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第37話

 病院にやって来た瑠生は、状態が安定した桔梗にこれまでのことを伝えた。  多鹿やちゑ子、尼子、それから沖が本当は買収をすることは考えてなかったことを。  ただ一つ、多鹿の客にされたことだけは伏せて。 「そうか……沖さんのおじいさんはそんな目に遭ってたんだね。向島の芸者までは届かない話だねぇ」  りんごを剥きながら、瑠生はポツリと呟く桔梗をちらりと見た。  点滴の外れた細い腕が痛々しいけれど、目つきは以前と同じようにしっかりしている。 「で、ちゑ子はどうしてる? 不甲斐ない旦那を九重から追い出したかい? 婿養子はあそこを追い出されたら、行くとこなんかないだろうけどね」 「わからないけど、もしかしたら神楽さんが後を継ぐかもって、尼子のおじさんが言ってた。お母さんは、尼子さんを知ってた?」 「ああ、尼子さんは有名だったからね」  有名……なんか、わかる気がする。 「あの人がひょっとこの面をつけて舞台に上がると、客はみんな爆笑してた。演技も上手かったが性格がよかったんだ。義理堅いし優しいし。それに、切れ者だった」  切れ者──? 確かに初めて見た尼子には恐怖を感じたけれど。  温和に笑うあの顔が切れ者とは、想像がつかない。 「でもこれでたけだ屋さんは安泰だよね。それにウチも。姐さんたちに話したら、喜んでたけど、ホッとした方が大きかったかも」  あの日、沖と入れ替わりにふく里に戻った三人に伝えたときの顔は、一生忘れない。  錘を下ろしたようにホッとした椿の顔。ほろほろと涙をこぼして喜ぶ里菊。  泣きたいのを我慢して歯を食いしばっていた梅ちえは、思いっきり瑠生を抱き締めてくれた。  姐さんたちの喜ぶ顔を見ることができたのも、全部、沖のおかげだった。  多鹿に騙されて沖に助けてもらった日、二人の想いは重なった。  靴の中に入り込んだ小石のような不安だけを残して。 「もう一個、リンゴ剥こうか」  瑠生が立ち上がったそのとき、病室の扉が勢いよく開き、英恵が飛び込んできた。 「女将さん、どうし──」 「き、桔梗さん。大変よっ。明日の会合がキャンセルになった! 組合会長も、理事も常連も、みんな九重に場所が変更になったって言ってるの。おまけに、たけだ屋は九重の二号店になるって噂まで広がってるよ」 「ど、どういうことですか。だって昨日、多鹿さんは──」  言いかけた声を閉じ込めた。ちゑ子の言葉が瑠生の頭によみがえる。  ──うちの人はまだ何か企んでいると思うよ。  ちゑ子が警戒していたのは、このことだったんだ。  呆然としていると、英恵がさらに言葉を続けた。 「桔梗さんに心配かけさせたくないから黙ってたんだけど、昼座敷が軌道に乗ったころ、夜のお座敷の予約が少しずつ減ってたんです。しかも、馴染みの客ばかりが顔を見せなくなって。おかしいって思ってたんですけど、全員じゃなかったから不景気のせいかなって……」  英恵の言葉で桔梗と顔を見合わせた。同じことが頭に浮かんだはずだ。 「お母さん、名簿……」 「ああ、きっとそうだね」 「名簿? ひょっとして顧客名簿のこと? あ、もしかしてそれがよそに流れとか!」  英恵の言葉に桔梗が深く頷いた。そして布団に額をつけるほど頭を下げている。 「すまない、英恵さん。実は少し前に名簿を失くしたんだ。家中探したんだけど見つからなくてね。家に他人が来た形跡もないし、盗むにしてもあんな古い帳面なんて目もくれないだろうと思うんだけど」  桔梗の言葉で心臓が止まりそうになった。  ふく里の人間以外、来た形跡は……ある。