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第34話
体から田之上の悪臭がこびり付いて、息するだけで気持ち悪い。
家に帰ってシャワーを浴びたいと言ったら、沖のひと言で却下された。
──瑠生を一人にはできない。
その言葉に反論したら、九重に隣接する多鹿家の風呂場へと連れて行かれた。
一人でも平気だと言ったのに、瑠生が風呂に入っている間、沖はずっと脱衣所で待ってくれた。
風呂から出て沖と一緒にリビングに戻ると、ソファに座ってコーヒーを飲む神楽が目に入る。
隣の和室には、多鹿が手酌で酒を飲んでいた。
髪をタオルで拭いながら立ち竦んでいると、沖に腕を取られて神楽の向かいに座った。
大きくて立派なソファは神楽しか座っていなかったのに、蟻一匹も侵入しないよう、沖がピッタリと寄り添って瑠生の横に腰を下ろす。
沖からぴりぴりとした気配が漂ってくる。それなのに瑠生は、風呂の熱が冷めたはずなのに、のぼせそうな気持ちで固まっていた。
沖と自分の肌と肌が触れていて、そこを一度意識してしまうと、緊張して変な汗が出てくる。
せっかくお風呂をもらったのに、もう汗はかきたくない。
静寂した部屋には、神楽が飲んでいるコーヒーカップの音しか聞こえない。
ゴクっと唾を飲みこむ音さえも響きそうだった。
誰か何か話してよ──そう、心の中で叫んでいると、沖が瑠生の手からタオルを抜き取った。
ふわりと頭にタオルが乗ると、濡れた髪を優しく拭いてくれる。
沖の手はマッサージのように心地よくて、思わず目を閉じてしまった。
「いいな、それ」
神楽の声が聞こえてきた。沖の手が止まる。
瑠生は暖簾をくぐるよう、タオルをかき分けて神楽を覗き見た。
「俺もしたかったな、そういうの」
両腕を頭の後ろで組むと、神楽が大きなため息をついている。
「やりたければすればいい。但し、瑠生以外でだ」
冷たく言う沖が、またタオルドライを再開する。
「沖さん。もう、平気だよ。すぐ乾くから」
「だめだ、風邪をひいたら田辺さんに申し訳ない。それに、元はと言えば僕が半玉になってほしいと頼んだからだ。瑠生が酷い目にあったのは僕のせいでもある」
タオルで覆われて沖の顔が見えない。でも、彼が今、どんな顔しているかは想像できる。
「違う、沖さんは悪くない。悪いのは俺の方だ。俺が買収されないように沖さんに頼んだから。沖さんの仕事の邪魔をしてるってわかってたのに……」
ずっと胸に抱えていた思いをやっと吐き出せた。
沖の仕事よりふく里を守る方に必死だった、自分勝手な思いを。
「瑠生は悪くない。君は大切な人たちを守ろうとしただけだ」
「そうだよ、瑠生君。悪いのは俺ら、大人だ」
激しく首を左右に振る瑠生の頬や首を、沖の手が宥めるようにそっと触れてくる。
「ここ、打たれたとこだな。唇も切れてる。傷の手当てをしないと」
心配そうな顔で、沖が傷口を確かめている。
その様子を見ていた神楽が腰を上げ、リビングの隅にある棚から救急箱を持って来た。
「瑠生君、傷、平気か……?」
「はい、平気です。首も頬も、もう痛く──あ、いたっ」
沖に顎を掴まれると上に向けられ、傷口をガーゼで押さえられた。
やっぱり、ちょっと沁みて痛い。
「悪い。だが、まだだ。ちゃんと消毒しておかないと化膿したら困る」
黙々と瑠生の世話をする沖を横目に、神楽が口を開いた。
「ごめん、瑠生君。あの男たちを警察に訴えるとしても、先に俺に話をさせてくれ」
神楽の声で、沖の手が止まる。
「瑠生が許してもあいつらは死刑だ、極刑だ。弁解の余地は一ミリもない」
冷静な顔と口調なのに、言っていることが理不尽過ぎる。でも、全て自分のための言葉だと思うと嬉しさもひとしおだ。
「あの、沖さんはどうして九重に、あの座敷に俺がいるってわかったんですか」
