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第32話
金曜は五限目まで。お座敷の時間まで余裕はあるけれど、念のために急いで学校を出た。
帰り道に英恵と出会い、たい焼きをもらった。
売り上げのことを嬉しそうに話す英恵と、いつものように話せなかった気がする。
たけだ屋にとって敵とも言える、九重のお座敷に出る身としては、やっぱり後ろめたい。
家に着いた瑠生は夕食代わりのたい焼きを頬張ると、湯呑みを片手にスマホで九重までの地図を画面に表示させた。
「神楽さんのお母さんの置屋も近い場所にあるんだ」
呟きと一緒に以前、ふく里に来た女性を思い出した。
「俺が九重の座敷に出ること、神楽さんのお母さんはきっと知らないんだろうな」
知ればきっと大ごとになる。
向島の、しかも半玉のフリした男が、神楽坂の置屋に黙って九重のお座敷に出るんだから。
二つ目のたい焼きを手に取って、でもまた、皿に戻した。
「十九時にお座敷か……」
気が重い。行きたくない。仮病でも使うか?
そんなことをつい、考えてしまった。
支度は九重でさせてもらえるから、一時間前には向こうに着いておかないと。
時間を気にしながら呟き、たい焼きの皿にラップをかけた。
誰からの返事もない静かな部屋は、不安を突きつけてくる。
姐さんたちがいないと、心細い。でも反対にいなくてよかったとも思う。
彼女たちがいればつい、弱い心から多鹿のことを話してしまいそうだった。
沖からの条件に追われる芸者衆は、ふく里に顔を出す時間もない。
みんな必死だった。たけだ屋を守ることは自分たちを守ることだから。
「あ、そうだ。あれを忘れないように持っていかないと」
湯呑みを流しに置き、そのまま二階に上がって部屋に行った。机の引き出しから薄桃色の桐箱を取り出す。
そっと蓋を開けて柔らかな布をめくると、銀色の木蓮が輝きを放っていた。
手に取って窓から差し込む夕焼けにかざしてみると、キラキラと光って眩しい。
簪を挿してくれたあの瞬間、きっともう、沖を好きだったと思う。
もしかしたら自分が気付いてないだけで、ずっと前から惹かれていたのかもしれない。
……これはお守りだな。
銀色の木蓮を箱に戻すと、胸に抱えながら居間に戻った。
トートバックに箱をそっと入れ、財布とスマホ、それと足袋の入った巾着を入れた。
着物は借り物でも、さすがに足袋は自前じゃないと嫌だ。
出かける準備を終えると、不意にスマホを取り出した。
「一応、椿姐さんには伝えておこう」
『用事で神楽坂に行っていると』と、手早く文章を打って送信した。それから、家中の戸締りを確認して最後に玄関の鍵を閉めた。
電車に揺られる間も、料亭までの道すがらも、沖のことばかり考えてしまう。
けれど、買収の件がどっちに転ぼうが、沖と会うことはもう……ない。
「さよならって言われたしな……」
車の中で一緒にアイスを食べた夜を悔いる。
どうしてこうも自分は子どもなのか。
もっと勇気があれば、確かめられたかもしれない。
──沖さんが好きなのは、蓮香? それとも……瑠生?
「あれ、どっちだっけ」
考え事をしていたら、左右に別れた分岐点で迷った。
どちらの道も車が一台ほどしか通れない、道幅の狭い道路だった。
スマホの現在地がズレていたせいで地図も彷徨っている。
すぐに修正して左へ進もうとしたら、後ろからクラクションを浴びた。
慌てて脇に避けると、車が瑠生のすぐ横で停車する。
運転席の窓が下りて、神楽が顔を出してきた。
「るーい君、迷子かな?」
「か、神楽さんっ。どうして──」
愚問だったと言葉を飲み込んだ。ここは神楽の地元だ。それより向島の瑠生が、神楽坂にいることに違和感がある。
「何してるの? あ、もしかして俺に会いにきたとか」
違います、と秒で返したら大袈裟なほどがっかりした顔をされた。
さすがに申し訳ないなと思い、笑って誤魔化した。
「あの、神楽さん。九重さんはこの道をまっすぐ行けばいいんですよね」
進行方向を指差すと、「そうだよ」といつもの笑顔が教えてくれた。
「近いけど乗ってくかい? 俺も実家に行くとこだし」
「いえ、場所だけわかれば自分で行きます。ありがとうございました」
教えられた方へ向かおうとしたら、神楽に呼び止められた。
「九重に何しに行くんだ、瑠生君は」
さっきとは別人のような真顔だった。だからつい、「お座敷に」と答えてしまった。
茉莉花から誰にも言わずに来いと言われていたけれど、神楽は多鹿の息子だし、いずれは耳に入ることだ。
別にいいよなと思って、脅されたことは伏せて説明をした。
「ちょっと待て。親父に頼まれたからって、瑠生君が神楽坂で半玉になるのはおかしくないか。そもそも、瑠生君はなんで親父とそんな話になったんだ」
