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第3話

肌を刺す空気の冷たさに、布団を手繰り寄せる。 ざらざらの布を引っ張ったが、妙に重たく引き寄せられなかった。 ぶるぶる、身を震わせ、仕方なく重たい瞼を開けるた。 途端に飛び込んできた部屋の内装に驚き、握りしめた布を慌てて手放す。 「やぁと、起きたの? すぐ飛んじゃうからさぁ。 まぁ、寄り添って服を掴んでた姿は、可愛かったけどねぇ」 大きく口を開け、滲む涙を拭い、こちらへ話しかけてきた男を尻目に、飛び跳ね距離を取る。 …服は乱れていない…。 血が滲む熱を帯びた耳から伝わる痛みが、 これは現実なのだと教えてくれる。 「あー、…それより早く出勤しないと間に合わないかもねぇ?」 男が指し示す先に、ガラス製の時計の針に血の気が引く。 床に転がる鞄を手に取り、至る所に痣を増やしながら出社した。 皺だらけのスーツと無断欠勤をひたすら謝り続け、渡された大量の仕事をへとへとになりながら、 どうにか途中まで終わらせる。 ズキズキ痛む胃の中へ簡単な昼食を押し込んだ。 少しの身動きに、じゃら、じゃら、音を立てる ピアスが嫌でも男を思い出させる。 心底、不愉快で少しの気も休まない。 この最悪な生活が始まった日から、常に入れている応急セットを取り出した。 笑えるほどぼろ、ぼろの両手、ずきずき痛む耳を 消毒する。 箱の封を外し、絆創膏を貼りつけ、ため息を吐く。 あぁ、一体、どうして…、こんな目に遭うのか。  あの日、あんな場所にいかなければ…良かった。 人でなしに、目をつけられることもなく、 ただ、今も健気に帰りを待ち続けて、出迎えてくれるはずだった姿が、思い浮かび、抑えていた嗚咽が漏れる。 親しくもない先輩の誘いをどうにか断って、 店に行かなければ、…あの男に会うこともなかったはずだ。 そうだ、…すべてあのとき失ってしまった。 変わらない日常も、大切な宝物も、…もはや、 どこにもなく、何も持ち得ない。 これ以上、耐えられない、早く取り返さなければ。 美味しいご飯は、新鮮な水は与えられているのか。 …いいや。あんな酷い行いを平気でやるような奴だ。 ニタニタ、醜悪な笑みを浮かべ腰掛ける男がちらつく。 …とてもじゃないが、信じられない。 取り戻そうと必死に思い、考える気持ちと裏腹に、 まるで真っ白な紙、雪へ自分の痕跡を容易く描くように。 踏みにじられては、染まっていく自分の身体が、 気持ち悪く、朝が来るたび、心が折れてていく。 いっそ、このまま目が覚めなければ、いいとすら考えてしまう自分が不甲斐ない。 力強く握りしめた指先が、白く赤が滲む。 定時を大幅に超えてしまったが、今日も退社した 。 男の真似をし空の注射器に、洗剤やハイター、 家庭用の洗剤をを混ぜ合わせた激物を慎重に詰め、男の家へ向かう。 通い慣れた扉を開き、息を押し殺し、つま先に重心をかけ廊下を歩く。 真っ暗な廊下に、僅かに開かれた扉の光が差し込んでいた。 迫り上がる胃液を唾液ともに呑み込む。 相変わらず、何のために付けているのか分からないテレビ前のソファに腰掛ける男は、両腕を組んで、寝入っているのか身動き一つしない。  またとない訪れたチャンスに、興奮し逸る気持ちを押さえ、するする近づく。 男の首へ刺さった針に、歓喜に震える手にすぐさま力を込め、中身を注射し、顔を覗き込んだ。 ……………ち、がう。…やつじゃない!こいつは誰だ! 見知らぬ顔は、青白く息をしていない。 信じられない。…まさか、人違いでひとを、殺してしまったのか? 激しい動機、かた、かた震える指先を伸ばす。 どうにか、顔や肌を確かめていく。 だが、ソファに腰掛けていたのは、ただの精巧に作られた人の感触に近いと、最近、話題になっている人形だった。 ならば、やつは何処に? そう思い振り返ろうとした瞬間、肩に置かれた手、自分の影に覆いかぶさるもう一人の影に、ぶるぶる震えながら振り返る。 「こんばんはぁ。 なぁに、これ気に入ったぁ? あー。ドブみたいな臭いがすんだけどさぁ。 今回も失敗したんだ? 