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第27話
「ねえ、今日も瑠生はお座敷お休み?」
支度部屋で化粧をする里菊が、鏡越しに尋ねてくる。
瑠生は黙って頷いた。
口づけをされた日を境に、沖はたけだ屋の予約を入れていない。
朝顔の次は薄 で、その次は菊の簪だった。
季節の花の横に銀の木蓮を挿して沖に会いたかったのに、子どもだった自分の態度で簪は朝顔で終わってしまった。
瑠生の心とは裏腹に、たけだ屋の売上は順調で、英恵はとても喜んでいた。
このままいけば沖を納得させられるかもしれない。
ただひとつの気掛かりは、瑠生の胸の中にあるけれど。
「約束の三ヶ月も残るはあと二週間。順調、順調。このままだと買収話は消えるね。沖さんとやらも、瑠生の半玉を思う存分堪能したんでしょ、きっと」
梅ちえがおしろいをはたきながら嬉しそうに言う。
一目惚れしたと言ってくれたけれど、やっぱり大人な沖から見れば自分は子どもで、物足りなかったのだろうか。それとも、『蓮香』が好きだと言う意味だったのか。
お座敷の予約がないのが答えに思えて、気持ちだけが落ちていく。
アイスを食べたあの夜、最後に見た沖の顔は悲しげでそのあとは視線も合わなかった。
車が見えなくなっても動けなかった理由を、今さらながら自覚しても、もう遅い。
「怖かっただけで、嫌じゃなかったのに……」
つい、口に出した言葉が、瑠生の胸を帯のように締め付けた。
ハッとして里菊や梅ちえを見たが、支度に夢中で瑠生の独り言には気づいていない。
お座敷へ向かう二人を見送ると、瑠生は気を紛らわすように台所に向かった。
「晩ごはんでも作るか……」
料理をしていれば、余計なことを考えなくて済む。
カレーでいいか、と大きめの鍋に切った野菜を入れ、炒めはじめた。
手を動かしても、浮かぶのは沖のことばかり。
自業自得のため息をついたとき、電話が鳴った。
火を止めて受話器を取ると、『私よ、私』と茉莉花の声がした。
『姐さん、どうかしたんですか? あ、お母さんなら出かけてます』
『知ってるわ。神楽坂に行ってるんでしょ。それより瑠生。あんた、いい根性してるわね』
いきなりの喧嘩腰に、さすがの瑠生も眉をひそめた。
『何がですか』
低い声で返すと、電話の向こうで甲高い笑い声が響く。
『……何がおかしいんですか。それより姐さん、ふく里をやめ──』
『だってねぇ、男のあんたが半玉って。ちゃんちゃらおかしくって』
男の──何で、茉莉花がそのことを……
頭の中が真っ白になった。心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
受話器を持つ手に力が入り、崩れ落ちそうな体を必死に支えた。
『あら、黙っちゃった? まあ、あんたは美人だから女の格好しても似合うけどさ。それよりこのこと、協会の理事が知ったら──ふく里は終わりね』
『ね、姐さん! そのこと、どうして知って──』
『半玉が男だったなんて前代未聞よ。お客が知ったら金返せって言われるね。お母さんもバカなことをしたもんだ』
ケラケラと愉快そうな笑い声が響く。途端に瑠生の足から力が抜けた。
その場に座り込むと、受話器を握る手がぶらんと垂れた。
放心状態で天井を見つめていると……いつの間にか、電話は切れていた。
どれくらい、こうしていたのか。気づけば窓の外は、墨を流したように真っ暗になっていた。
定まらない思考の中で、茉莉花の声だけが何度も反響する。
悔しくて、唇を噛みしめると血の味がした。
どうして茉莉花がこのことを知っていたのか。
……誰かが話した? まさか、そんな人はいない。
蓮香のことを知っているのは、ふく里の人間と女将さん夫婦だけのはずなのに。
