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第26話

 沖の予約したお座敷は、今夜で六度目。  最初はお金の心配をしていた瑠生も、今では気にならなくなっていた。  沖は料理は口にしてもお酒を飲まない。なぜなら、瑠生を車で送るためだ。  踊りも食事の手を止めて、瞬きを惜しむように見つめてくる。  おかげで振り付けを何度か間違ってしまった。それでも沖は楽しそうだ。  反対に瑠生はその度に戸惑っていた。  蓮香が男だと知っても、条件を飲んだままの沖。そんな相手と瑠生には、隅田川の川幅ほど距離がある気がする。  たけだ屋の買収の話が流れたら、沖の会社はどうなるのだろうか。  酩酊した神楽をタクシーの乗せたあと、沖の車に揺られながらそんなことを考えた。  たけだ屋を守ることは、桔梗たちの大切なふく里を守ることになる。そのために自分は半玉になった。それなのに沖の心配をしてしまう。 「どうした、疲れたのか」  黙りこくっていたからか、赤信号になったタイミングで沖が声をかけてきた。 「あ、いえ……」  惑う気持ちのまま返事をしたせいで、沖の眼差しが心配げな色に変わった。  沖の仕事を邪魔する自分なのに、大切に扱ってくれる。それが高い山に登ったように息苦しくなって、うまく笑えなくなっていた。  信号が青に変わり、五分ほど進むと、ふく里のある花街へ着く。  沖と一緒にいる時間は、あと少しで終わってしまう。それをなんとなく寂しいと思っていると、車は直進せず左へと曲がった。  不思議に思って運転席を見ると、悪戯げな目で沖がこっちを見てくる。 「ちょっと寄り道しようか」 「寄り道?」  時計を見ると、二十一時を過ぎていた。行き先を尋ねようとしたら、「甘いもの好きか?」と聞かれた。 「はい、大好きです」  朝顔の花簪が揺れるほど、思いっきり頷いた。 「じゃあ、ちょっと距離あるけど行こうか。甘いもの食べに」  沖と一緒にいる時間が増えて、心が浮かれている。それが自分でもはっきりとわかった。  隅田川を超えて駅を通り過ぎると、たどり着いた所は住宅街だった。  チラホラ飲食店が軒を連ねるその中の一件、赤い提灯がぶら下がっている店の前で沖は車を停めた。 「ちょっと待ってろ。すぐ戻る」  車から降りると沖は暖簾をくぐって、中へ入って行った。  扉が開いた隙間から、賑やな様子と美味しそうな煙がこぼれてくる。  ふと、のれんや提灯を見て首を傾げた。  ホルモンまるよし……え? ここってホルモン屋?  甘いものとは程遠い店構えを見ていると、暖簾が揺れて沖の姿が見えた。  助手席に回ってきた沖が、紙の包みを二つ手渡してくる。流れのまま受け取ると、沖が運転席に戻って車を走らせた。数メートル進むと、近くに見えた公園のそばで停車した。 「あの、沖さん。これ──」  さっきから手のひらで冷たさを感じる包みを、沖の方へ差し出す。 「バニラとチョコ、どっちがいい」  唐突に聞かれ、思わず、「バ、、バニラ」と答えていた。  すると、沖が包みを覗き込んだあと、瑠生の手から一つ抜き取った。 「アイス最中(もなか)だ。アイスは好きか」 「はい、大好きです。でも、なんでホルモン屋さんに?」  不思議に思って尋ねると、待っていたかのように、沖の顔が嬉しそうに綻んだ。 「以前、あの店に行ったとき、店主がこれを出してくれた。和菓子屋の職人が焼いた最中に、奥さんの手作りアイスを挟んである。店の常連はみんな、最後にこれを頼むんだ」  本当はもっとおしゃれな店に連れて行きたかったんだが……と、沖の顔に影がさす。  瑠生はハンバーガーのように包まれた紙をめくると、最中に挟まれた中身を除いた。  バニラのアイス、それにいちごと生クリームが隙間からちらりと見えている。 「うわ、おいしそう!」  瑠生の声を聞き、笑う沖が先にかぶりつく。  その横顔があまりに自然で、瑠生は息をするのも忘れていた。  