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第36話
多鹿家を出た瑠生は、沖の車でふく里に向かっていた。
茉莉花からの電話に始まり、九重に足を運んだ。
そこで待っていたのは、女性に囲まれて育った瑠生には想像を絶するものだった。
沖に助けられてなかったら、今ごろは……考えただけでもゾッとする。
シャワーを浴びたのに、まだ男の放つ臭いが体に染み込んでいる気がした。
忘れたくて外を見ると、窓には夜の帳が下りていた。
建物の輪郭が闇に溶け込むのを流し見ていると、膝に置いた手に沖の手が重なった。
「大丈夫か」
運転しながらかけてくれた言葉は、気をもむような声だった。
沖を見ると、眉根を寄せた横顔でハンドルを握っている。
運転していても、沖には瑠生の安堵と、一雫の不安が伝わっているのかもしれない。
──平気です、と返事はした。けれど、本当は桔梗のいない家に一人で帰るのが怖かった。
男たちに襲われた恐怖がまだ消えない。一人で夜を明かすなんて、きっと一睡もできない。
助けてもらったうえ、買収の話もなくなった。すべて沖が解決してくれたのに、もうこれ以上、甘える言葉は口にできなかった。
何も言えないまま言問橋 を渡り、ふく里に一番近い駐車場に沖が車を停めると、街灯の灯りを頼りに肩を並べて歩く。
まだ、離れたくない──
この言葉を頭の中で何度も繰り返していた。けれど無情にも沖との別れを、目の前の見慣れた景色が突きつけてくる。
ふく里の文字が浮かぶ赤い提灯と、数寄屋門が遠目に見えた。
月明かりの下、革靴とスニーカーの音しか聞こえない世界。ほのかに香る沖の匂いは、このあとの別れを名残惜しくさせる。
土壁に沿って進むと、瓦葺 の庇 が現れ、沖と離れる寂しさが一気に込み上がる。
自然と瑠生の歩幅がゆっくりになり、沖の半歩後ろを歩く形になっていた。
「どうした瑠生。どこか痛いのか」
遅れて歩く瑠生を心配したのか、沖が振り返って声をかけてくれる。
あと十歩ほど歩けばふく里に着くのに、のろのろと歩いたせいで沖を困らせている。
沖がそばに来て背中に手を添え、労るように撫でてくれた。
……また、俺は迷惑をかけてる。
沖に礼を言って早く足を動かし、門をくぐればいい。
庭を通り、鍵を開けて、引き戸に手をかける──たったそれだけのことすればいい。
じゃないと、優しい人は帰るに帰れない。
頭ではちゃんとわかっているのに、足に錘 が付いたように重くて膝が上がらない。
「やっぱり調子が悪いんじゃないのか。あいつらに乱暴されたとこ、痛むんじゃ……我慢しなくていい。言ってみろ。何なら今から救急に行っても──」
心配してくれる言葉を止めるように、瑠生の手は沖の腕を掴んでいた。
「あ、あの沖さん。きょ、今日はあり、ありがと、ございまし……」
最後まで言えずに涙が溢れてきた。
泣くつもりなんてなかったのに。何か話そうとすればするほど喉が詰まって、涙しか出てこない。
沖を繋ぎ止めておきたいのに、もう一人の自分が「ダメだ」と叱る。
……何で俺は泣くんだ。これじゃ、ますます沖さんが帰れないのに。
涙の理由が自分でもわからない。ただ、沖と離れるのが嫌だった。
キスをされて以来、お座敷に呼ばれることはなくなった。
沖が自分から離れていく──そんな予感がずっとあった。
それなのに、彼は駆けつけてくれた。自分を助けるために。
多鹿や男たちに激しい怒りをぶつけ、怯えた体をずっと抱き締めてくれた。
何より、嬉しかったのは、ちゑ子に言った言葉だった。
──瑠生は僕がこれから口説きます。
……あの言葉が本当なら、本気の言葉なら、俺は……俺は。
瑠生は息を潜めて沖を見上げた。
再び芽吹いた蕾が綻びそうな感覚を自覚する。
花びらが一枚、また一枚と開いていく。その隙間から、熱い想いが溢れそうだった。
伝えたい感情があるのに、確かめたい言葉があるのに、言葉が見つからない。
声を出そうとするたび、喉が熱くなって息が震えた。
それでも、もう一度、抱き締めて欲しいと心が乞い彷徨っている。
……沖さんは、蓮香が好き? それとも、男の瑠生?