毎日、毎日、飽きもせず、よくやってくるねぇ。 よし、よし。 あぁ!でも、もしかしたら失敗もわざとでしょ …なんてね」 どこまでもふざけた男の胸ぐらを掴み、握りしめた拳を今にも振り上げた。 途端に男が取り出し、ひらひらと左右に振られる写真に、すぐさま男から離れる。 「今日は、特別に謝らないまま、お家に帰っても、許してあげようかなぁ。」 尊大な態度をとりながらも優しい声で、告げられた言葉に思わず俯いた顔を上げ、信じられない気持ちで、男の様子を伺う。 それっきり、男は写真を懐へしまい、何も言わなかった。 とにかく、…男の機嫌が変わる前に…。はやく、この部屋からでるべきだ。 今日は、…失敗の罰を受けなかった。 僅かな喜びと不安からもつれる足で男の前を通り過ぎ、扉の縁へ手を伸ばす。 しかし、それも背後から聞こてきた 「誰か代わりを呼ぶからさぁ」 低くつぶやかれた声に足を止め、勢いよく振り向く。 白々しく写真を左右に振り、あの鍵のかかった扉を背もたれに、弧を描く。 じっとり熱を孕んだ目をした男に転げ、情けなく縋り付く。 「ごめんなさい、…ごめんなさい…、許してください。」 男の足に縋りつき、ひたすら謝罪の言葉を繰り返し、子供のように赦しを請う。 なんて、無様で情けないのか、だが残された道はない。 この男に許してもらうようなことなど、何一つとしてない。 勝手に溢れ出る涙が頰を伝い、床へと落ちていく。 ただ静かにじっとり見下され、かちかち時計の針が進んでいく。 吐き気、恐怖で頭がどうにかなりそうだった。 心臓が煩く主張し、絆創膏が剥がれて血が溢れ出していく。 床に両手をつき、ただ額が擦れるほどつけ続ける。 一体、何が気に喰わなかったのか。 男の言う代わりが、知らない誰かならばどうなろうと知らないが。 だが、もし、もしも…あの子のことだったら…? 男がいつもの醜悪な笑みを浮かべるまで、縋り付き謝り続けた。 「そぉんなに、…俺の機嫌とりたいの? しょうがないねぇ。 これを、自分で3本打てたら、…良くなるかもねぇ…?」 男のポケットから取り出され、床へと放り投げられたものを手に取る。 いやだ、いやだ、打ちたくない。 どうして、こんな目に、遭わなければ、ならない。 「イヤなら打たなくても良いよ。 代わりを呼ぶだけだからさぁ」 必ず打つとわかっているくせに、 優しく語りかけてくる男に、何も言うことなんてない。 静かに服の袖を捲り、さっさと震える手で一本目を打ち込む。 2本目の注射もささっと打ち込み、三本目に手を伸ばす。 「あ~、…待った。 良しって言うまで打つのはなし。 分かったぁ?」 針を刺す寸前、男を見上げる。 ろくにまわらない頭や跳ね上がるような悦び、 チカチカと光る視界の中、ただ男の指示を待つ。 「じゃあ、良し」 途方もないほど長く時間、逸る気持ちで、 覆いつくされた思考の中、ようやく聞こえてきた声に、震える手で上手く定まらない針の先を何度も、失敗を繰り返しながら、差し込み押し出す。 明滅する意識の中、ひらひら男の手を離れて床へ落ちていく写真へ手を伸ばす。 誰にも奪われないように、全身を丸める。 ぐねぐね曲がる手が、男の寝室へ身体を引きずっていく。 手に入れた宝物に笑みがこぼれ、途絶えていった。 クシャクシャと皺だらけの写真が、ちゃんと手の中にあることを確認し、胸をなでおろす。 投げ出されていた荷物を手に取り、裸足のまま廊下を駆け抜ける。 本当は、…あの扉へ耳を当て中の音を確かめたかった。 前に一度だけ隙を見計らい、扉に耳を当てたが、 …何も聞こえてこなかった。 それでもどうにか足掻いているうち、戻って来た男から普段よりも酷い目に遭わされ、 さらには「無事を保証できなくなるかもねぇ…?」耳元で囁いた悪魔の声に試すことを諦めた。 男から鍵を奪うまでは、僅かな心を向けることすら許されない。 噛み締めた唇が、じっとり痛む。 誓いを込め、堪え難い誘惑を振りほどく。 昨夜、振り続いた雨によりできた水たまりを踏み、与えられた真っ白な靴下が砂利や泥水にまみれ、 足裏に何かが突き刺さったまま、痛みも全部、無視し、全速力で走り続け、自宅の扉にもたれて、乱れた息を整える。 