35 / 41

第35話

「沖さんのお爺さん──うの花の大将、丈雄(たけお)さんは本当にいい人でした。奥さんの実家だったの漁師町の小さな民宿を継いでね。腕のいい板前で、みるみる繁盛していったんです。私が丈雄さんと知り合ったのは、その民宿を料理屋旅館に建て直そうとしていた頃でした」  丸い膝の上に両手を置きながら、尼子が続きを口にした。 「私は終戦後に生まれましたが、幼いころに両親を流行病で亡くして孤児でした。食べるものもなくて、ある日、うの花の裏口でゴミ箱を漁っているところを丈雄さんに見つかったんです。叱られると思ったのに、あの人は笑って、温かいご飯を出してくれたんです。行く所がないなら住み込みで働けとまで言ってくれて」  多鹿家のリビングに、尼子の声だけ静かに広がっていく。  多鹿がとってつけたような理由で出て行こうとしたけれど、神楽がそれを許さなかった。  押さえ付けるように自分の横に座らせ、尼子の話を聞いている。 「料理屋旅館になってからも、うの花は順調でね、次は『芸者を呼べる料亭』にしたいと丈雄さんは考えたんです。それで神楽坂への移転を決め、私は花街の仕組みを覚えるために、見番(けんばん)で働くよう頼まれました。そんなとき、大塩(おおしお)さん、いや、多鹿さん。あなたが丈雄さんを訪ねたんですよね」  尼子が言葉を切ると、全員の目が多鹿へと向いた。  大塩──ってことは、多鹿は養子?  瑠生が小首を傾げて沖を見ると、口を真一文字に結んで多鹿をじっと見ていた。 「大塩さんは丈雄さんと会うのとほぼ同時に、私がいる見番で働くようになりました。理由は私と同じ。そうですよね」  尼子が多鹿を見ると、気まずそうに目を逸らしている。  瑠生は二人を見ながら、古い喫茶店で会ったときの尼子を思い出した。  自分の首に手を伸ばす仕草や、舐めるような視線は忘れられない。  だからどうしても考えてしまう。沖は本当に騙されていないのだろうか。尼子は、本当に味方かのか? 「大塩さ──多鹿さんは、芸者を呼べる料亭にするならいい人がいると丈雄さんに言ったんです。引き合わせた相手は、九重の先代でした。九重の先代は、神楽坂のことならまかせろと、知り合いの不動産屋を紹介した。その人は漁師町の料亭を売却し、神楽坂に新しいうの花を建てる相談に乗ってくれました。丈雄さんは彼らを信じて売買を委ねたんです。ところが、蓋を開けたら、うの花は九重へ譲渡したことになっていた。神楽坂の土地も購入どころか、地主に話すら持ちかけていませんでした」  ……それって、もしかして詐欺とか?  不安な気持ちで沖を見ると、瞬きもせず多鹿を見ていた。 「それはつまり、沖のお爺さんは、ただ、うの花を九重に渡したってことになるのか」  神楽の言葉に尼子はゆっくりと頷いた。その顔には、言い表せない複雑な色が浮かんでいた。 「結果、そういうことになったんです。九重の先代が丈雄さんの噂をどこかから聞いたのでしょう。腕のいい丈雄さんが神楽坂に料亭を出せば、九重が危うくなる。そう考えたのだと思います。人の良い丈雄さんを二人が利用して、うの花を奪ったんです。それでも丈雄さんはめげませんでした。残った僅かな財産を従業員に分け与え、裸一貫で漁師町に屋台を出したんです。尚純さんのお父上が生まれた後も、ずっと苦労されていました」  ふーっと尼子が細く息を吐いた。膝に置いていた手が緩くこぶしに変わる。 「私は、丈雄さんが言ってくれた言葉を今でも忘れません。『お前を外に出していてよかった。俺と知り合いだと知られていたら、お前にも火の粉が飛んでいたかもな』と。