甘さが纏っているように思える。  何だか照れ臭くて視線から逃げると、背中から咲希の冷やかす声が聞こえてきた。  帰ったら覚えとけよ、とひと睨みして瑠生は引き戸を閉めた。  半玉としてお座敷に上がることには慣れたけれど、一人で踊るのは心細い。  椿の三味線がないと踊れない──と、拗ねてみたけれど、姐さんたちは笑うだけだった。  たった一人の客のためとはいえ、素人の瑠生が芸事を披露するのは不安が拭えない。  手を引かれながらふと、空を見上げたら、青から藍に変わってゆく下で満開の木蓮が色を添えていた。 「満開だな……」  自分と同じように木蓮を見ていたのか、隣から沖の声が聞こえた。  花を見つめる横顔に釘付けになっていると、視線に気付いたのか、沖が笑いかけてくる。  瑠生はごまかすようにまた木蓮を見上げた。  真っ白で大きな花びらが、そよそよと風に揺らいでいる。  美しくもどこか儚い花からは、上品で甘い香りが庭中に香っていた。 「沖さん、知ってます? 木蓮って、人間が生まれる前から存在していた最古の花木なんだって。だからかな、花言葉は忍耐とか持続って意味なんです。白い花は慈悲とか気高さとかとも言うそうですよ」  木蓮を見上げていると、頬に触れてくるような沖の眼差しを感じた。  横を見る勇気がなくて見上げたままでいると、きれいだな……と、呟きが聞こえた。  木蓮のこと? と思っていたのに、沖の気配からはそれが違うのがわかる。 「紅い振袖も艶やかでよかったが、白い着物は可憐で儚げだ。目元の紅が黒い瞳を引き立てて、見つめていると吸い込まれそうになる。まるで木蓮の精霊みたいだな」  他の人から言われたら鳥肌ものでも、沖からだと素直に聞き入れられる  もじもじしていると、振袖の腕をそっと引かれた。  体ごと沖の方へ揺れると、手を取られて人差し指のほくろに口づけをされる。 「初めて会った日、僕は君に一目惚れした。あの日以来、ずっと君のことが忘れられなくて。でも、僕のような年上の男が未成年の君に近づくのは迷惑だと思った。ただ、もう一度、君に会いたくて田辺さんに頼んだ。それは叶わなかったけどね」 「沖さん……」  ふと、頭に疑問が浮かんだ。  沖は誰を思って一目惚れと言ったんだろう。『蓮香』なのか、それとも『瑠生』なのか……  涼やかな瞳に見つめられると、何も言えなくなった。 「もう行こうか。神楽が痺れを切らしている」  手を取られたまま駐車場へ向かおうとしたら、そうだ、と沖の足が止まる。  スーツの胸ポケットに手を入れ、長方形の箱を取り出した。 「これを使って欲しい」  受け取った箱は手のひらサイズで、薄桃色の桐の化粧箱だった。 「綺麗ですね、この桐箱」 「店で見つけたとき、君にぴったりだと思ったんだ。気に入ってもらえるといいんだが」 「開けていいですか?」  もちろん、と沖が言ってからゆっくりと箱を開ける。中には簪が入っていた。 「木蓮の形をした簪だ。シルバー素材だから着物の柄にも邪魔にならない。君の美しさに添える、一輪の花だ」  そっと取り出すと、可憐な花と蕾が枝から伸びた形になっている。 「すご……い。凝った細工ですね。めちゃくちゃきれいだ」 「これを作った作者は、『至上の愛らしさ』や、『無垢で高潔』を表現したらしい。君のイメージにピッタリだろ」  またそんなキザなセリフを言う。  男のくせに愛らしいと言われて、喜ぶ自分も自分だけれど……  簪の美しさに見惚れていると、手の中から奪われた。 「僕に付けさせてくれないか」  沖の手でかつらに木蓮が咲く。 「ありがとうございます」  簪を揺らしながら微笑んだ。それなのに、沖が手で顔を覆って項垂れてしまう。 「沖さん、どうしたんですか」  沖の顔を覗き込むと、「勘弁してくれ」と、ぽつりと言う。 「な、何がですか? 俺、何か失礼なこと──」 「君のその笑顔は反則だ。僕を翻弄しているのか」 「ほ、翻弄って、俺はそんなこと……」  言いかけて口を噤んだ。さっきの沖の告白を思い出すと、何も言えなくなってしまう。  一目惚れだとか、忘れられなかったと言われても、瑠生はどう答えればいいのかわからない。そのくせ目は勝手に沖を追いかけている。  見つめ返されると恥ずかしくて瞳を逸らす自分は、なんて未熟なんだろう。  沖のように立派な大人は、高校生の瑠生には遠い。それを今更ながら思い知った。

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