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第一章 均衡の庭 ― 主従の序曲 ― 1-4 二拍の余韻
もし、ここで命じていたら。
違う。
命じなかった話だ。
杯を置く。
位置は決めない。
決めないまま、手を離す。
離した指の温度を、数えない。
短刀は鞘に収まったまま、
布の中央を外れている。
外れているが、危険ではない。
危険でないことが、
いまの基準になる。
紙束は整っていない。
整っていない状態が、
整っているとみなされる。
そう扱えば、問題は起きない。
弦は動かない。
半歩の距離を保ったまま、
私の動線に入らない。
入らないことが、
命令の代わりになる。
私は筆を取る。
取るが、書かない。
紙に触れた穂先が、
何も残さず離れる。
「……」
声は出ない。
出さなかったのではない。
出る形を、選ばなかった。
弦の手が下がる。
下がった位置は、
最初の場所と同じではない。
同じでないことを、
誰も数えない。
神木の葉が、
もう一枚落ちる。
三枚目だ。
偶然と呼ぶには、
少し多い。
だが、規則ではない。
私は、水鉢を見る。
水面は静かだ。
静かなまま、
時間だけが進む。
均衡は、まだ保たれている。
保たれているが、
その保ち方が、
一つだけ変わった。
命令は出ていない。
だから、破られていない。
破られていないから、
正しさは残る。
残った正しさは、
前と同じ形ではない。
同じだと主張しないことで、
同じとして扱われる。
私は、何も直さない。
弦も、何も言わない。
式は行われない。
行われなかったことが、
ここに残る。
準備は終わっている。
終わっている状態が、
片づけられないまま、
庭に留まる。
今日も、
何かを始める理由はない。
だが、
始めなかった理由だけが、
静かに積み上がる。
神木は揺れない。
揺れないまま、
影の形が少し変わる。
私は、それを見て、
見たままにする。
均衡は、
続いていく。
ただ、
戻り方を失ったまま。
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