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第三章 命令の形 3-1 命令の形
今日は、声を出してもいい日だった。
そう決まっていたわけではない。
だが、
出さない理由が見つからなかった。
庭に入る足取りは、
これまでと同じだ。
同じであることを、
確かめない。
水鉢は、
やはり置かれていない。
置かれていないことが、
もう説明を必要としない。
黒い布を広げる。
中央から外れた位置。
その配置に、
迷いはない。
短刀は、
鞘のまま。
向きは、
神木に背を向けている。
背を向けていることを、
不敬とは呼ばない。
紙束を取る。
朱の印に、
視線は落ちない。
確認しないことが、
手順に含まれ始めている。
弦は、
影の中にいる。
距離は、
これまでより少し近い。
近いが、
触れない。
私は、その距離を
数えない。
「……」
音が、
喉の奥で形を持つ。
昨日までとは違う。
出すつもりはなかった。
だが、
止める理由もなかった。
「今日は」
言葉が、
落ちる。
命令ではない。
まだ。
弦の動きが止まる。
止まったことが、
はっきりと分かる。
私は続きを言わない。
言わなかったことが、
途中で切れた文として
空気に残る。
「今日は」
それだけで、
意味が生まれそうになる。
生まれる前に、
私は口を閉じる。
閉じた理由を、
説明しない。
弦は、
私を見ている。
初めて、
見ることを隠さない。
その視線は、
命令を待っている。
だが、
命令として受け取ってはいない。
私は、
筆を見る。
取らない。
言葉は出た。
だが、
形を与えていない。
命令は、
まだ成立していない。
それでも、
沈黙だけで保たれていた時間は
ここで終わる。
終わったことを、
記録しない。
均衡は、
まだ保たれている。
ただ、
言葉が混ざった分だけ、
保ち方が変わる。
私は、
それを修正しない。
修正しないという判断を、
判断として扱わない。
命令は、
まだだ。
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