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第8話 ゲーム②
電話はなかなか切れなかった。
しばらくの沈黙の後、ユアンの部屋にインターホンの音が響いて、ユアンの方から通信を切った。
ユアンはi-phoneを持つ手で額を押さえ、少し目を閉じて、深いため息を付く。このまま余韻に浸っていたかった。
もう一度インターホンが鳴った。
ソファーから立ち上がり、ドアの方へ歩いていく。扉の中央につけられたのぞき窓を見て、ユアンはさっきとはまったく対照的な無表情で扉を開けた。
背は、ユアンと同じくらいの男がいた。少し頬が痩けてユアンよりもハードな人生を感じさせる皺が顔に刻まれている。長い無精ひげと延ばしっぱなしの髪が野生味を感じさせる男だった。
彼は立ち尽くしたままのユアンの顔をにやっと見ると、すいっと横をすり抜ける間際、その顎を軽く捕らえ、触れる程度に唇を奪って行った。
「居留守使うなよ」
「鍵を、持ってるいるんだろ? カーク」
ユアンは何事もなかったように扉にドアを閉めて、振り向く。
ジョン・カーク。
ユアンと同じイングランド出身の俳優で、現在はロスに事務所を構えて、俳優仲間と共同名義で芸能プロダクションの社長をしている。彼はかつて『大罪』でユアンの恋人役をやった人物だった。
ジョンは先ほどまでユアンが座っていたソファーにふんぞり返り、ユアンを見た。
「『あの頃』みたいに、内鍵でもされてるんじゃないかと思ってね」
ジョンが言う『あの頃』というのは、『大罪』が公開された後、一年くらいの間の事だ。
『大罪』が公開された後、宗教や道徳を司る団体からは突き上げをくらい、それを受けてマスコミはこぞってユアンを取り上げ、結果、アメリカのショービジネスは彼を金の成る木だと獲得合戦に躍起になった。
その頃のユアンは、『大罪』という映画そのものに押し潰されそうになり、そこへきて自分ではどうしようもない周りの騒ぎに疲れ果て、ノイローゼのような状態になっていたのだ。
映画の公開直後はなんとか与えられた仕事をこなしてはいたが、ついに限界を迎え、誰にも会うことが出来ず、家の中に内鍵をして引き込もる生活を始めてしまった。
そんな時の彼を支えたのがこの男である。
「こんな時間に、何の用だ?」
「ロスに来ていると聞いて。発情してるんじゃないかと思ってね」
ユアンはジョンと対峙する。
ジョンは立ち上がり、ユアンへと近づくと、ぐいっと腰を密着させる形で抱き、深く唇を重ねた。
唇を吸い、舌を入れ、口腔内を愛撫する。性急さはない。撫でるように、味わうように、または猫が主人に遊びを求めるように、ゆっくりと。
ユアンはまったく反応を示さなかった。目を開いたまま、されるがままになっている。彼の心は冷え冷えとしていた。
確かにかつて、ジョンを自分から求めたことがあった。だが彼は、ユアンを裏切った。ユアンとのシェアルームに、別の人間を連れ込んだのだ。
それで縁が切れた。破局、というほど親密な関係ではなかったが、信頼、に対する背信行為ではあった。
しかし、そんな冷えた関係と心を裏切って、すぐに体は反応した。ただでさえジェラルドとのやり取りで帯びた熱が、熟れてはけ口を求め始めていた。
「ン……はっ………ぁ」
吐き出される吐息も、触れられた肌も期待に震え、腰は甘く溶けて、膝がゆっくりと力を失う。
「ん? ユアン。今日はどうして欲しい? 抱きたいか? それとも抱かれたいか? 俺はどちらでもかまわないよ」
強く抱き止めたジョンが、耳元で甘く囁く。
違う。
欲しいのはその声じゃない。
欲しいのは、あなたではない。
ユアンは白々と冴えたまま残る意識の中で叫ぶ。なのにその意識をさしおいて、体が淫薇な快感を求める。体の中心で、絶望的な興奮が高まっていく。
「ベッドへ行こうか? ソファでもかまわないが、君が嫌がるからな」
禁断症状を見せる麻薬患者のように力を失ったユアンを、ジョンはその肩を抱いてベッドルームへと連れていった。
ユアンはベッドに荒々しく放り投げられる。
白い肌をほんのりと赤く染めて、乱れたシャツもそのままに、しどけなく横たわるユアンを、ジョンはシャツを脱ぎ去りながら見下ろす。
「10年前から知っているが…変わらない。いつ見てもセクシーだ」
「明かりを、消してくれ……」
「抱かれたい気分のようだな」