あぁ、…良かった…。まだ、無事なのか…。 血や滴る水で写真が濡れないように持ち、なぞりあげる。 ただ、ひと息が溢れ落ちていく。 全身の筋肉が悲鳴をあげ、オイルの切れた機械のようにぎしぎしと音を立てている。 1年前の日付のまま埃被ったカレンダー。 空っぽの冷蔵庫には、余白を埋めるほど貼った付箋と写真で一杯だった。 あの日、そう、あの日に。 もはや、名前もよく思い出せない先輩に、 お気に入りの店があると、馴れ馴れしく肩を組まれ、無理やり連れて行かれた店。 隣に座った女性たちに酒を注がれ、密着した身体をいやらしく眺め、呑み続ける先輩を尻目に渡された酒を一口ずつ、呑み進めていたあの時からすでに、始まっていたのだ。 すぐにでも店をあとにしていれば、 あの男に目を付けられなかったかもしれない…と、 誰かとすれ違うたび、挨拶や名刺を受け取る。 端正な顔だちによく似合う上質な装い、誰もが知る老舗の腕時計がよく映える。 この店のオーナーだろうか、何にせよ自分には関係のない。 ちびちびと酒を飲み進めているうち、目の前に立った男と視線が合う。 深く沈みそうな瞳に吸い込まれそうだ。 そそくさと目線を手元に向け、男から意識を逸らす。 「なるほどねぇ。 ようこそ、さぁ、こちらへどうぞ」 じっとり突き刺さる男からの視線に、背中を汗がつたうなか、踵を返し去っていった姿へ一息つく。 「ありがとうございます!本当に!」 大量の汗に唾を吐き出し、大きく何度も頭を下げた先輩の足取りを見守る。 「おい、はやくこい!」 振り返った先輩の汗ばんだ手招きに、嫌な予感が 駆け抜けていく。 「すみません。今日の所は」 掛けていた上着を着直し、出口の扉へ早足で向かう。 扉の前で仁王立ちする二人の男が邪魔をし、通ることすらできない。 「すみません、…ちょっと」 頭を下げ通ろうとするたび、強靭な肉体にはね返されてしまう。 異常な自体に助けを求め、周囲を見渡したが、 鳴り響く騒々しい音楽に、ほとんど裸に近い踊りへ夢中なのか、誰もこちらに気が付かない。 先輩の姿すら、すでにどこにも見えなかった。 仕方なく、先ほどまで先輩の立っていた場所へ近寄る。 自分の人生には、毛ほども関係ない高級感の漂う扉がずっしりと奥に構えていた。 「お客様。 お連れ様が、この先でお待ちです。 お荷物はこちらで、お預かりいたします」 背後からの無機質な声と笑みで促された先は、あの扉だった。 「すまない、…遠慮しておくよ」 ボーイの横を通り抜け、元の通路へ向かおうと足を踏み出すたび、繰り返される。 「お客様、お連れ様がこの先でお待ちです」 の言葉とともに、鞄を取られ廊下へと押し返された。 じ、じ、腕時計の針だけが進んでいく。 もう、二度と、こんな店には来ない。 じっとり、背中に伝う汗が浸透して嫌な感触だ。 重厚な扉へ手を掛け、ずる、ずる足を踏み入れた。 部屋の中には、どこにも先輩の姿は見えない。 ワインレッドのソファの真ん中に深く腰掛け、 蛍光色の緑が入ったグラスを持つ男だけがいた。 日頃から不平、不満ばかりを口にして仕事や雑用を後輩に押し付け、さっさと退社していく先輩は好意的に思えなかったが…。 この巫山戯た店に無理やり連れてこられた挙句、  明らかに危険な男と、話さなければならない…。 一歩、男へ近づくたび、全身がかち、かち凍えていく。 「ん、あ~、…遅かったねぇ? 君の先輩なら、酔いつぶれて先に帰ったよぉ。 ほら、おいで」 男の背後に置かれた調度品をじっと見つめ、 緩く話しかける男の隣ではなく、隅へ腰を下ろす。 あの野郎、…許せない。 最悪だ、…覚えてろよ、…あのヅラ、剥いてやる。 美人な奥さんに、この店を利用してることも日頃の 行いもすべて話してやる、、。 脳裏に浮かぶハゲ頭へひたすら悪意をぶつけていく。 ひしひしと、感じる粘ついた視線が全身を包み込んで、気色悪い。 「へぇ~、、まぁ、良いか。 オレの名前は道元恭弥。 明日はお休みだって先輩が言ってたからさぁ。 一緒に、たくさん呑もうねぇ。」 今度、人事にこのこと流してやる。 覚悟を決め、用意されたグラスを持つ。 