これからも見番で励めよ、って言ってくれたんです……」  尼子の話を聞いて、多鹿はこぶしを震わせながら、部屋の一点を凝視していた。  そんな多鹿を、沖は射抜くよう見ている。  尼子の言葉が真実であることは、彼のこぼれた涙を見ればわかった。  その一粒に、過去の痛みと今の悔しさ、そして決意が込められているように思えた。 「僕の父は祖父と同じで、争いごとは嫌いだった。祖父がどんな目に遭ったかを知っても、今が幸せならそれでいいと考える人だった。そして、僕が祖父の孫だと知らずに、多鹿さんがたけだ屋さんを買収したいと訪ねてきたんだ」  親友に伝えるよう、沖が話している。瑠生にはそう見えた。 「その後でしたよね、尼子さんが僕のところに来たのは。『多鹿がまた先代と同じことをしようとしている』と教えてくれて。そのとき僕は、はっきりと怒りを覚えたんだ」  静かに語る沖の視線は神楽から瑠生へと移った。瑠生の手をずっと握り締めたままで。  その手の重さで沖の心が、言葉以上に伝わってくる。 「じゃ、尼子さんは沖のお爺さんが亡くなったあとも、うの花の人間だったというのは伏せたままずっと神楽坂の見番にいて、親父に復讐をしようと──」 「それは違うぞ、神楽」  沖が神楽を真っすぐ見て言い切った。 「尼子さんは見番での仕事を、祖父が作った『居場所』を大切にしていただけだ。それに、行儀見習いから芸事までをこなす芸者衆の姿を見て、彼女たちに心から惹かれていたんだ」  尼子の顔を見ると、以前見たいやらしい表情はなく、仏のように温和な笑みがあった。 「あの、沖さん。俺、気になっていることがあるんですけど、聞いてもいいですか」  多鹿と尼子の関係が希薄なのがわかると、瑠生は別のことが気になった。 「何だ? 何でも話していい」  秀麗な微笑みで沖に言われると、心臓が暴走しそうになる。  胸元を掴んで、そんな場合じゃないと自分に言い聞かせた。 「あの、前にふく里へ来た楽々やの、えっと名前が──」 「俺のお袋だろ? 瑠生君のお母さんに会いに行った、楽々やの主人ちゑ子だ」  神楽が告げると、瑠生は彼女の表情まで鮮明に思い出せた。 「すいません、名前を覚えてなくて。その楽々やのご主人がお母さんを訪ねてきたとき、沖さんは何でその方と一緒にいたんですか?」  尋ねると、顎に手を添えながら、見張りかな、と微笑みを浮かべている。 「尚純さん、そんな風に言うとあなたまでしたたかに見られますよ。見守っていた、と言った方が聞こえがいいんじゃないですか?」 「見守っていた?」  尼子の言葉の意味がわからず、首をかしげると、沖はそっと頭を撫でてくれた。 「僕はちゑ子さんが、ご主人の多鹿さんに利用されてないか、それを探るためにふく里へ行くことを話したんだ。もしかしたら一緒に行くって言うかと思ったしね。ただ、彼女の真意は不確かなままだが」 「利用って、神楽さんのお母さんは何で──」  言いかけて瑠生は口を閉ざした。神楽と目が合う。  悲しげな表情が一瞬見えたけれど、神楽の視線は横にいる父親にあった。  多鹿に向かって神楽が口を開きかけたとき、リビングのドアが勢いよく開け放たれた。 「続きは私が話しましょかねぇ、みなさん方」  湖面に波紋が広がるような空気に、そこにいる全員が息を呑む。  リビングに現れたちゑ子が、多鹿。見据えるよう見下ろしていた。 「お袋……」 「尼子さんから全部聞きましたよ。あたしが自分の夫に唆されてたってこともね」  神楽が勢いよく立ち上がり、母親と父親を交互に見ている。 「唆されたってどういうことだよ、お袋っ。おい、親父、説明してくれっ」 「あたしも馬鹿だったよ。まさか、風化した恋敵のことを持ち出されて金儲けの道具にされかかるなんてね。