ふく里を離れた人がヤ置屋にやって来た。 「あのさ……、みんなが留守のとき、茉莉花姐さんが置屋に来たんだ。俺が自分の部屋にいる間、あの人は一人だった。居間に戻ったら帰ったあとだったんだ……」  声が震える。状況からして盗んだのは茉莉花の可能性が高い。 「茉莉花がふく里に? いつごろだい?」  静かな口調で桔梗に聞かれ、咲希が半玉デビューした日だと答えた。 「なるほどね。誰もいないだろうと思ってその日を狙ったんだ。相変わらず狡い性格だ」  桔梗の声で血の気が引いた。  また自分のせいでたけだ屋とふく里を追い詰めてしまった。 「お母さん、女将さん。す、すいません。俺がいたのに気付かなかった。もっと早く伝えていたら。どうしよう、どうしたらいいんだ」 「落ち着いて、瑠生君。あんたのせいじゃないよ、悪いのは茉莉花だ。自分がふく里を継げなかったからって、やっかみもいいところだよ」 「そうだよ、瑠生。あんたは悪くない。ほら、こっちにおいで。そんな顔をしなさんな。瑠生は十分働いてくれたじゃないか」 「そうだよ、坊ちゃん」  背中から聞こえた声に振り返ると、ちゑ子が立っていた。隣には尼子の姿もあった。 「ち、ちゑ子さんっ」 「これはまあ──また、異色の組み合わせだね」 「異色って、どっちがだい?」 「どっちもでしょう。私が何度も神楽坂に足を運んでも『忙しい』って会ってくれなかった人が、どういう風の吹きまわしやら」 「それは桔梗が、たけだ屋の買収にあたしも一枚噛んでると疑うからでしょうが。人を怪しむ相手に、誰が会うって言うんだい」  置屋の主人、二人の声が病室に響く。  瑠生と英恵はその間でオロオロと目を泳がせていた。  そのとき、桔梗がベッドの上で正座をして──すっと頭を下げた。 「……どういうつもり?」  凛とした声でちゑ子が問うと、桔梗が小さな声で懺悔を口にした。 「全部、瑠生から聞きました。あんたも被害者だったんだね。本当に……悪かったよ」  桔梗が頭を下げ続けると、ちゑ子が草履を一歩、前へと進めた。  瑠生の頭を撫で、それから桔梗のそばに立ち、背筋をピンと伸ばす。 「坊ちゃんは、本当に蘭に似てるねぇ。──ねえ、この子、あたしにくれないかい」  ちゑ子の言葉で勢いよく桔梗が頭を上げると、ちゑ子の顔を見据えた。 「ごめんだねっ」と、病人らしからぬ大声を放つ。  一人部屋だからいいものを、大部屋だったら大迷惑だ。それほど桔梗の声は大きかった。 「あんたには悪いと思っているけど、瑠生のことは別だ。それにあんたには息子がいるじゃないか。いい男の」  桔梗が言うと、ちゑ子が大笑いした。 「あははは、確かに。ちょっと言ってみただけじゃないか。坊ちゃんのことは諦めてるよ。で、今度はあたしが謝る番だ」 「謝る? あんたが私に謝るって、何を」 「ふく里とたけだ屋の太客、こっちに流れてきてるだろ。あれ、うちの馬鹿亭主のせいだ」 「えっ! 多鹿さんが? な、何で? どういうことですか」  再び登場した悪人の名前に一驚した。 「茉莉花か……」  桔梗がため息をつくと、ちゑ子と無言で頷き合っている。 「馬鹿亭主は、茉莉花と浮気してたんだよ。少し前から知ってたけど、まさか、愛人に元の職場の名簿を盗ませるなんて、汚いやり口だよ」  瑠生は声も出なかった。  息子の前で不様な父親の姿をさらしたというのに、多鹿には反省の欠片もなかった。 「茉莉花が誰かと繋がっているとは思ったけど、まさか、あんたの亭主だったとはね。迷惑をかけた、申し訳ない」  桔梗が額に手をやると、肩を落としてため息をついた。 「年上女の養子になって窮屈だったんだろう。ま、自分で望んだんだ、同情はしないさ」  そう言ったちゑ子の顔は、どこか晴れやかだった。 