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第28話
「遅かったのね。もう尼子 さん、お待ちよ」
店に入った途端、煙草と酒の匂いが鼻をつく。
カウンターの向こうにいたのは、長い髪をカールさせた厚化粧の女性だった。
酒焼けした声で、煙草の煙を勢いよく吐き出してこっちを見てくる。
薄暗い店内を見渡すと、カウンター以外にテーブル席が四席あり、一番奥のテーブルに座る男が自分たちへ向けて手を挙げていた。
「多鹿さん、どうも」
多鹿と二人だと思っていた瑠生は、思わず一歩、後ずさった。
「遅くなったな、尼子」
尼子と呼ばれた男の前に座るよう言われ、瑠生はためらいながら腰を下ろした。
その横に、蓋をするよう多鹿がどかっと座る。
「この子が、例の半玉か。こりゃべっぴんだな。これなら──」
「尼子さん、その話はあとだ」
低い声で多鹿が遮った。
尼子が瑠生を舐めるように見てくる。指先でグラスを擦り、耳障りな音をさせてニヤついていた。時折上唇を舐めるその仕草に、瑠生は思わず目を逸らした。
照明が曇った光を放ち、店全体が霧に包まれたように不気味な雰囲気に呑まれそうになる。
大人の男二人に睨まれ萎縮していると、女性がビールとコーラをテーブルに置いた。
尼子がすかさず、多鹿のグラスにビールを注ぐ。
「あ、あの。話っていうのは……」
雰囲気に耐え切れず瑠生が口を開くと、尼子が多鹿に目配せした。
「まず、先に聞きたい。あんたはふく里を潰したくないのか」
ビールを一口飲むと、多鹿が獲物を仕留めるような目で見てくる。
「あ、当たり前です! ふく里はお母さんたちの大切な場所です。絶対に潰したくないっ」
桔梗が手を差し伸べてくれたあの日から、彼女たちを守る気持ちは変わってない。
「じゃあ、今回の件でふく里がどんな目に遭うかわかってるな。それにあんたが芸者を馬鹿にしたってのも」
組んだ腕を着物の袂 に突っ込み、多鹿が唾棄を飛ばす。
真横から聞こえる声に、身体が震えた。
頬に刺さる多鹿の視線、尼子の雰囲気。それらが瑠生を追い詰めてくる。
人に対して嫌悪感など抱いたことはない。けれど、この二人だけは嫌だった。
「どうなんだ。子どもがしたことは親が尻拭いするんだぞ」
畳みかけられるように尼子に言われ、桔梗の顔が浮かんだ。
親友の孫というだけで、自分引き取ってくれた。彼女に救ってもらわなければ、今の自分は存在しなかったかもしれない。
おまけに興味があるからというだけで、男の自分に芸事まで教えてくれた……
大切に……大切に、育ててもらったんだ。
「話っていうのは、自分でケリをつけろってことですか」
瑠生の言葉で、尼子の顔つきが変わる。横を見ると多鹿が袂から腕を引き抜いた。
「話が早いな。さすが、田辺さんが育てただけある」
「お金で片をつけろっていうなら、俺、バイトでも何でもして返します。だからどうか、このことは誰にも言わないでくださいっ」
テーブルに額を擦り付けて懇願 していると、何かがうなじに触れた。
勢いよく頭を上げて首に触れると、尼子がニヤニヤしている。
「ちょっと触っただけだ。減るもんでもないだろ」
ほくそ笑む尼子にゾッと、無意識に腰を浮せていた。
「帰るのか? 別にそれでもかまわないが、ふく里が潰れてもいいんだな」
まるで死刑宣告だ。瑠生は歯を食いしばって座り直した。
「そんなにあの置屋が大事とはね。田辺さんも喜ぶだろ、役に立つ人間は男でも女でも。ねえ、多鹿さん」
気持ちよさそうに噯気 を出す尼子から目を逸らした。同じ空気を吸うのも吐き気がする。
「今の世の中、男も女も金になる。芸者の世界でもな」
グラスを空にし、多鹿が呟く。そこにまた尼子がビールを注いでいる。
「お客様にはちゃんとお金を返します。い、いくらですか」
「そうだな。ことと次第によっちゃ、黙認しといてやる」