視線に気づかれ微笑まれると、慌てて「いただきます」と言ってかぶりつく。 「おいしっ。外がさくさくしてて、アイスとクリームの甘味がいちごの酸味とピッタリだ」 「完璧な感想だな」  優美に笑う沖に見つめられると、急に恥ずかしくなった。  ……俺、子どもみたいだな。  チラッと運転席を見ると、沖がスマートにアイスを口にしている。食べ方まで大人っぽい。  ふと、自分の胸元を見下げると、半襟に最中のかけらが付いていた。  ……俺ってば、食べるの下手くそかよ。  車を汚さないよう、瑠生はかけらを摘むと、包み紙に移していく。  車内に溢れてないか気にしていると、『瑠生』と呼ばれた。  蓮香じゃなく、瑠生って呼んでくれた。  本名を呼ばれて驚いていると、切長の瞳がじっとこっちを見てくる。  沖の指が近づく気配がしたと思ったら、指先が瑠生の口元に触れてきた。  驚いて身を引こうとしたけれど、帯がドアに当たって身動きできない。  戸惑っていると、「付いてた」と沖が微笑んだ。  瑠生の口元から掬い取ったアイスをペロリと舐めている。 「だ、ダメですよ指なんて舐めちゃ──」  胸元からハンカチを出して指を拭おうとしたのに、その手はあっさりと沖に奪われた。  掴まれた手首に僅かな力を感じると、ハンカチを持つ手を引き寄せられてしまった。  沖の胸の中に閉じ込められると、瑠生は以前、簪で沖を怪我させたことを思い出した。  慌てて体を離そうとしたのに、沖の手が引き止めてくる。  沖がアイスの包み紙をクシャリと握り、小さくなった包をポトリと落とす。その手が帯の下に差し込まれ、腰を引き寄せられた。鼻先が触れ合うほど二人の顔が近づく。 「あ、あの沖さん、また簪が──」  沖を傷付けないよう顔を背けたのに、顎を捉えられてしまう。 「お、沖さ──んんっ」  言いかけた言葉は沖の唇で塞がれ、声ごと奪われた。  キ、キスしてる。俺、沖……さんと。  アイスのせいで重なる唇がひんやりしている。  ほんのりチョコの味がしたことで我に返ると、沖から体を剥がそうとした。  すると、沖の手が瑠生のうなじへと移り、引き寄せる手に一段と力が増した。  抵抗を続けても、さっきよりも深い口づけをされて何も考えられなくなる。  アイスを持ったままの手では、どうにもならない。  角度を変えて唇を激しく喰まれ、熱い舌が入ってきた。  舌先が口の中で暴れ、瑠生の口内を這うように(まさぐ)っている。  唇が離れてほっとした途端、口の端から滴る唾液を蜜のように舐め取られた。  瑠生がわずかに身体を反応させると、再び唇が重なって激しく舌を吸われた。  アイスが溶け出して手首を伝ってくる。そこに沖が気づいたのか、手首を舐められた。 「ああっ」  思わず口から甘い喜悦がこぼれてしまった。 「手首が性感帯なんて……どこまで君は可愛いんだ」  耳元で囁かれると、うなじや背筋に甘い痺れが走った。 「沖さ、やっ──」  怖い……  初めて知る快感が怖くて、沖の体を押し退けた。  目の前にいる沖は、自分の知っている沖とは別人に見える。  優しい夜に暗幕が降りた気分を味わうと、愛撫で濡れた手首を抱えるように、全身を縮めて沖を見据えた。 「……す、すまない」  申し訳なさそうに眉を下げた顔は、見慣れた沖に戻っていた。  誰の肌も知らない瑠生には、口づけ一つでも世界を変えるほどの出来事だった。  沖の顔を凝視していると、手が伸びてくる。反射的に体がこわばった。  その手は、落ちそうな簪を挿し直してくれただけなのに。  シートの背にもたれた沖は、前を見つめたままエンジンをかけた。  ハンドルを握り締めたまま、そこに額をつけて俯いている。 「すまなかった」  悲しげな声が聞こえると、静かにアクセルを踏んで車が走り出す。  花街へ戻る道の景色は、さっきまで淡い灯りに染まっていたのに、今は闇のしじまへ落ちていくようだった。

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