「あれでも、若いときは血気盛んでいい男だったんだ。小狡いとこがあっても昔はそこも笑って済ませられた。けど、沖さんのことはやり過ぎだ。それに今回のこともね」  瑠生が椅子を差し出すと、ちゑ子はそれを手で断る。年齢を感じさせない振る舞いに惚れ惚れする。 「あんたの旦那は、どっかでゆがんじまったんだね」 「あの歪みは、もう治らないだろうさ。それより明日の件、尼子さんに頼んで客には説明してるから安心しとくれ。会長や理事にも話したよ、犯罪紛いなことをしてる輩がいるってね」  ちゑ子の話に桔梗も英恵も、そして瑠生も目を丸くした。  この人は自分の夫を売ったのか──?   真実を知れば九重の料亭はどうなる? 従業員や神楽はどうなるんだ。 「瑠生さん、お客様方に説明してくださったのは、沖さんと神楽さんですよ」  今度は尼子の言葉に息を呑んだ。 「沖さんが? それに、神楽さんも……」 「神楽ってあんたの息子だろ。いいのかい? 父親の矢面に立って」 「さあ、どうなるかねぇ。本人が望んだんだから、あたしは見守るだけさ」  腹を括った──瑠生の頭に、梅ちえの言葉が浮かんだ。  昨日、ちゑ子の口から後継の話が出たときにはもう、神楽は決めていたのかもしれない。  沖や神楽の行動を知って、瑠生は焦燥感に襲われた。  彼らに比べて自分は何て非力でちっぽけなんだろう。  瞳に不安を滲ませていると、ちゑ子が頭を撫でてくれた。 「心配しなさんな」  心配は、してない……  沖が、神楽が、きっと丸く収めてくれる。自分だけが何も成し遂げていない。  役にたつどころか助けてもらってばかりで、桔梗や姐さんたちに米一粒も返せていない。  男の自分がふく里を守らなければならなかったのに、所詮、未熟な子どもなんだ。  尼子の携帯が鳴り、誰かと話をしている。会話の内容からして、沖か神楽なのがわかった。 「みなさん。明日の会合は予定通りたけだ屋で行います。二号店になる話も誤解は解けたようです。それと、名簿は多鹿さんが持ってました。今は神楽さんの手にあります」  電話を切った尼子から説明を聞いて、英恵が大きな息をはいた。  多鹿の悪巧みも防ぐことができ、病室には安堵の空気が流れていた。  あとはちゑ子や神楽がどう答えを出すかだ。でも、それは他人が口を挟めることではない。  病室の扉がノックされ、看護師が夕食を運んでくれた。  病院は食事の時間が早いねぇ、とちゑ子が笑う。  桔梗と何やら目配せし、また来るよと告げて尼子と一緒に帰ってしまった。英恵も明日の準備があると、急いで病室を出て行った。  瑠生も帰ろうとしたら、桔梗に呼び止められた。 「瑠生。あんた、自分が何もできなかったって思ってるだろ」  図星を突かれた。  数年しか一緒に生活していないのに、桔梗は自分のことをお見通しだ。 「お母さん、ごめん。俺、役立たずで。俺を引き取って育ててくれたのに、俺は、何も返せてない……」  もし、男じゃなく女だったら……  今よりもっと稽古をして半玉になって、立派な芸者になって桔梗に楽させたかった。  何度も何度も考えたことだった。  せめてもっと大人だったら、尼子のように動けたかも知れない。  こんな、女みたいな顔と体の中途半端な人間は、何も持っていない。何もできない。  自分自身への罵倒が止まらず、勝手に涙が溢れてくる。  泣いて謝って反省している間に、大人たちが全て解決してくれたのだ。 「……私は、蘭子が羨ましかったんだよ」  ポツリと語り出す桔梗の声に、顔を上げた。 「私はね、子どもができない体なんだ。昔、腹の中をいじったことが原因でね」 「腹の中を?」  