誰にも九重に行くと言ってなかったのに、タイミングよく沖が現れたことが不思議だった。
「昨日、病院の駐車場で『明日も頑張れる』と、瑠生は僕に言った。翌日に何かあるんだろうと色々考えたけど検討がつかなかった。ふく里に連絡したら椿さんが神楽坂に行ってると教えてくれたんだよ」
……あ、そっか。椿姐さんには伝えてたんだった。
「神楽に確かめたら、瑠生が九重の座敷に出ると言い、疑問に思った。芸者ならまだしも、男の君がなぜ座敷に呼ばれたのか。それに昨日の心許ない顔が気になったんだ」
たったひと言に込めた不安を、沖はちゃんと拾ってくれていた。それだけで顔がニヤけてくる。
「神楽! 何の話か知らないがさっさと終わらせろ。こっちは料亭に戻ってやらなきゃいけないことがあるんだ」
和室から多鹿が顎をしゃくって息子に叫んできた。
「何の話か知らないだって? 話す内容は親父が一番わかってるんじゃないのか。それに料亭に戻って何をするんだ。田之上って成金の口に戸を建てに行くだけだろ、金でも掴ませてさ」
「俺は何も悪くない、悪いのはそのガキだろ。男のくせに半玉のフリして客を騙してたんだ」
「多鹿さん、それは語弊があります。確かに瑠生は半玉になって座敷に出た。けれどその客は全て僕と僕の友人です。他の客には迷惑をかけていない」
沖が語ると、畳の上で上半身を逸らし、着物の裾が捲れるのも気にせず、足を投げ出して多鹿が笑い出した。
「客があんたらだけでも、男が半玉に化けたのは事実だ。俺がひと言組合に言えば、ふく里は置屋をたたむしかない。それを黙認してやるって言ってんのに、めちゃくちゃにしやがって。金と暇を持て余してる奴らに黙ってケツ差し出してりゃ、ふく里も──」
バンっと沖がこぶしをテーブルに叩きつけた。
その音で多鹿の言葉が遮られたけれど、カップが倒れてコーヒーがこぼれてしまった。
テーブルの上が褐色に染まっていくのを、全員が無言で見ている。
沖のこぶしが震えているのに気づき、瑠生は両手でそっとその手を包み込んだ。
沖の顔を見上げると、唇を左右に引き結んで多鹿を睨みつけている。
瑠生の視線に気付いて沖と目が合うと、怒りがさらに再燃した形相になった。
そっと瑠生の顎を持ち、沖がそのまま和室の方へ向けた。
何をしているのか戸惑っていると、「見てみろ」と沖が低い声を放った。
「唇が切れているのは、打たれただけじゃない。血が滲むほど噛み締めていたからだ。それがどういうことかわかるか。必死で恐怖に耐えていたからだ。騙された悔しさと憤りを感じ、無意識に力を入れて踏ん張っていたからだっ。そんな人間に、あなたは今、何を言おうとした。首の傷もそうだ。命を捨ててでも、貴様らの慰み者になりたくなかったからだろ!」
またこぶしが叩きつけられた。
沖の怒りが多鹿の口を閉ざす中、神楽がテーブルに額をつけるように頭を下げてきた。
「沖、瑠生君。親父が……すまない」
しばらくの間、神楽は頭を上げなかった。
たまらず瑠生は神楽の肩に触れて、顔を上げてくださいと囁いた。
「神楽さん、もとは俺が悪いんです。でも、どうしてもお母さんを、ふく里を守りたかった。だから、俺は……」
今度は瑠生がテーブルに額をつけて謝った。
「君は悪くない。悪いのはクソ親父と……俺だ。俺は、親父が瑠生君を九重に取り込もうと企んでいたのを知っていた。知ってて黙っていたんだ。さっき道で会ったときも知らないフリをした」
神楽の言葉に絶句した。
知っていた? まさか、瑠生が男たちに犯されようとしていたことも、神楽は知っていたというのか? まさかそんなこと……
瑠生の頭の中では、怒りよりも『なぜ?』が生まれた。
「神楽。お前──」
親友の顔を沖が凝視している。横顔からでも目に赤い炎が揺らいでいるのがわかった。
