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第28話 日常を演じる①

 切られたクラッパーボードの音は聞こえない。聞こえる前に、ジェラルドはニューヨークの埠頭から、水中に落ちていたからだ。  深い緑に濁る水中で、水を含んだ衣類が重たく彼を水底へ引きずり降ろそうとする。ちょっとやそっとで浮かないようにとポケットの中に入れられた錘は、思ったよりもその効果を発揮していた。  本気で死を覚悟し、ジェラルドはもがく。下水で汚れた海の水を飲みたくはなかったが、溺れる役だから一滴も飲まないわけにはいかないな、なんて飛び込む前の余裕は吹き飛んでいた。薄緑色の水面に自分の吐き出した水泡が塊となって浮かび、代わりに海水が容赦なく鼻へ入る。本能的に空気を求める腕が必死に水を掻いた。  その手を、力強く取る者があった。  水面からの逆光を受けて、金色の髪を揺らした大天使が迎えにくる。  彼を救いあげようとするユアンはジェラルドにはそんな風に見えた。  埠頭の海から上がるための階段にジェラルドは引きずりあげられ、仰向けに寝かされる。ごつごつという石の階段が背中に痛かったが、それを気にしている余裕もないし、状況でもない。  目を閉じて、意識を失っているフリをする。鼻をつままれ、首をぐいっと後ろに引かれると、その唇へユアンの冷たく薄い唇が触れた。  舌が唇と歯列を割って入り、一瞬、舌先が触れ合う。ユアンの舌は軽く戯れるようにジェラルドのそれをからめたが、すぐに空気が送り込まれてきた。  ジェラルドはくらくらと目まいを起こしながら、されるがままになる。本当にこのまま死んでもいい。そう思いながら。 「カット。OK」  だが、監督の声がかかり、ジェラルドははっと目を開けると飛び起きた。海水を飲み込んだことで込み上げてくる嘔吐感に堪えられなくて、身をよじって海に向かって何度も吐く。 「そんなにヘタクソだった?」  口元を軽く拭い、ユアンが尋ねる。ジェラルドは目に涙を浮かべて振り向くと、無理に笑って見せた。 「いや。キスは最高。海水が最低」 「そう。リテイクじゃなくて良かったね」 「されたら俺は明日から下痢と嘔吐で病院行きだと思う」  何度かえづいた後、アシスタントから渡された浄水で口の中を濯ぎ、海の中へぺっぺと吐き出す。再び振り向いたら、すでにユアンはタオル片手に埠頭の上だった。  だるい体を抱えたまま、階段に座り込み、ジェラルドはユアンを見、イギリスでの事を思い出す。  悔しいほど、彼は『普通』だった。  酒に酔った告白。  それをジェラルドは覚えていないなんて誤魔化す気はなかった。だが答えを強要できるほどにも勇気はない。  そして、翌朝のユアンは、そんな臆病さを逆手に取るように、何もなかったようにこれまでと同じ様子で接してきた。当然、ジェラルドの告白に対する答えは一切ない。まるで聞かなかったように振舞う。  彼はその日の内にエージェントとの話し合いで、一時的に帰国ができる手配をつけ、ジェラルドと一緒に午後の便で帰途についた。  飛行機でも、皆が寝静まった中で、ジェラルドは掛けられたブランケットの下にある彼の手にそっと触れてみた。拒絶されるなら、それでもいい。無反応という反応が、ジェラルドの中では処理しきれなかった。  ユアンは拒否しなかった。だが握り返すこともしなかった。決して眠ってはいなかったはずなのに。  拒絶はしないが、答えもしない。かといって受け入れているのともちょっと違う。  そんな彼の態度は、ジェラルドには卑怯に思える。さっきのキスだって、あれは絶対に人工呼吸ではなかった。それなのに、どうしてはっきりと答えてはくれないのか。 「ちぇ…」  口を尖らせて、ぐったりと下を向く。その頭の上から、大量の水が降ってきた。 「何をすっ…!」  慌てて立ち上がり振り向くと、底に残る程度の水が入ったバケツを持ったユアンが立っている。背後にいるスタッフはドッキリ番組の仕掛けを見る視聴者の体で、楽しそうに笑っていた。 「次のテイク行くよ、色男君」 「ああ、わかりましたよ!」  ジェラルドは水の滴る髪をかきあげながら、やけっぱちにそう言った。

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