手を差し伸べて尋ねたら、答えをくれるのだろうか。
受け入れてくれるのか、跳ね除けられてしまうのか。迷いが心の中を巡る。そのとき、沖の唇が先に動いた。
「そんな潤んだ目で見つめられると、また勘違いし──」
全を聞き終える前に、瑠生はスーツの胸に飛び込んでいた。
大好きな沖の香りが頬をすり寄せるたびに濃くなって、押さえていた想いが溢れ出す。
「瑠生……」
……抱きついてしまった。どうしよう、早く何か言わないと沖さんが変に思う。
何も言えないままでいると、沖の両手が瑠生の背中に触れた。
そろそろと、顔を上げると熱っぽい瞳が見下ろしている。
「お……きさ──っ」
名前を呼んだ瞬間、力強く抱き締められた。
頼れる腕に体を覆われると、このまま身を任せたくなる。
「君は……僕を怖がってたんじゃないのか?」
耳元で問われた言葉は、思ってもないことだった。
沖を怖いと思ったことなど一度もない。むしろ、むしろ……
「怖くなんかない。びっくりすることはあっても、そんなこと一度も思ったことないっ。俺は、沖さんが、沖さんのことが、すき──っんぅんっ」
言葉の続きごと、沖に唇を奪われた。
触れた瞬間、二人しかいない世界の時間が止まったように感じた。
浅い口づけが角度を変え、深く重ねられていく。
声も、吐息も全て奪うように荒々しく沖に飲み込まれる。激しく貪られて舌を絡め取られる。
熱でも衝動でもなく、閉じ込めていた想いを伝えようと、瑠生は沖の腕を必死で掴んだ。
息するたびに互いの鼓動が重なり、優しい夜の気配が二人を包み込む。
そのとき、目の端で門灯の揺らめきが見えた。途端に、現実へと引き戻される。
ダメだ、ここは外なのに……
頭ではわかっていても、沖から離れたくない。
口づけが途切れたとき、
「おき、さ、だめ……ここ、そと」
たどたどしく口にした。すると、耳元で「鍵は」と聞かれた。
沖の手に託すと、格子の引き戸を勢いよく開き、瑠生は抱えられるように家の中に運ばれた。沖が後ろ手で玄関を閉める。
二人だけの空間になった瞬間、沖に体を引き寄せられると、再び熱い口淫が始まった。
壁に背中を押し付けられ、左手はそこに縫い留められてしまう。
沖に触れようと手を伸ばすと、長い指がそっと絡んできた。
想いを伝えるように強く握り返すと、それ以上の力で応えてくれる。
沖に追いつこうと、必死で口づけを真似してみる。けれど、瑠生の拙い愛撫は押し負かされ、呼吸さえままならない。
隙間ができるたびに名前を呼び、熱い舌に応えようとした。
口の端から蜜が溢れて首筋を伝っていく。それを沖に舐め上げられると、たまらず、はしたない声が漏れた。
初めて口にする自分の声を塞ぎたいのに、繋いだ手をほどきたくない。
沖に触れていた下半身が反応しているのに気づくと、恥ずかしすぎて死にたくなった。
呼吸も体も乱れて、自分が自分じゃなくなりそうだった。
短い息を繰り返しながら、沖を見上げた。
「靴、脱いで」
低く、甘い声が耳に落ちてくる。けれど身体が麻痺したようにうまく脱げない。
スニーカーがつま先に引っかかってもたついていると、ふわりと沖の腕に抱き上げられた。
振動で靴が落ち、三和土の上で小さく跳ねる音が遠ざかっていく。
沖は瑠生を抱えたまま足でふすまを開け、居間の畳へそっと下ろした。
目線を合わせるように前屈みになり、頬を撫でてくる。
「瑠生……好きだ。初めて会ったときから、ずっと君だけを想っていた。ずっと、ずっと忘れられなかった」
慈しむような眼差しと声。そのすべてが瑠生の心に触れてくる。
「沖さん……」
「──さっき、乱れた着物姿で簪を首に突きつけていた君を見たとき、気が狂いそうになった。君に何かあったら、ちゑ子さんの言う『犯罪者』に僕もなっていた」
……沖さん、震えてる。
かすれた声で絞り出すように言葉を続ける沖。その声が切なすぎてたまらなくなった。
「君が助けてほしいとサインをくれたのに、僕は気づけなかった。それが悔しい」
告白と一緒にこぼれた切ない懺悔が、頬に触れる手のひらから伝わってくる。