くっくと意地悪く笑って、ジョンはルームライトを一番暗いオレンジに変える。暗闇にかすかに浮かび上がる陰影が、なおユアンを妖しく見せた。
ジョンがユアンに重なり、その顎を強くつかんで、今度は噛みつくように口づけた。先ほどの柔らかく優しい愛撫ではなく、口の自由を奪い、舌を痛いほどからめとって、唾液を流し込む、息をも止めよといわんばかりの暴力的なキス。そうしてユアンの唇が、意識が、蹂躙される。
ジョンが二人の空間に第三者を連れ込んで、二人の心理的繋がりは完全に切れてしまったが、それ以前からユアンがジョンを愛してなどいないことは、二人とも薄々感じていた。
ユアンが必要とするのは快感と、それを与えてくれる体だ。それだけを求めてしまう得体の知れない深い闇と業を抱えている。そういう存在だった。ジョンは、大罪という映画のパートナーとして、彼のその闇を一番理解しているという事にすぎない。
体だけの関係でいい。
そう思うけれども、頭の片隅で、どれだけ体を重ねても、愛を囁いても、ユアンが誰も受け入れられない事はジョンのみならずユアンにもむなしさを誘う。
嫉妬が、もしかすると二人の間で気づけなかった愛の存在を健在化させるのではないか。ジョンが第三者をユアンに示したのはその実験だった。だが、ユアンは『出ていけ』と言っただけで、その後関係の修復を求めることもなく、かといって体の関係を拒否する事もなかった。
本当に、体だけの相手なのだ。
ユアンの心はどこにあるのか。その所在を知りたいジョンの愛撫は自然と暴力的になる。
ユアンは衣服を毟り取られ、すべらかな肉体を圧迫するくらい強い力で手を這わされる。無意識に逃げる体を力づくで押さえつけられ、体中に時折噛み付くほどの口づけを与えられる。痛みにしろ、快感にしろ、強いアクションに、ようやくユアンは素直になり、眉根を寄せ、泣きそうな声で懇願する。
「痕を、つけ……るな」
「わかってるよ。お互いプロだからな」
そう言いながら、ジョンは内腿に強い痕が残るほど口づけ、軽く肉を噛む。
ユアンのモノはすでに勃ちあがり、手を沿わせると快感の滴を垂らして震える。ジョンはそれを敢えて痛みを感じるほど荒々しく弄び、口に含んで、舌で愛撫した。
ユアンは体を捩り、背をそらして、小さく高い嬌声を上げる。虚ろな目は潤み、形のよい唇の端から一筋の滴が流れる。
何も考えられない。体の内側を溶ける熱だけが、ユアンを支配する唯一の感覚だ。
「壮絶に、美しいね」
ジョンは身を起こし、大きく舌を差し出して唇の端を舐める。そのまま顎のラインをたどり、耳朶を唇で甘噛みする。手で彼の足の付け根を卑猥に撫で、互いの熱で濡れる股間をすり付ける。時折解れたユアンの尻穴に彼が指を潜り込ませると、媚態じみた震えとともに、ユアンは動物よりも本能へダイレクトに響く淫靡さで誘うのだった。
むなしいセックスだ。
ユアンもジョンも、互いにそう思うのにやめられない。それは、頭がドロドロに溶けてしまいそうな淫らな感覚も一つの要因だった。
ジョンは荒い息で尋ねる。
「スキンはどこだ?」
「なぜ、私がそれを用意していると?」
ユアンは枕に頭を埋めたまま、ジョンに恨みがましい視線だけを向ける。
「仕方ないな」
ジョンは勃ちあがった自身の男根とユアンのそれをすりあわせ、ユアンの手を導く。
恥ずかしそうに顔を反らすユアンの表情を楽しみながら、ジョンはユアンの手を使って二人の欲望を弄んだ。
「今夜は、このままイこうか。一人でする時みたいに、好きなように触ってごらん」
ジョンは耳元で、親が子供をあやすように、優しく、ゆっくりと囁く。
ユアンは小さく首を振ったが、ジョンの手が蠢くと、もうそれを止めることは出来なかった。
嬌声…荒い吐息…汗…まじりあう精液の卑猥な音…………。
やがてベッドは静かに熱を失い、薄暗いルームライトの中で、ベッドサイドランプのひと際明るい光が灯る。
ユアンから離れたジョンは、枕をクッションにして座った。そのまま、ベッドの下に無造作に脱ぎ捨てられた衣服を探り、マルボロの箱と使い古された銀色のライターを取り出す。
かちん、という音のあとに、小さな炎とそれによってつけられたタバコの火が明滅し、煙が吐き出される。
ユアンはベッドにうつ伏せのまま、ぐったりと脱力して埋もれていたが、自身の生活のなかでは異質な臭いに、しかめっ面でゆっくりと体を起こした。