おかしいと神楽が思うのは当たり前だ。けれど、本当の理由は言えない。
言い淀んでいると、別の車が侵入して来た。早く行けと、クラクションを鳴らしてくる。
「じゃ、神楽さん失礼します」
今のうちにと、逃げるように端によけながら九重に向かった。
後ろの車に追い立てられる神楽の車を見送りながら、九重の看板を探して歩いた。
二回ほど角を曲がってようやく着いた料亭はたけだ屋とは違い、豪華絢爛な店構えだった。
暖簾には白波のような無限大の紋様が描かれ、モノトーンなのに迫力がある。
門を挟むブロック塀は真っ赤に塗られ、暖簾が白黒なのもあって路地の中でも際立っていた。
「たけだ屋さんとは全然違うな」
見上げながら、たけだ屋の、しっぽりした店先を思い描いた。
檜の数奇屋門の横には、低めの門柱に灯る表札が控えめに灯って迎えてくれる。
慎ましい雰囲気のたけだ屋の方がほっとする。
存在感のある暖簾を通り過ぎ、赤い壁をたどると裏木戸を見つけた。そこから中に入って、飛び石を進んだ先にあるインターホンを押してみる。
待っている間、庭を見渡すと、表から見るより随分と中は広い敷地だった。
庭を眺めていると作務衣を着た従業員らしい女性が現れ、名を名乗ると中へと案内された。
薄暗い廊下を女性の背中を頼りに歩くと、廊下の突き当たりで女性の足が止まった。
「こちらのお部屋をご支度にお使いください」
部屋のふすまは所々破けて薄汚れている。中を覗くと薄暗い。
古びた電気の傘がぶら下がるのが見えて何となく、カビ臭いと思った。
「また、呼びに参りますので」
去って行く女性が見えなくなると、部屋に入って灯りを付けた。
明るくなるまでチカチカと数秒かかり、ようやく灯った灯りは濁ったように黄色。
内装は古い映画で見たような、昭和感あふれる六畳間だった。
隅には鏡台と小さな座卓があるだけで、晩夏だというのに何だか薄ら寒い。
「着物とか化粧道具はどこにあるんだろ」
押し入れを開けてみたけれど、布団がひと組あるだけで必要なものは入ってない。
「何もないじゃん。お座敷の時間に間に合わなくなる」
スマホを見ると十八時になったばかりだった。
着付けに自信はないけれど、姐さんたちの手伝いをしているからなんとなくわかる。
「取り敢えず、さっきの人に聞いてみよ」
ふすまに手をかけると外から開いて、さっきの女性が和紙の包みを手に立っていた。
「こちらをお召しになってお待ちください」
「え、これ?」
戸惑っていると強引に胸に押し付けられ、女性は去ってしまった。
「何なんだよ。っていうか、化粧道具は? 着物だけでどうしろっていうんだ」
文句を言っていると、手にした重みに違和感を感じた。
振袖のはずなのにやけに軽い。
包みを畳の上に置いて中を見ると、浴衣が入っていた。
鳶色 をした男性ものの浴衣を手にしながら、首を傾げた。
「浴衣なんてどうするんだよ。それにこれって近江麻だ。この時期に麻は寒すぎるよ。それに帯と腰紐だけだし、肌襦袢 がないと体が透けるじゃん」
布の下に手を入れると、鳶色の下に薄っすらと手のひらが透けて見える。
そもそも練習じゃあるまいし、浴衣で本番のお座敷なんてありえない。お客に失礼だ。
浴衣を戻すと、抱えたまま廊下に出てさっきの女性を探した。
きっと間違えて渡したんだ。早く振袖に変えてもらわないと、支度が間に合わない。
廊下に出て、来た道を戻ってみたけれど、景色が微妙に違う。
途中で反対の廊下を歩いていたと気づき、引き返そうと振り返ってギョッとした。
「おい、こんなところで何をしている」
目の前にいたのは、多鹿と一緒にいた小柄な男、尼子だった。
「あ、あの。俺、着物を……」
「ふく里の男芸者か。あんた、仕事しに来たんだろ、さっさと用意して座敷に来いよ」
尼子が厭らしく笑いながら、ズイッと近づいて見上げてくる。
瑠生より背が低いのに異様に迫力があって背中が粟立つ。
慌てて踵を返すと、部屋に逃げ込んだ。
「あの、尼子って人、やっぱり苦手だ」
早鐘のようになる心臓を宥めるよう、部屋の隅っこで小さく蹲った。
芸者の格好じゃなく浴衣で、しかもかつらもなく素顔でなんて意味がわからない。
「コスプレじゃなかったのかよ」
膝を抱えながら呟き、膝に突っ伏した。
……何だよ、わけわかんないよ。どうしろって言うんだ。
蹲っていても時間は刻々と迫る。
仕方なく浴衣に着替えると、トートバッグから沖に貰った簪を取り出した。
「沖さん……」
名前を呟くと、呼応するように目の奥が熱くなる。
銀色の木蓮をそっと握り、頬を寄せた。
沖が触れてくれたことを思い出し、胸が切なく疼いた。
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