この男の言うことは昔っから、全部、世迷言だったというのに」  恋敵? どういう意味だろう。瑠生がちゑ子を見ると、目が合って、フッと笑われた。 「久方ぶりだねぇ、坊ちゃん。初めて会ったときはまだおぼこかったけど、えらくべっぴんに育ったもんだ。蘭にそっくりだよ」  スッと瑠生のそばまでちゑ子が近づくと、ほっそりとした指で顎を掴まれた。そのまま上を向かされると、右へ左へと品定めされるよう、顔の向きを変えられる。 「お袋、金儲けの道具って何だよ」  イライラしているのか、神楽は膝の上に両肘を置き、組んだ手で顔を支えながらちゑ子を見上げる。足は小刻みに揺れ、憤怒を床に刻んでいるようだった。 「この人はね、たけだ屋を買収してふく里を潰したら、あたしに向島でも置屋をやれって言ったんだ。蘭の孫がふく里にいるから、好いた男を蘭に奪われた恨みを晴らせるだろうって言ったんだ」  奪った……?  つまり、おばあちゃんがこの人の好きな人を取ったってことか?  戸惑っている瑠生に気付いたのか、「違うよ、坊ちゃん」とちゑ子が言い切ってくれる。 「勘違いしないでおくれ。あたしが勝手に横恋慕しただけさ。ただ、この人の言葉に、一瞬考えちまったけどね。でも、あたしは神楽坂で生き抜くって決めてたからさ」  瑠生の視線に応えるよう、ちゑ子が続きを口にした。 「けど、あたしは向島の性格は好きだねぇ。気取ってないし、敷居もそんなに高くない。昔は三流だと言われたけど、今では東京一の規模を残してる。だからこの人も向島が欲しかったんだろうね」  肩で大きなため息を吐くと、「何だい、客に茶も出さずに」とちゑ子は台所に行って湯を沸かし始めた。 「ち、ちゑ子! 尼子だけじゃなく、お前も俺を裏切るのか! 蘭子が結婚して芸者を辞めたとき、お前は男を持っていかれたと悔しがってただろ! あのときのお前は三十代半ばで引退まで考えてた。だから十五も下の俺と一緒になれって先代が言ったときも、投げやりで一緒になったんだっ。違うか!」  神楽の腕を払い除け、多鹿が立ち上がってちゑ子に唾棄を撒き散らした。 「若い男を()ったから嬉しかった、とでも言えばいいのかい? あたしの気持ちを勝手に決めつけるのはよしてほしいね。だから腹いせに──いや、夫婦の話はここではよしとくよ」  言いかけた言葉をちゑ子が飲み込み、視線を神楽に向けた。  きっと息子を見たのは無意識だ。  大人になったといえ、子どもに聞かせたい話ではないのかもしれない。  高校生の瑠生にでもわかったのだから、神楽もきっと気付いているはず。 「多鹿さん、あなたが瑠生に嘘をついたことは認めますね。当然、たけだ屋の買収も白紙です。あなたが祖父の孫だと気づかず、僕の会社へ来た時点で買収は無理だったんですから」  沖の言葉に今度は多鹿が唇を噛み締め、ギリリと睨みつけている。  ちゑ子が湯呑みをテーブルに置こうとした途端、多鹿は羽織を翻して出て行ってしまった。  自分の亭主の後ろ姿から目を逸らすと、ちゑ子が着物の裾を丁寧に折り込んで床に正座をした。そのまま、瑠生に深々と頭を下げてくる。 「ちょ、ちょっと何をしているんですかっ」  慌ててちゑ子の体を起こそうと、瑠生も床に座り込む。 「尼子さんに聞きました。あの人が馬鹿なことをして怖い思いをしたでしょう。こんなに器量よしで無垢な子を、汚い大人の手で穢されなくて本当によかった。もし、坊ちゃんに何かあったら、あたしは蘭にどう詫びていいか……」  瑠生の頬を撫でながら、ちゑ子が潤んだ目で見てくる。  ふと、泣きそうな目元が神楽と似ているなと思った。 