「ほ、本当ですか」
多鹿の口元が厭 らしく歪んだ。目の前では尼子がまたゲップしをている。飲み方も、話し方も、言葉の選択も下品すぎる。
多鹿の答えを待っていると、ポケットの中でスマホが鳴った。
画面には梅ちえと表示されていた。
多鹿を見ると、顎をしゃくらせて瑠生を見た。電話に出てもいいってことだ。
通話ボタンを押すと、梅ちえの叫び声が耳に飛び込んできた。
『瑠生、今どこにいるのっ。お母さんが倒れたのよっ!』
『お、お母さんが倒れたって!』
『神楽坂の帰りによ。救急車で運ばれたから、向こうの病院にいるの。あんたもすぐおいでっ。住所送っといたから。いいね、すぐ来るんだよっ』
切羽詰まった梅ちえの声は、スピーカーにしなくても多鹿には筒抜けだった。
目が合うと、他人事のように「心労かねぇ」と、ほくそ笑んでいる。
「あ、あのお母さんのところへ行かせてください。この話は今度──」
「今度はない。今、この場で返事しろ。お前は俺の料亭、九重の座敷で働くんだ。今後一切、ふく里の座敷には出るな。それが条件だ」
「で、でも俺は男だからダメなんじゃ──」
「かまわん。お前が男だと知った上で喜ぶ客がいる。もちろん、理事会にも組合にも内緒だ。お前が今、やっていることと同じだ」
矛盾してると思った。男だから問題視しているんじゃないのか。
「顔に全部出てるぞ、言っとくがお前がやったことは嘘だ。だが、九重に来る客は男とわかって来る。これは騙しではなく、そうだな、あれだ。あの──」
「コスプレでしょ? 多鹿さん」
尼子がニヤケ顔で言うと、それだと、多鹿が指を鳴らす。
「九重のちょっと変わった座敷だ。それで他言無用としよう。お前が嫌って言うなら、代わりにふく里の芸者を差し出せ。男より女の方が需要がある──」
「だめだっ! 姐さんたちを神楽坂には行かせない! 俺が……俺だけがそっちで半玉をすればいいんだろ」
「そうだ。半玉として九重のために働いてもらう。それと、神楽に縋っても無駄だからな。あいつと顔見知りでも、沖が動く買収の話は絶対に成功する。息子じゃ阻止できない」
「で、でも沖さんは約束してくれました。たけだ屋の売り上げが倍になれば──」
「お前、あの男の言葉を信じているのか」
尼子の言葉に、ぴくりと体が反応する。
「どういう意味ですかっ」
「あの男はたけだ屋に恨みがある。だから買収の話に乗った。たけだ屋を潰すためにな」
多鹿の言葉に息を呑んだ。
たけだ屋に恨み——そんな素振り、沖からは全く感じられなかった。
瑠生から見ても、たけだ屋のことは仕事の対象物としか見ていないように思えた。
「恨みって何を根拠に。沖さんはそんなこと言ってないっ」
「当たり前だ。腹の中 をわざわざ誰が敵に言う。あの男は爺さんの仇を討とうとしてるんだ」
「仇? 仇って何ですか。沖さんはそんな言葉に無縁の人だっ」
怒りの感情が瑠生を突き上げ、立ち上がって多鹿を睨みつけた。
「沖の爺さんは、たけだ屋の先代に騙されて料亭を奪われた。孫の沖はその恨みを晴らそうと買収話に乗った。あいつが何を言ったか知らないが、あんたは沖に騙されてるんだ」
「う、嘘だっ! 沖さんはそんな人じゃない。お、俺を騙すなんて、絶対しないっ!」
沖の微笑みを浮かべながら、瑠生はこぶしを震わせて叫んだ。
「もういいじゃないですか多鹿さん。田辺さんも倒れたみたいだし、あとはこの子が九重で身を粉にして働く、それでちゃんちゃんだ」
尼子がヒッヒと、引き笑いをした。
「それもそうだな。大好きな姐さんがだめなら、お前が必死で働け。……また連絡をする、それまでせいぜい田辺さんの面倒を見てやればいい」
さっさと帰れと多鹿がまた顎をしゃくった。
瑠生は着物の膝を押し除けると、男たちに睥睨を向けながら店を出て行った。
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