一向に外れない瞳から、逃れるためにも一息に呷る。 鼻の奥を突き抜ける味に、喉がチリチリと焼け、 ズキズキ胃が焼けていくのを感じながら飲み干す。 その間にも男は、平然と2杯目を呷っていた。 近付けられたボトルに、手元のグラスを遠ざけたが、新しく取り出されたジョッキに多く注がれ 音をたてテーブルに置かれた。 「あ~、君の先輩とさぁ。 お互いの大事な物を賭けるって、 約束でゲームをしたんだよねぇ。…それで」 一口ずつ、飲み進めている間も水のように呷り、 空になったグラスを揺らす。 悠長な男の声に耳を傾け、ソファから身体を浮かせた。   「俺が勝った。 で、差し出されたのが君ってわけ、…分かる?」 自分には関係ない、そう思い、首を横に振る。 大体、そんなの嘘だと誰だって、分かるはずだ。 ーーあのハゲ…。  自分の身や家庭を差し出さずに、都合の良い生贄を立て逃げたな。 「ーもちろん。 俺は、嘘つきが嫌いなんだよねぇ…。 でも、君のこと気に入った。」 「だから、可愛い娘さんに、綺麗な奥さんの待つ、 大きなお家へ帰りしてあげたんだけど、 まぁ、そんなの納得できないよねぇ?。」 当たり前だ、誰がそんなこと、…納得できる? 忍び寄る恐怖に、頭が覆い尽くされていく。 手を伸ばした扉は、虚しくガチャガチャ音を立てる。 扉に叩きつけた拳が赤く染まっても、誰も、なにも この部屋に来ない、冗談じゃない。 じっと足掻く様を静観する男が、いつ、襲い掛かってくるのかも分からないまま、逃れられない。 「ひとつ、ゲームをしようか。 もし、勝てたら、条件なしで解放してあげる。 でも、負けたら分かるよねぇ?」 前世の自分は、いったい、どれほど悪いことをしたのか。 決して、こんな悪魔に目をつけられるようなことはしていないはすだ…。 「もちろん、選択は自由だけど、 お家に帰れないのは困るよね?」 胸を張るほど善人ではない、ただの普通の人間で、 日々、働き暮らしていただけだ…。 繰り返し考えても、現実は少しも変わらない。 嗅いだこともない臭いが漂う部屋のなか、 ジョッキから滴る水滴も、ジトジトした視線も、 目の前に存在する。 どす、どす、足音をたて少しでも埃が立つように 腰を下ろす。 「今からショットを5杯、呷って先に潰れたほうが負け。 もし、潰れずに飲み切ったら勝ち〜。 でお互い、潰れなくても君の勝ち、簡単でしょ?」 度数の高い酒を呷り続けているというのに、顔色も変わらない男に勝つ。 たが、このまま悠長に無駄な時間を失うのも、この部屋も、これ以上…ごめんだ。 テーブルに置かれたショットグラスを掲げ、男をみる。 「やる気は十分だねぇ。乾杯」 合図で1杯目を飲み干し、焼けた喉が痛む。 2杯目、熱く荒い息が口から吐き出されていく。 3杯目、くらくら歪む視界に、震える手で上手く握れない。  横目に覗いた男は、酒を舌で転がし飲み干している。 4杯目、熱くてたまらず、どこもかしこも焼けているようだ。 「よしよし。  あと1杯呑めば帰れるよぉ。 ほら、手を貸そうか」 みっともなく震える手で新しく注がれた5杯目を、口元へ運ぶ。 引き結んだ唇を濡らすだけで、傾けることすらできない。 手元から転がり落ちたグラスの中身が溢れて、染みを作る あぁ、…いけない。 はやく、飲まなければ…負けてしまう。 纏まらない頭で、鉛のように重たい身体を動かそうとするが、指先すらまともに動かない。 落ちてしまったグラスを拾い上げ、顔を覗き込む男から逃げ出したくてたまらない。 滲む涙がぽた、ぽた床へ滴り落ちていく。 「いや〜、…ここまで頑張ったのは、なかなか、いないよ。 でも、残念だったねぇ。 君の大事なもの。 取りに行ってくるから、ゆっくり寝ときな」 ヒビの入ったグラスを拾い上げ、立ち去っていく後ろ姿に伸ばした手は、虚しく宙を描いて、床へとぶつかった。 あぁ、…そんな、 はやく勝負を再開しなければ、、。 意識が、風船のように浮かんでは沈んでいき、底に沈んでいく。

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