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第31話
茉莉花から電話があったのは、昇真と咲希が来た翌日だった。
明日の十九時に九重の座敷へ来るようにと、命令口調で言われた。
なぜ茉莉花が九重に来いと──なんて疑問はもうない。
彼女が多鹿と繋がっているのは明白だった。
多鹿がふく里に来る直前に、茉莉花から連絡がくるなんて出来過ぎている。
男の瑠生がまた半玉になってお座敷に上がる。しかもたけだ屋ではなく、九重で。
これは桔梗たちを裏切ることだ。
昼も夜もお座敷で頑張る彼女たちの役に立つどころか、足を引っ張っている。
ふと、瑠生は桔梗の着替えを詰める手を止めた。
指先に小さなほくろが見えた瞬間、沖の唇の熱が蘇る。
瑠生は沖がしたように、自分の指に口づけた。沖の温もりに重ねるよう。
会いたい。声が聞きたい。優しい腕に抱き締められたい。低くて優しい声で名前を呼んでほしい……
だめだ、弱気になってまた沖に頼ろうとする。
甘えてばかりで何も返せていないのに。
目標の欠片も成し遂げていないくせに。
反省するだけじゃ、たけだ屋を救えないのに。
荷物を詰め終えると、瑠生は神楽坂の病院へ向かった。
病室の扉をノックすると、少し掠れた桔梗の声がした。
扉をそっと開けた。桔梗の姿が目に飛び込んできた瞬間、ほっとする。
「お母さん、具合はどう?」
ベッドで本を読んでいた桔梗が老眼鏡を外し、柔らかな微笑みで瑠生を見返す。
大好きな読書ができるよう、個室にして正解だった。
「もう平気さ。早く家に帰って、瑠生の味噌汁を飲みたいよ」
パタンと本を閉じ、労いの言葉をくれる。
数年間しか一緒に暮らしていないけれど、瑠生の気持ちがわかるような眼差しだった。
「退院したら腹がちゃぷちゃぷになるくらい飲んでよ。鍋いっぱいに作るからさ」
「鍋いっぱいか、夢に出て来そうだね」
少し痩せた顔で笑ってくれるから、泣きそうになる。
壊れた蛇口のように涙腺が緩みっぱなしでも、桔梗にそんな顔は見せたくない。
瑠生は奥歯をグッと噛み締めて力を入れた。
「お母さん、たけだ屋もふく里も大丈夫だから。姐さんたちも頑張ってるし、俺も──」
俺も、何だ? 頑張ってるとでも言うのか。
問題ばかり起こして、恩を仇で返すことしかしていないのに。
「瑠生は何も心配しなくていいよ。ちゃんと学校に行って、日々を暮らすんだ。男なのに無理なことをさせたね、でももう、それも終わりだ」
「お母さん……」
「昨日、椿から聞いたよ、昼の座敷も瑠生の半玉も好評だって。売り上げも条件に見合ってきてるらしいじゃないか」
「そ、そうなんだ。このまま期限まで残りの一週間、たけだ屋さんとぶっちぎるから。だからお母さんは、元気になることだけ考えて。あの家に俺一人じゃ寂しいからさ」
わざと甘えた口調で言うと、まだまだ子どもだね、と額を指で突かれた。
不安な気持ちを桔梗の笑顔で吹き飛ばす。でも、表情筋は限界に来ていた。
「俺、そろそろ帰るよ。姐さんたちを手伝わないと」
瑠生が椅子から立ち上がったタイミングで、ノックが聞こえた。
振り返ったと同時に扉が開く。その瞬間、心臓が止まりそうになった。
……沖さん、沖さんだ。
「──田辺さん、お加減はどうですか」
沖に釘付けになっていると、彼の瞳は瑠生を通り過ぎたまま、桔梗の元へと歩いて行く。
すぐそばを横切った沖から、欲してやまなかった香りが涙を誘う。
沖を目で追いかけながら、思わず腕を伸ばそうとした。スーツの袖を掴んで、こっちを見てと言いそうになる。
「僕の顔なんて見たくないと思いましたが、入院生活は退屈だと思いましてね。本を何冊かお持ちしました。僕の趣味で申し訳ないですが」
紙袋を桔梗に渡す沖を見ながら、瑠生は二つの感情に揺れていた。
早く部屋から出ろと追い立てる自分と、まだここにいたいとぐずる自分に。
「何をおっしゃいます。買収の件では三ヶ月の猶予をいただいたってのに、頭も下げずにすみません。それと、以前は失礼なことをしました。本当に申し訳ない」
