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第一章 均衡の庭 ― 主従の序曲 ― 1-3 判断のズレ

もし、今ここで何かを変えたら。 違う。 変える話ではない。 私は水鉢から視線を外す。 外したあとも、位置は覚えている。 覚えていることが、少し邪魔だ。 杯を取る。 今度は起こす。 起こすまでの間が、わずかに遅れる。 遅れた理由は、数えない。 水面が揺れる。 揺れは一度だけで、すぐに止まる。 止まったあと、縁に寄った塵が残る。 払えば消える。 払わない。 黒い布の上で、短刀が光を受ける。 鞘に収まったまま。 だが、刃の向きが透ける。 透けた角度が、神木の刻みとずれている。 私は、それを直さない。 直さないことを、選んだとは言わない。 ただ、手を出さない。 紙束を持ち上げる。 下ろす。 下ろした位置が、前と同じかどうか、 確かめない。 石灯籠の影が、少し動く。 弦が、位置を変えた。 半歩。 前でも後ろでもない。 私は何も言わない。 言えば、命令になる。 命令にする必要は、ない。 弦は私を見ない。 見ないまま、短刀のそばに立つ。 立つ位置が、私の動線から外れている。 それは、初めてではない。 だが、 初めてだと感じた。 短刀に、弦の影がかかる。 刃先の位置が、影で隠れる。 隠れたからといって、 存在が消えるわけではない。 私は筆を見る。 取らない。 まだ書くことはない。 そう思う必要も、本来はない。 「……」 声にならない音が、喉で止まる。 止まったまま、落ちない。 弦が、短刀に手を伸ばす。 触れない。 触れない距離で、止まる。 その距離は、 命じた覚えがない。 私は、そこで初めて、 弦の位置を見る。 見る、という判断をした。 神木の葉が揺れる。 風ではない。 枝でもない。 影が動いたせいだ。 均衡は、まだ崩れていない。 だが、 崩れていないことを、 一つ一つ確認している自分に気づく。 気づいた瞬間、 それ以上は進まない。 私は弦に、何も言わない。 弦も、何も言わない。 命令は出ていない。 だが、 命令だけで済んでいた時間が、 ここで一度、止まる。 判断は、まだ形にならない。 ただ、 形になる手前で、 留め置かれる。

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