「ここは禁煙だ」
そうは言いながら、ジョンのくわえたタバコを横取り、一吸いしてから、再び返す。ベッドサイドに緩慢な動作で背を向けて座り、煙をため息とともに吐き出すと、ベッドの下に投げ捨てられたシャツだけを羽織った。
ざらついた後悔と、それを助長する心地よい疲労。
乖離する心と体を持て余し、ユアンは思い通りにならない自身がもどかしかった。
「早く、身を固めろよ」
「あなたのように?」
ジョンの提案に、ユアンはちらりと振り向き自嘲気味に言った。
ジョンはユアンとこういう関係を年に何度か結びながら、四年前に結婚した。今は二人の子持ちだ。
「奥さんに悪いとか、思ったりは?」
「俺とお前の間に愛があればな。でもそんなものが俺たちの間にあるかどうかは……お前が一番わかってるはずだ。気持ちが通い合わなければ、セックスはただのエクササイズに過ぎない。そうだろう?」
「むなしくは、ないのか?」
「それでも肉の欲には勝てない。お前の、その闇を一番知っているのは俺しかいない。お前をかろうじて正常に保ってやれるのは、俺しかない。違うか?」
ジョンは持ち歩いている携帯灰皿を取り出し、咥えていた煙草をその中に消し入れる。
「『大罪』は、お前を精神的に追い込んだ。今のセックス依存に陥っているのはそれが原因だろう。だがな、お前ほどの美形なら、そういう性癖でも、情熱的な女が喜んで股を濡らす。俺とのセックスがむなしいなら、身を固めて、その相手とヤればいい。実際、お前にはファンだってたくさんいるし、出会いもチャンスもいくらでもある。結婚しないのは、親父さんの影響か?」
ユアンは何も答えない。振り向きもしなかった。何もかもがひどく億劫だったのと、父親の問題は彼の中ではかなりナイーブな事柄で、答えたくはなかった。
ジョンは頭の後ろに両手を重ね、やれやれとベッドに横たわる。
「離婚なんて、この業界の親には珍しくない。俺の両親だって、俺が四才の頃に離婚した。お袋が突然ホテルを一人で出て行って、帰ってこなかった。親父が『母さんは死んだと思え』って言ったのを、未だに忘れない。親父の放浪癖にお袋はついていけなかったんだ。だからこそ、俺は親父のように自分勝手はやめて、俺の家族を守ろうと決めた。ユアン、お前もそのうちの一人だ。俺にとっては弟みたいなものだよ」
ジョンのセリフに、ユアンはかすかに笑った。その弟と淫靡な関係を結ぶナンセンスに、彼は気が付いているのだろうか。それともイギリス流の皮肉の利いた冗談なんだろうか、と。
「それに比べればお前の家は離婚してるが、まだマシだろ。親父さんは現役俳優で、お袋さんも、去年他界されたのは残念だったが、いい女優だった。お前が一〇歳までは、マンチェスターの家で、俳優の英才教育をしてくれる、いい夫婦だったんだ。ただ、俳優同士は上手くいかない。その先例の轍を踏んでしまった、多くの組み合わせの一つに過ぎない。親の踏襲をしたくなきゃ、家庭的な素人を選べばいいんだよ。その相手との愛あるセックスが、お前の病を治してくれるさ」
「そうだね。あなたの言う通りさ」
ジョンの提案に、ユアンは軽く頷き、ふらっと立ち上がる。汗と精液にまみれた体をシャワーで流したかった。
思い切りよくカランを回して、強めのシャワーに身をさらす。
頭から夕立のような重い水しぶきを浴びて、ユアンは幼いころの、思い出したくない、でも忘れられない記憶を辿った。
八歳の時に見た、母ではない女性と父との性交。
彼女と父の関係と状況を知った母と、父の冷戦と諍い。
訳も分からない妹と共に母に連れられて過ごしたのランカシャーのハスリングデンでの半年間。
『私は、自分を止められない。そういう人間なんだ』
父の、叫びに似た言い訳……。
自分は、そんな彼の血を受け継いでいるのだと、思い知らされた『大罪』という映画。
思い出は次々にユアンを嘲笑う。認めろよ。お前のその卑しさは、生まれついてのものなのだと。
逃げられない、真実の姿なのだと。
そうじゃない。よしんばそうだったとしても、自分は父のようにはならない。否定する理性と、責め立てる本性の間で引き裂かれた心が悲鳴を上げる。
それを押し殺し、シャワールームの壁に額を当てて、ユアンは強く眼を閉じた。
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