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第3話 クランクイン①

 その日、予定よりも三か月近くもずれ込んで、『スキャンダル』の撮影が開始された。  当初予定されていた舞台は冬で、そこからこの話はある殺人事件を軸に、様々な権力や人間関係、犯罪現象を抱合して進んでいく予定だった。  三か月ずれ込んだ結果、オープニングシーンは陰鬱な灰色の雪空ではなく、埃っぽい熱風が吹き抜けるビルの路地裏となった。  ジェラルドは腕時計を見る。  まだ自分の出番は回ってきそうにない。主人公といっても出ずっぱりという訳ではないので、他の俳優の状態を待つのは当然だった。  目の前では警官役が傷害事件現場に遭遇しているところだ。監督の指示が飛んでいた。なかなか思うように画面が作れないらしく、テイク数が二ケタを超えている。  春先とはいえロサンゼルスの雲ひとつない強い日差しと、アスファルト照り返しで、もともと汗かき体質のジェラルドの髪はじっとりと濡れ、スタイリストが作ってくれたヘアスタイルも、見事にうねり崩れている。アウトローな役柄に合うからと、手入れもされない無精ひげが暑かった。 「もう少し、時間がかかるようだね」  背後から声をかけられて、ジェラルドは腕を組んだまま振り向いた。  一〇センチくらい低い位置から、髪も肌もその華奢な体もそれを包むシャツの色すら、全体的に強い日差しに溶けそうな薄い色の男が立っている。彼はジェラルドの視線に気がつくと、口角をくいっと上げて、にこりと笑い、濃くはない色のサングラスをはずした。 「失礼。強い光に弱くて。はじめまして。ユアン・ルイスだ。ジェラルド・ネイサンだね。よろしく」  上品な英国系の発音でジェラルドはユアンから握手を求められる。が、彼の顔を見つめたまま、暫くジェラルドは反応できなかった。  ユアンは美しい男だった。  ネットで見た写真は、確かに美形ではあったが、四〇前の普通の中年といえば中年であった。それが実際に会ってみると、まったく印象が違う。例えるなら芸術品を図録で見るのと、実際に見るのと、感動がまったく違うのと同じくらい。インパクトが違う。  柔らかい雰囲気に、澄み切った瞳。その容姿に一点の狂いもなく、まるで大天使でも降りてきたのかと思った。 「……なにか?」 「あ、いや。すまない。ジェラルド・ネイサンだ。よろしく」  ジェラルドは多少緊張しつつ、あわてて手を取った。  雰囲気に圧倒されただけではない。ギャラランクで言ったら、ジェラルドなど比べようもない高額俳優である。もっと近づきにくいものかと思っていたから、こんなすんなり声をかけてくることが意外だった。 「もうそろそろかと思ってきてみたんだが、なかなか手間取ってるみたいだね」 「俺の出番がまだ来てないから、あんたの出番はさらに先だよ」  ジェラルドは小脇に抱えていた脚本とタイムスケジュールをめくる。横からユアンがひょいっと覗き込んだ。 「じゃあ、ここじゃなくて、少なくとも屋根のあるところへ行かないか? 暑いのは苦手なんだ」  ユアンがサングラスをかけなおしながら提案する。そうは言うものの、彼はジェラルドに比べれば汗一つかいていなかった。 「それとも、君は現場観察で、演技を学ぶタイプかな?」  サングラスの隙間から、綺麗な目で悪戯っぽくジェラルドの顔を見る。  そのコミカルな態度に、ジェラルドの緊張は解れ、背中からふっと力が抜けた。 「あんたの演技ならともかく、この現場はさっきから何回もテイクを見てるんで、いいよ」 「さり気なく嬉しい事を言ってくれる。君はいい男だな、ネイサン」  ユアンは満面の笑みで応える。  その笑みがあまりにも素直で綺麗だったので、ジェラルドは彼が同性で、年上の、言うなればただの中年である事を忘れて、見とれてしまった。 「何か?」 「あ、いや……。俺なんかよりずっと格が高いんで、少し緊張してるんだ」 「正直だな。でも気にしないでくれ。私達に違いはない。同じ人間で、同じ現場の、同じ仕事をする仲間だ。違うとするなら、私は君よりも少し、芸歴と歩んだ人生の年数が多いだけだよ」  ほんの少しだけね、と親指と人差指に小さな隙間を作って示すが、一〇年の経験差は決して彼が言うほど小さい差ではない。彼なりのジョークなのだと理解して、ジェラルドは小さく笑った。

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