言葉の意味がわからず、黙って続きを聞いていると、桔梗がフッと笑った。  普段はあまり笑うことのない桔梗が、たおやかにほほ笑んでいる。 「まあ、そう言うわけで結婚は早々に諦めたよ。けど、子どもはやっぱり欲しかったね。だから、蘭子が羨ましかったんだ。でもね、あの子が余命宣告されたとき、私が見舞いに行ったら、自慢の孫をやるって言うんだよ」  ……孫をやる? 俺をお母さんに渡すつもりだった? 「瑠生は正直だね、すぐ顔にでる。何も、猫の子やるみたいに私がもらう約束なんてしてないよ。蘭子は自分や娘に何かあったら、瑠生を頼むって私に言ってきたんだ」 「そんなこと、ばあちゃんが……」  ベッドの上に置いていた手の上に、桔梗の手が重なった。 「私は不吉なこと言うんじゃないと叱ったけど、まさか蘭子だけじゃなくて瑠生の母親まで、あんなに早く逝っちまうとは思わなかったね」  そうか。だから葬式の日に、桔梗は迷うことなく自分を引き取ると言ったんだ。  自分だけが知らないところで、大人たちは子どもだった自分を守ろうとしてくれていたんだ。  やっぱり、俺は非力── 「ありがとうね、瑠生」  瑠生の思考に桔梗の声が重なる。  なぜ礼を言われたのかわからず、潤ませた目を擦って桔梗を見た。 「置屋みたいな商売してるところに来てくれて。もっと、そうだね、例えば野球が得意な父親がいる家だとか、頭が良くて勉強を教えてくれる母親とか。そんな家の子どもになるチャンスがあったのに」  そんなこと……ない。俺は、ふく里にきて、お母さんのもとで暮らせて──  言いたいことが山ほどあるのに、口を開けば泣きそうだった。 「だけど、私は瑠生と暮らしたかった。蘭子と約束したからだけじゃない。子どもを育ててみたかったんだ。それを瑠生が叶えてくれたんだよ」  重ねた手をポンポンと軽く叩く。桔梗のその手は、温かくて優しい。 「化粧くさい女ばかりの場所なのに、あんたはクサることもせず、まっすぐ素直でいい子に育ってくれた。おまけに芸事に興味を持ってくれるなんて、私がどれだけ嬉しかったかわかるかい? なのに瑠生が何もできないって? 役立たずだって? そんなこと言うやつは、瑠生でも許さないよ」 「お母……さん」 「瑠生は私や芸者たちに優しさと癒しを余るほどくれたんだ。これ以上瑠生に求めたら、バチが当たるってもんだ」 「……俺、ふく里に来てよかった? 迷惑じゃなかった?」 「当たり前だ。瑠生はふく里の、私らの家族だ。いてくれるだけで幸せなんだ」  全身の力が抜け、桔梗のベッドに突っ伏した。  嗚咽を漏らすと、桔梗が何度も背中を撫でてくれる。  親戚に煙たがられた瑠生に差し伸べてくれた手は、祖母に似ていた。握った瞬間、瑠生はただ恩を返すことばかりを考えていた。  捨てられないように役に立とうと必死だった。それなのに、本当の孫のように思ってくれていたのだ。 「あ、りがとう、お母さん。でも、俺はやっぱり恩返しがしたい。何でもいいから、みんなの役に立ちたい。だから何でも言ってほしい。俺にできることは全力でやるから」  勢いよく顔を上げ、泣き腫らした目で桔梗を見つめた。  シワだらけの手が瑠生の頬を撫でる。桔梗は微笑んで言った。 「じゃあ、一つ頼もうか」 「何、何でも言ってよ!」 「じゃ、もう一回、半玉になって儲けてくれないか」  不適な笑みで桔梗が言う。 「も、もうそれは勘弁してよ。今度は本当に組合から追い出され──」  焦って言うと、桔梗はニヤニヤしている。  冗談だとわかると、瑠生は思わず病室で叫んだ。 「もう、冗談は宇多師匠で十分だってぇ!」

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