ベッドから起き上がり、桔梗が浴衣の裾を整えると、正座をして頭を深く下げた。
桔梗の姿に倣うよう、瑠生も深々と体を折る。
「そんなことしないで下さい。瑠生君のことは僕が望んだことです。どうしてもまた彼に会いたかったから」
桔梗の体を起こしてくれる沖が、肩越しに瑠生へと眼差しをくれる。
それは悲しげな顔ではなく、初めて会ったときと同じ、たおやかな微笑みだった。
沖は怒ってないのだろうか。また、蓮香をお座敷に──
「でも、買収の件は別です。お昼のお座敷も好調のようですけど、あと一週間ありますからね。最終日のたけだ屋さんの売り上げが楽しみです」
思考はピシャリと弾き飛ばされた。
……そうだ。買収の件はまだ終わってない。
笑顔をもらって浮かれている場合じゃない。それに、明日は大事な日だ。
自分にしか決着 をつけられない問題を、さっさとクリアしなければならない。
「当然です。ふく里の人間も最後まで全力を尽くしますよ。三日後の日曜日は、長年のご贔屓さんたちが総出で会合を開く日です。晴れやかな気持ちで舞台を迎えなけりゃね」
「頼もしいですね、週末が楽しみです」
馬鹿にした言い方でもお世辞でもない。心から感心したような口調だった。
瑠生の方を見ないまま、沖が一礼して出て行こうとする。
帰ってしまう……もう、沖にはきっと会えない。
残りの一週間、たけだ屋の予約に沖の名前はなかった。
当たり前だと思った。自分が蒔いた種だ。
引き止める言葉も浮かばず、無情にも扉は閉まって沖は出て行ってしまった。
静まり返る病室に、沖の残り香だけが漂っている。
もう、そこにはいない残像を探すよう、扉に視線を向けていると桔梗に呼ばれた。
振り返ると、目の前に一冊の本が差し出された。
「悪いけど、この本を沖さんに返して来てくれないか」
「えっ! 何で」
人の行為を無碍にするなんて桔梗らしくない。
眉根を寄せながら本を受け取ると、「その本、前に読んでるんだ」と、桔梗が笑う。
冗談めいた口調が珍しく、首をかしげていると、ハッと気づいた。
「わ、わかった。俺、沖さんに返してくるっ」
「ちゃんと謝っといておくれよ」
「まかしてっ!」
返事しながら勢いよく扉を開けると、エレベーターまで一気に走った。
だか、タイミング悪く、二機とも下に向かったばかり。
瑠生は踵を返すと、一目散に非常階段へと向かった。
ドアを開けて滑るように階段を駆け下り、地下までたどり着く。
きっと沖は車で来ているはず。
追いかけている間も、運転する横顔が鮮明に蘇る。車種だって覚えている。車の中で交わしたキスだって、忘れられない。
殺風景な駐車場を見渡すと、車に向かって歩く後ろ姿を見つけた。
桔梗は気付いていたのだ、瑠生が沖と話したがっていたのを。
だから失礼を承知できっかけをくれた。もらったチャンスを無駄にできない。
話しを聞いてもらえなくても、せめてあの夜のことだけは謝りたい。
ロック解除の音とともに、ヘッドライトが光った。
沖がドアに手をかけている。車に乗り込んでしまう手前で、瑠生は叫んだ。
「沖さんっ!」
鈍色の壁に瑠生の声が反響して、沖の足が止まった。
少しの躊躇いのあと、スーツの肩がゆっくりと振り返る。
何の戦略もないまま、瑠生は沖のそばに駆け寄った。
短い息を繰り返しながら、真っ直ぐ沖を見上げる。
「どうした──」
「す、すいませんっ! お、俺……」
言い淀んでいると、沖からため息が聞こえた。
やっぱり自分とは会いたくなかったのかと、泣きそうになる。
「走って来て、どうし──あ、そうか。本がいらなかったのか」
瑠生が手にしていた本に気づいたのか、沖が苦笑する。
「違いますっ」
叫び声が、コンクリートの壁に跳ね返って響く。
「す、すいません。大声を出して。あ、この本はお母さんが、いや、そうじゃなくて、俺が沖さんに謝りたくてお母さんが……いや、違う。あ、あの、俺……」
焦って言葉を詰まらせていると、沖が一歩、瑠生に近づく。
黙ったまま、言葉を綴ることを待ってくれている。
