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第30話
桔梗が倒れて三日が経った。
容態も安定しているからと、梅ちえからの連絡に安心した瑠生は病院へ寄らず、真っ直ぐ家に帰ることにした。
心配事が一つ減った頭に沖の顔がよみがえる。
道すがら、もう会えないのかなと考えて、無性に寂しさに襲われた。
男だとわかっても半玉の姿を望んで、買収を考え直す理由にしてくれた。
大切な仕事なのに、自分の勝手で沖の仕事の邪魔をしている。
「なのに、俺はあんな態度をとって……」
考えごとをしていたら、いつの間にか家に着いていた。
玄関の鍵を開けようとした手を止め、庭の木蓮を見上げた。
沖とここで木蓮を眺め、いろんな話をした。それが胸を痛いほど締め付けてくる。
初めて話したのは中学生のときだった。
話した内容は覚えていないけれど、木蓮と沖から漂う大人の香りにうっとりしたのだけは覚えている。
二度目は半玉の姿で、一緒に満開の木蓮を見たときだ。
簪をプレゼントしてくれて、髪に挿してもらった。
礼を言うと、沖は照れくさそうにしていた。
あの日、一目惚れしたと言われたけれど、芸者相手に言う社交辞令みたいなものだと思っていた。
「それに、沖さんは瑠生じゃなくて、蓮香を好きなんだし」
花のない木蓮を眺めていると、無性に沖の顔が見たくなった。
口づけをされて驚いたけれど、嫌じゃなかった。
けれどそのキスも、蓮香にしたつもりなのかもしれない。
物悲しい季節に似合いの風が瑠生の髪を揺らすと、自然と涙があふれてきた。
雫が頬を伝いかけたとき、誰かが走ってくる音と名前を呼ばれて急いで涙を拭った。
「瑠生、よかった。帰ってた」
「昇真、どうし──咲希も一緒だったんだ」
よく見たら二人とも息を荒げている。慌てて咲希の前にかがむと、瑠生はお腹に耳を当てた。
「ちょ、ちょっと瑠生。いきなりどうしたのよ」
「咲希、お前、走ったのかっ。昇真と同じペースで走るとお腹の子どもが苦しいだろっ」
心配げに咲希のお腹を撫でながら、大丈夫か、辛くないか、と声をかけた。
「そんなこと咲希ちゃんにさせるわけないだろ。ちゃんと歩いて来た、早足だったけど」
「大丈夫よ瑠生。走ったのは、置屋のすぐ手前からだったし」
「だったしって、それでも転んだりしたらどうするんだ」
「だって! だって私たち、瑠生に謝らないといけないものっ」
「謝る? 何を謝るんだよ」
昇真を見ると、雨に濡れた柴犬のような顔をしている。
「瑠生、ごめんっ」
濡れた毛の雫を撒き散らすかの如く、昇真が勢いよく頭を下げた。いや、実際には濡れてないし、そもそも犬じゃないけれど。
「とにかく家の中に入ろう。咲希のお腹に障る」
居間に二人を通し、私服に着替えた瑠生は、熱いお茶と羊羹を座卓に並べた。
「で、何を謝るんだ?」
口火を切ると、昇真が座布団から降りて畳に頭を擦り付けている。
「瑠生っ! 本当に申し訳ないっ」
「違うっ、昇真君は悪くないの。私が彼にちゃんと説明してなかったら、ゆ、優真さんがあの人に喋っちゃっ、って……うぅ、えぐぅ、あどひどがぁ、だっで、うぅー」
泣き出してしまった咲希の話しは、解読不能だった。
瑠生は土下座をする昇真の体を起こした。
「優真さんって咲希の婚約者でお前のお兄さんだろ? その人がどうかしたのか」
「るぅい、ごめぇえん。ごめん、なさっ、ひゃっく」
泣きすぎてしゃっくりまで出てきた。
「ちょっと落ち着こう」
咲希にお茶を飲ませると、瑠生も湯呑みを持った。
「瑠生。お前、半玉になってお座敷に出てたんだろ」
ようやく泣き止んだ咲希の背中を撫でていると、昇真の言葉に瞠目した。
けれどそれは当然のことかと思えた。
