8 / 9
第二章 揃えない選択 2-3 距離の揺れ
今日は、戻そうとしなかった。
戻さなかった、ではない。
戻すという動作が、
頭に浮かばなかった。
水鉢は、
庭の外にある。
持ってきていない。
忘れたとも思わない。
私は神木を見る。
見る位置が、
昨日より近い。
近づいた覚えはない。
黒い布を広げる。
端が、
石畳の継ぎ目を越える。
越えたことに、
理由を与えない。
短刀を置く。
鞘の向きが、
神木に背を向けている。
向きを直す指が、
動かない。
動かないことが、
初めて自然に感じられる。
紙束は、
順番を確かめない。
確かめなかったことで、
不都合は起きていない。
弦は、
影から出ない。
だが、
影の境目が曖昧になる。
境目は、
昨日から数えていない。
私は一歩、
位置を変える。
変えた距離は、
半歩にも満たない。
それでも、
戻る位置が分からなくなる。
分からなくなったことを、
確認しない。
弦の手が、
短刀に触れる。
触れた、と言い切れない。
距離が、
消えただけだ。
私は、
それを止めない。
止めるという言葉が、
浮かばない。
神木の影が、
私と弦の間に落ちる。
境界ではない。
だが、
越える必要もなくなる。
均衡は、
まだ保たれている。
だが、
保つために何をしているのかを、
説明できなくなる。
説明できないことが、
問題にならない。
私は筆を取る。
取るが、
書くべき項目が見つからない。
見つからないまま、
紙を戻す。
弦が、
視線を上げる。
私を見る。
見る理由を、
命令にしない。
その瞬間、
昨日まであったはずの
「元に戻す」という選択肢が、
庭から消える。
消えたことに、
音はない。
気づいたときには、
もう探さない。
ともだちにシェアしよう!