瑠生は小さく深呼吸すると、続きの言葉を口にした。
「沖さん。俺、あの日……沖さんに失礼な態度をとってしまって、それをずっと謝りたくって。ほんとに、すいませんでした」
勢いよく頭を下げると、肩に沖の手が触れた。でもその手はすぐ離れてしまう。
「もういいんだ」
突き放すような言葉が胸を貫く。
「え……もう、いいって」
「君は僕に付き合わなくっていいんだ。これまで無理をさせて悪かった」
「付き合わなくっていいって、どういう意味ですか」
広い駐車場は寒々しくて、体だけでなく心まで凍らせようとしてくる。
「僕の我儘で君は半玉になってくれた。僕だけが知っている秘密の君の姿で、二人だけで過ごす。一緒にいる時間は君を独り占めできて、嬉しかったよ」
「で、でもそれは買収を待ってくれる条件で──」
「そうだ、条件だ。そのせいで、君は意に沿わないことをさせられて嫌だっただろう。おまけに僕は君に手を出してしまった。どうしても自分のものにしたかったんだ」
〝自分のもの〟……その言葉に一瞬、胸が痛んだ。
どうしても、蓮香のときの自分に言われているような気がした。
瑠生は何も言えず、自分の靴の先を見つめた。
「本当に申し訳ない。買収の件はちゃんと正当な評価をする。君は安心して普通の高校生に戻ればいい」
心の奥まで突き抜ける痛みを感じた途端、ガラガラと何かが崩れる音がした。
重くて尖った言葉の石は、沖との大切な思い出を押し潰そうとしてくる。
初めは条件で半玉になった。けれど、今は別の理由で沖に従いたい自分がいる。
どうしたらこの思いを伝えられるんだろう。
逡巡していると沖がそっと抱き締めてくれた。
嬉しい、そう思った喜びは沖のひと言で泡のように消えてしまった。
「今までありがとう、さよならだ」
腕の中で聞いた言葉が、思考を粉々にした。
そっと体を引き離され、髪を撫でてくれる。その手は、簪の位置を確かめるような動きだった。
「沖さん、あの……」
沖は蓮香と瑠生、どっちが好き? 聞きたい言葉が頭の中で渦巻く。
けれど、瑠生の心に膨らんで今にも咲きそうな蕾は、花が開く前にポトリと落ちた。
二度と会えないなら、最後にもう一度だけ、蓮香になって沖のそばにいたい。
最後の最後だと願えば、優しい人は我儘を聞いてくれるだろうか。
「もう帰ったほうがいい。送ってあげたいけど、まだ神楽坂での用事が終わってないんだ。申し訳ないけどここでお別れだ」
お別れ……その言葉が刻印のように、瑠生の胸に焼きついた。
「……大丈夫です。一人で帰れます。あの、それより最後にお願いがあります。もう一度だけ、俺をお座敷に呼んでもらえませんか。お代は入りません、俺が払います。その、沖さんがいつも召し上がっているような料理は用意できないけど」
ダメもとで言った。
もう一度、沖と会える約束があれば、九重の仕事は乗り切れそうな気がする。
沖と会えることを糧にすれば、多鹿にどんなことを言われても耐えられる気がする。
「座敷……か。わかった。ただ、約束はできない。頭に留めておくレベルだと思ってくれ」
「それでもいいです。少しの希望があれば、俺は『明日も』頑張れると思うから」
ホッとして笑顔が生まれた。でも、同時に涙も出そうになる。
自分が泣くと沖は車に乗れないかもしれない。瑠生は喉の奥に力を込めて、もう一度頭を下げた。
テールランプが見えなくなるまで、沖を見つめていた。
沖に助けてと言いたかった。
多鹿に半玉のことがバレて脅されている、だから助けてと。
でも、言えない。
多鹿は神楽の父親だ。親友同士の間に波風を立てるようなことはしたくない。
これまで通り、半玉の姿になって芸事をするだけだ。
自分ができることは、たかが知れている。
本物の芸者の足元にも及ばない、男の半玉。きっと多鹿も物珍しいだけですぐに飽きるだろう。
一回こっきりの辛抱だ。
コスプレ? 上等だ、やってやろうじゃないか。
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