咲希と昇真は身内になる。たけだ屋やふく里が危機を迎えていることを昇真が知っててもおかしくない。
「そうだ。半玉になってお座敷に出ることが買収を阻止する条件だったからな」
でも、それももう、自分のせいで台無しになるかもしれないけれど。
「男のお前がそこまでしてることは、一部の人しか知らなかったんだろ。俺も、咲希ちゃんから聞くまで知らなかった。それは、アニキも同じで──」
言い淀んでいる昇真を庇うよう、咲希が潤んだ瞳で瑠生の手を握り締めてきた。
「ごめん、瑠生。半玉のこと、優真さんが話しちゃったの、茉莉花姐さんに」
「茉莉花姐さんにって、ほ、本当かっ」
「すまない、瑠生。茉莉花って人が、自分はふく里の芸者だってアニキに言ったらしいんだ。それでアニキは買収の話をした、大変ですねって」
そうだったのか。だから、茉莉花はあんな電話をして来たんだ。
「そんときに、お前が半玉やってることをアニキが話しちゃったんだ。なあ、茉莉花って人はふく里を辞めた人だろ? もしその人が……」
「ごめんなさい、瑠生。まさか優真さんが茉莉花姐さんと会うなんて思わなくて」
我先にと、二人が代わる代わる頭を下げてくる。
「二人とも謝らなくていいから。……でも咲希、彼氏さんはどこで茉莉花姐さんと会ったんだ?」
鼻水をぐずぐず啜りながら咲希が、神楽坂……と呟いた。
「神楽坂? もしかして神楽坂で芸者してたのか? あ、なあそれってどこの料亭だった?」
「優真さんが接待に使ったのは九重って料亭だって。そこに行ったときに、自分の婚約者も半玉なんですよって話したらしいの。そしたら、どこの? って、はな、話になって、向島の、ふ、ふく里って言っちゃて……ごめんなさい」
また泣きそうになる咲希を宥めながら、ようやく合点がいった。
「それで自分もふく里の芸者だって言ったのか。婚約者が咲希ってわかったから」
「梅ちえ姐さんが言ってた。茉莉花姐さんは、ふく里を、う、恨んでるって。だから、あの人、何するかわかんないよぉ」
引っ込んだ涙がまた咲希の目に溢れた。ティッシュを差し出すと、豪快に鼻を噛んでる。
「恨んでるって、元は同じ置屋だったんだ。ふく里に不利なことをベラベラと喋るかな。庇うわけじゃないけど、そこまで恩知らずだとは思いたくない……」
「茉莉花姐さんは九重のお座敷には応援で来てるって。あの人、ふく里を継ぎたかったんでしょ? それに、お客を取るためなら何でもしちゃうって、噂だったし」
そうだった。彼女はプライドも高くて負けん気も強い。
はっきり覚えていないけれど、椿が桔梗の後を継ぐことになった途端、彼女の足はふく里から遠のいたような気がする。
「何も起こってないよな、瑠生。芸者の世界って厳しいから、男が半玉って……」
正座のまま昇真が真剣な眼差しで聞いてくる。
眉根を寄せる親友たちの顔を見ていると、腹の底から熱いものがたぎってきた。
もし、茉莉花がふく里を恨んでいるとしたら。九重で芸者をしていたのなら、自分が半玉になったことを多鹿に話しているかも知れない。
頭の中で想像していると、二人の視線を感じた。見ると、同じように口を真一文字にしていた。
「大丈夫だって、何もないから。ほら、足を崩せ。あ、なあ二人とも晩飯食って帰らないか? 豚汁飲みたいんだけど一人だから、作るのに張り合いなくってさ」
二人に気付かれないよう、明るく振る舞った。
咲希は今が大事なときだ。心配させて万が一のことがあったら大変だ。それに、置屋とは関係のない昇真にこれ以上、気を遣わせるのも心苦しい。
足を投げ出して脱力する昇真の姿に胸を撫で下ろし、瑠生は台所に行って蛇口を捻った。
シンクを激しく打ち付けるほど水を流しながら、怒りを込めてにんじんを洗った。
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