「ばあちゃんと仲が良かったんですか?」 「ああ。親友で好敵手だった。ふく里の桔梗もそうだよ。場所は違うが、踊りの師匠がみんな同じだったんだ。あたしらは切磋拓磨して、東京の花柳界を盛り上げようとしてたんだ。さっき、男を蘭に持っていかれたってあの人が言ってたけど、反対だよ」 「反対? それって……」 「あたしの親友を男に取られたってことさ。けど、長生きはするもんだねぇ。蘭の孫に会えるなんてさ。だからあたしはふく里を訪ねたんだ。坊ちゃんをひと目見たかったからね」  蘭に生写しだねぇ、と嬉しそうな顔で見つめられた。 「……あの、また今度、お時間あるときにばあちゃんの話を聞かせてください」 「ああ、いつでもおいで。けど、あたしも坊ちゃんの半玉姿を見たかったねぇ。きっと蘭にそっくり、いや。もっと魅力的な半玉だっただろう」  瑠生の頬をツンツンと突き、ちゑ子が微笑むと、スッと立ち上がって沖を見下ろした。 「沖さん。今回の件、あんたと尼子さんには心から感謝するよ。危うくあたしは夫殺しで捕まるとこだった。けど、あんたに出会った時点であの人は詰んでたってこった。もしかしたら、お爺さまが引き合わせたのかもねぇ」  ほんと、間抜けな人だよ、とちゑ子が苦笑している。 「あなたがいなくなったら、神楽坂の士気が下がりますよ。まだまだ芸者を鍛えてもらわないと。向島の田辺さんもそうです。お二人がいないと、花柳界の灯火が消えてしまいますから」  ソファから立ち上がって沖が伝えると、ちゑ子が眉根を寄せた。 「沖さん。うちの人はまだ何か企んでいると思うよ。一応夫婦なんだ、顔を見ればわかる。気を付けておくれ。まあ、沖さんもわかってるかもしれないけどさ」  ちゑ子の警戒に沖は驚いていない。  二人が何のことを言っているのか。自分にはさっぱりわからなかった。 「神楽、あんたもだよ。家業を継ぐか継がないかは、どっちだっていい。自分の人生なんだ、自分で決めればいい。嫁だって、あたしは欲しいと思ってないしね。いや、坊ちゃんなら欲しいねぇ。毎晩、晩酌に付き合ってもらえば、若返りそうだ」 「ちゑ子さん、それは絶対に無理です。瑠生は僕がこれから口説きますので」  一種、耳を疑った。沖を見ると、とびきりの笑顔でこっちを見ていた。 「沖、俺はまだ諦めてないからな。何たって、瑠生君は運命の相手なんだ」  神楽が啖呵を切っても、沖は視線すら合わせない。  ちゑ子に至っては、呆れた顔で尼子とお茶を啜っている。羊羹でも切りましょうかねぇ、と長年の茶飲み友達のように。  ふと、尼子と目が合い、思わず沖の腕を強く掴んだ。 「どうした、瑠生」  沖に問われても、どう話せばいいかわからない。  尼子さんはいい人だったけど、やっぱり苦手── 「坊ちゃんはやっぱりおぼこいねぇ。尼子さん、あんたの演技は相変わらずベテラン俳優顔負けなんだよ。ほら、坊ちゃんの顔見てごらん。心底からあんたを怖がってるよ」  ちゑ子の言った意味がわからず、眉間に皺を寄せていると、 「私は幇間(ほうかん)もしてたんでね」  そう言って、尼子が温和な笑顔で見てきた。 「ほ、ほう……かん?」 「幇間ってのは、お座敷で芸者を助けて場を盛り上げる仕事です。太鼓持ちと言った方がわかりやすいかもしれませんね」 「芸者とお客を助ける……知らなかった。ずっと置屋で暮らしていたのに」 「瑠生さんには気の毒でしたけど、あそこまでしないと多鹿さんに見破られそうだったんです。本当に申し訳ない」  頭を掻きながら微笑む尼子に、瑠生は精一杯の笑顔を返した……つもりだった。けれど、みんなが笑っていたから、きっと顔は引きつっていたに違いない。

ともだちにシェアしよう!