結局、自分のせいで何もかもが壊れてしまう。
もし本当に騒ぎになったら。桔梗にも、買収を保留にしてくれた沖にも、顔向けできない。
……どうしよう。姐さんたちに、なんて言えばいい。
桔梗が知ったら、自分を引き取ったことまで後悔するかもしれない。
「そんなの嫌だ。絶対にがっかりされたくない」
それに、昼も夜も舞台に立ち続ける姐さんたちの努力が、台無しになってしまう。
「考えろ……考えるんだ。まだ、何か手はあるはず」
声に出しても、指先は冷えて小刻みに震えている。
一瞬、椿に相談しようかと思った。けれど、それでは彼女に負担をかけてしまう。
……どうすればいいんだ。
茉莉花に会って誰から聞いたか教えて貰えば──
そんなことを考えていたら、インターホンが鳴った。
ポケットに鉛が入ったような体を持ち上げると、瑠生は玄関へむかった。
「どちら様ですか」
すりガラスの向こうに声をかけると、中年の男の声が返ってきた。
「多鹿だ」
深く考えずに引き戸を開けかけたそのとき、外側から勢いよく押し開けられた。
冷たい空気が一気に玄関へと流れ込む。
目の前に立っていたのは、中肉中背に着物姿の男だった。
もみあげ部分が白髪になっているのを見ると、桔梗より少し年が若いのかもしれない。
見たことのない人だなとぼんやり考えていると、男は瑠生を舐めるように見てきた。
「お前がここの居候の男か」
男は唇を吊り上げて言った。
「俺は神楽坂で『九重 』って料亭をやってる、多鹿だ。話がある。少し付き合ってもらおうか」
「……九重? 俺に料亭の人が何の──」
言いかけて、瑠生ははっとした。その名前に覚えがあった。
「今、お前の頭の中に浮かんだことは正解だ」
男が低く笑う。
「俺は神楽の父親だ。多鹿ちゑ子は俺の女房だ。前にここへ来ただろ、田辺さんを訪ねてな」
やっぱり。多鹿なんて珍しい名前、他にいるはずがない。
「か、神楽さんのお父さんが……俺に何の用なんですか」
たけだ屋のことなら桔梗に話があるはず。それなのに多鹿は瑠生に用があると言う。
どうしよう。付いていっていいのだろうか。
「半玉の件だ」
多鹿の言葉に思考が停止した。
含み笑いを浮かべた多鹿の声に、背筋が凍る。
「は、半玉……」
「ああ。お前は男のくせに半玉に化けて座敷に出たらしいじゃないか。そのことで話がある」
多鹿の言葉の端々に、敵意が滲んでいた。
茉莉花からの電話のすぐあとで、出来すぎたタイミングに嫌な予感が膨らむ。
逃げたほうがいい──そう思うのに、足が床に貼りついたように動かなかった。
「来ないならそれでもいいが。お偉いさんたちが知ったら、ふく里はどうなるかな」
「お偉いさん?」
「そうだ。組合の会長とか、国際観光施設協会の会長とか、な」
国際観光施設……初めて半玉になったときいた、上座のお客だ。
……沖さんと初めて出会ったあの夜。
多鹿のように横柄 じゃなく、沖はいつも丁寧で、瑠生に目線を合わせてくれた。
ふく里を尋ねて来たときも、偉そうにすることもなく、最初から低姿勢だった。
一緒に木蓮の花を見ながら話したことを今でも、覚えている。
沖を思ってぼんやりしていると、舌打ちが聞こえた。
「来るのか来ないのかっ!」
怒鳴られてハッとした。
「い、行きます」
慌ててスマホと財布を手に取り玄関へ戻ると、気が短いのか多鹿の体はすでに外にあった。
花街を抜けるまで多鹿の後ろを歩いていると、一件の店の前で草履が止まる。
「ここでちょっと話そうか」
多鹿が指差したのは、看板の文字が剥げて読めない、古びた喫茶店のような店だった。
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