沖の指先が唇へと移り、傷ついた箇所をそっとなぞる。
出会うたびに好きが増え、その想いを伝えようとして沖の胸に飛び込んだ。
背中に回された腕で、骨が軋むほど強く抱き締めてくれる。
その痛みさえ、幸せだと感じた。
頭を支えられながら畳に寝かされると、沖が覆いかぶさってくる。
息が触れ合う距離で、瑠生はただ、沖の鼓動を感じていた。
沖の体温が触れた瞬間、胸の奥で何かがゆっくりとほどけていく。
「沖さんが好きです。ずっと会いたかった。助けに来てくれて、嬉しかった……」
思いっきり腕を伸ばして、上半身を浮かすと沖の首に巻き付けた。
愛しさが体の内側から生まれて、離れたくないと必死でしがみついた。
「瑠生、君は僕のだ……」
「沖さ──」
口にした名前は、深い口づけで溶かされた。
居間に二人からこぼれる水音だけが響き、恥ずかしくてたまらないのに、ずっとこのままでいたいと思った。
喘ぐ息遣いの中、自分のモノと沖のモノが屹立しているのに気づく。
唇が離れ、頬にキスすると、沖が下へと降りていく。
動けないでいると、服をたくし上げられ素肌を晒されてしまった。
咄嗟に隠そうとしたその手を掴まれ、胸に口づけを落とされた。
ふるふると怯える二つの突起に吐息をかけられると、初めて知る疼きが芽生えて快感が脳を貫く。
熱い唇で小さな先端のを喰まれ、温かな口内に包まれた瞬間、「っあん」と、声がこぼれた。
「可愛いな、瑠生……」
悦を覚えたように沖の愛撫は止まることなく、瑠生の肌に口づけを散らしていく。
「あ、あぅ。だ、だめ。お……きさ、俺、どうすれば……」
救いを求める声を唇で塞がれながら、沖の手が瑠生の下半身に触れた。
下着ごとパンツを脱がされると、自分以外触れたことのないソコを沖の手で包まれる。
それだけでおかしくなりそうなのに、沖の手が上下に動き出した。
たまらなくなって背中を弓のように反ると、鈴口からあふれる蜜を沖の指がなぞる。
そこを指先で何度も撫でられ、耐えきれなくなった瑠生は自分の腹の上に白濁を撒き散らした。
短い呼吸を繰り返しながら瞳をゆっくり開けると、下からすくうように見上げる沖の目と合う。
「沖さ……ん。お願い。さ、最後まで、して……」
舌足らずな言葉で懇願した。
鼓動が早鐘のように打ち、互いの息が混じり合う。そのとき、沖が瑠生の頬に額を寄せ、切ない声で囁いた。
「……だめだ。今は、まだ」
沖の指が、そっと瑠生の髪を撫でる。
「なんで、だめなんですか……」
もし、蓮香の代わりだと言われたら──そんな言葉は聞きたくない。
確かめたいのに、喉の奥で言葉が詰まって出てこない。
「ちゃんと、君が高校を卒業したら──そのときまで待たせてくれ」
「高校を? でも、そんな先じゃ──」
まだ高二なのに。その間に沖の気持ちが変わったら……沖が離れてしまうかもしれない。
こんなにかっこよくて、大人で、優しい人を、周りが放っておくはずがない。
自分みたいな子どもは、あっさり忘れられるかもしれない。
だったら今、この人のものになりたい。
けれど、それを叶えてもらうことは、沖の罪になってしまう。
そんなこと、絶対にさせられない。
瑠生の気持ちを悟ったのか、沖が額にそっと口づけをくれた。
「君が中学生のときから待ってたんだ。一年なんて平気だ。それに僕は何年だって待てる」
「ほんと……に、待っててくれるんですか」
安心の言葉をもらっても、生まれた不安は消えない。
好きだと言われても、ささくれのように抜けない小さな棘が、胸の奥でチクチクする。
「ああ、待ってる。僕は君以外はいらない」
誠実な言葉は嬉しいはずなのに、素直に受け止められない自分がいる。
たった一つの疑問が、心の奥で糸を引くように残っていた。
瑠生は返事の代わりに、沖の胸に顔を寄せた。
心臓の鼓動が耳に響くたびに、涙がじんわりと溢れてくる。
その涙を気づかれないようにそっと拭うと、瑠生は祈るように目を閉じた。
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