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第29話

「あ、瑠生。こっち、こっち」  神楽坂にある病院に駆けつけた瑠生は、五階に降り立ったところで梅ちえと出会った。 「姐さん、お母さんはっ」 「今、治療が終わって眠てる」  梅ちえの案内で病室に向かうと、ベッドに横たわる桔梗を目にして足が竦んだ。  酸素マスク姿に、亡き母の最後が重なる。  動けずにいると誰かが肩に触れてきた。振り返ると、神楽の顔がそこにあった 「え、何で、神楽さんが……」 「楽々やのそばで倒れたお母さんを、神楽さんが助けてくれたの。心肺蘇生とAEDを使って救急車が来るまで、ずっと」  いつも勝ち気な梅ちえが涙ぐんでいる。彼女が泣くほど桔梗は危なかったのだ。 「たまたま実家に用事があってね。家に向かってたら、この方が急に倒れたんで驚いたよ。で、あとは見よう見まねだ」  いつもの明るい笑顔で言われると、ホッとして自分の涙腺も緩んでくる。 「お母さんを助けてくれて、ありがとうございました」  桔梗に視線を向けたあと、神楽に深々と頭を下げた。 「お母さん、急性心筋梗塞を起こしてたんだって、先生があと数分、処置が遅れてたら危なかったって。ほんと、神楽さんには感謝してもし尽くせないわ」  改めて梅ちえが頭を下げたから、瑠生も同じように感謝を示した。 「祖母が同じ症状だったのを思い出してね。お役に立ててよかったよ」  安堵したような微笑みで、神楽が瑠生を見てくる。  高校生にもなって泣いたことが気まずくて、思わず顔を背けてしまった。 「あ、里菊から電話だ。ちょっと外で話してくるね」  梅ちえが電話をしながら神楽に会釈し、病室を出て行った。  桔梗の眠る姿を見ながら、瑠生は神楽の父、多鹿と会っていたことを伝えるかどうか迷っていた。脅しのような約束を神楽に話せば、知恵を貸してくれるだろうか。  いや、だめだ。そんなことを知ったら神楽が傷つく。 「よかったね、大切なお母さんが無事で。入院して静かに過ごしていたら良くなるよ」  神楽が優しく頭を撫でてくれるから、何も言えなくなった。  桔梗を助けてくれたのに、これ以上、迷惑をかけられない。 「本当にありがとうございました。何かお礼をさせてください。って言っても俺にできることなんて──」  言いかけた瑠生の言葉は、頬に口づけされたことで途切れてしまう。 「取り敢えず今はこれでいいよ。瑠生君が俺のものになって、ここにチュッてさせてくれたら最高だけど」  神楽の人差し指が瑠生の唇に触れた。感触を確かめるようにそのまま摘んでくる。 「え、あ、あの。おれ……」 「真っ赤になって可愛いな。やっぱり君が欲しいけど、今の瑠生君は恋愛どころじゃないもんね。だから買収の件が決着ついたら真剣に俺とのことを考えてよ。気は短い方じゃないけど、沖が相手だとちょっと焦る」  鞄を持つと、神楽がもう片方の手で瑠生の頬を撫でてくる。  優しさを感じる温もりだけれど、心が踊るような高揚感は感じられない。  沖の名前を聞くだけで、最後に見た悲しげな顔が浮かんでくる。  沖に会いたい気持ちが神楽の指で蘇り、自分勝手に落ち込んでしまった。 「神楽さん、俺は……」 「瑠生君には悪いけど、俺は正直、たけだ屋さんはどうでもいいんだ。親父がしていることに興味もないし、母が大切にしている置屋も男の俺には関係ないしね」  初めて見る真剣な眼差しが胸に刺さる。何も言えないでいると、神楽は続けて話した。 「俺は、瑠生君が悲しむのを見たくない。だから、沖と一緒にたけだ屋の座敷に行った。沖の出した条件とやらで、君が喜ぶのならってね」 「神楽さん……」  ふく里を気にかけてくれるのは嬉しいけれど、こぼれた言葉は非情に聞こえた。  頬にあった指が離れると、今度は手を取られて彼の口元まで運ばれた。 「でもね」の言葉と一緒に、熱い吐息が指先に触れてくる。 「瑠生君が俺と付き合ってくれるなら、親父を妨害することを約束するよ。どうかな?」  人差し指のほくろに口づけながら、ウィンクしてくる。  慌てて振り払い、神楽から少し距離を取った。 「じょ、冗談ですよね」  思わず、触れられていた手を背中に隠す。 「冗談じゃないよ、瑠生君が約束してくれたら俺は本気で親父を説得する」  正直、飛びつきたくなる申し出だった。でも──それは違う。 「嬉しいけど、条件で誰かを好きになるなんて俺にはできない。本気で相手を好きにならないと、一緒にいてもお互いが苦しいだけです」  キッパリ言い切ると、神楽が眉を八の字にしている。  ……あ、言いすぎたかも。    今度は瑠生が眉根をよせると、神楽が苦笑した。 「俺、今、フラれたよね」 「えっ! あ、あれ? そう……なるのかな」 「そうなるのかなって、酷いね。でも、さっきも言ったけど、俺は気が長い方なんだ。なんてたって、運命的な出会いをしたんだし」  瑠生の頭に隅田川の桜並木が浮かぶ。 「出会いって、自転車を修理したことですか? あんなことが運命的になります?」 「あんなことって……瑠生君はちょいちょい俺を凹ませるね。あの日はね、毎日見てる占いが一位だったんだ。好きな花のそばで運命の人に出会えるって」 「占い! かわい──あ、何でもないです」 「あー、今、俺のこと馬鹿にしただろ」 「すいません、つい」 「ついって、君は正直だな」 「ごめんなさい。でも、占いが好きって可愛いなって。あ、だから俺のほくろを見て、あんなこと言った──」  突然、抱き締められた。  片手だけで身体を引きよせられ、互いの胸が重なる。 「可愛いのは瑠生君だ」  耳打ちされた瞬間、神楽から逃げようとした。でも、出来なかった。  何となく、このままでいる方がいいのかなと思った。  おとなしくしていたら「君は、ずるいな」と、耳に囁かれた。  神楽は瑠生を解放すると、「じゃあね」と笑って手を振った。  ずるい──の言葉と意味深な笑顔をだけを残し、扉はゆっくりと閉まっていった。

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