「俺は本当に瑠生君が欲しかった。君との出会いは運命だと思っていたからね。瑠生君が神楽坂に来てくれたら、俺のものにするチャンスがある。そんな浅はかなことを考えた」
瑠生はさっきの『なぜ』を聞こうとした。けれど、沖が先に口にした。
「お前は、父親が瑠生にさせようとしていたことを知っていたのか」
「知らない! そのことは本当に知らなかったんだ。俺は半玉の瑠生君を手に入れようとしている、そう思っていただけだ。まさか、あんな男たちに瑠生君を差し出すなんて、想像もしていなかった!」
「神楽さん……」
神楽がまた頭を下げている。申し訳ない、と何度も呟いていた。
「もう謝らないでください。俺、神楽さんがそこまでするって思ってませんから」
「……沖がたけだ屋を恨んでいる──瑠生君は親父からそう聞いたんだよな?」
瑠生が頷いたのと同時に、沖の体が強張ったのが伝わった。
薄くて形のいい唇が言葉を紡ぎ出そうとしていたけれど、先に神楽が口を開いた。
「親父が君に話したことは嘘だ。いや、嘘というよりは間違いだ」
「間違い? どういうことですか」
「沖のお爺さんを騙してたのは、たけだ屋の先代じゃない。九重の先代、俺の祖父と親父だ。親父は沖が君に出した条件を知って、買収は沖の復讐だと君に思わせたんだ」
「たけだ屋さんじゃ、ない?」
瑠生は沖を見た。沖が無言のまま頷く。
「親父が自分の罪をたけだ屋とすり替えて話し、沖や俺にすら頼れないように君を八方塞がりにした。そして九重で働かそうとしていたんだ。それが、あんな売春まがいなことを君にさせようとしていたなんて……」
神楽の声が震えている。泣いてるんじゃないかと思った。
「お前らが生まれる前の話で、九重がお前の爺さんを騙した証拠も、たけだ屋がやってない証拠もない。それに沖、お前に買収の話を持って行ったとき、快く引き受けただろう」
多鹿が自信ありげな顔で言った。
沖の手が瑠生の手をギュッと握ってくる。
「お前の親も死んでいない。たけだ屋の後継ぎの息子も女将も知らない。誰も知らな──沖、お前は何を笑ってやがる! 何とか言いやがれっ」
唾棄を撒き散らす多鹿の口を、沖の一笑 が止めた。
多鹿が体を起こすと、どかどかと歩いて沖の前までやって来る。
「おい、沖! さっさと答えろ!」
「答えるのはあなたですよ、多鹿さん。それも、謝罪をです」
沖の言葉が合図のように、リビングへと一人の男が入って来た。
瑠生は突如と現れた男の顔を見てギョッとした。
体をすくめて、沖の腕に縋るように掴まった。ところが、驚いているのは瑠生だけではなく、多鹿も目を見開いている。
「尼子っ! お前、どうしてここに──」
「どうも、こんばんは多鹿さん。半玉さんも、さっきぶりですねぇ」
小太りの体を左右に揺らしながら、何食わぬ顔で尼子が沖の隣に座った。
「お、沖さんこの人は多鹿さんと一緒に俺を騙した人だよ。早く、早く離れてください」
沖の腕を引っ張り、尼子から離そうとした。なのに、沖が一向に動こうとしない。顔を見ると、尼子とほくそ笑み合っている。
「大丈夫だよ、瑠生。尼子さんはね、祖父が巻き込まれたことも、多鹿がしたことも全部知っている人だ。言わば、生き証人だよ」
「生き証人? ど、どういう──」
「どういうことだ、尼子! お前、俺を騙してたのかっ」
瑠生の問いかけにかぶせるよう多鹿が叫ぶと、今にも尼子の胸ぐらを掴もうとしている。それを神楽が止めた。
「まあ、多鹿さん座ってください。さっきあなたの言っていた証拠を、今から尼子さんが話してくれますから」
涼しい顔の沖と、沸騰したヤカンのような顔の多鹿が向き合うと、尼子が咳払いを一つして静かに語り始めた。
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