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第4話

見覚えのない光景に、飛び起きる。 その拍子に身体へ掛けられていた毛布が、床へ滑り落ちていく。 枯れた喉、全身に広がる疲労感、気持ち悪さに、 迫り上がる吐瀉物を押し戻しながら、傍に置かれた鞄を掴む。 扉を開け、真っ暗な店内を走り抜ける。 開かれたままの扉から転がるように家へと足を動かす。 息苦しい、目の前が霞んでいく。 情けなく震える手で取り出した鍵を差し込む。  掛かっていない、まさか、そんな。 「は、」 ひゅ、ひゅ、まるで隙間風のような呼吸に、 手汗が滲み握りにくい、ノブをひねり中へ飛び込む。 いな、い。 どこにも、いない。 いや、…きっと、待ちくたびれて寝ているだけだ。 何度も自分に言い聞かせ、土足でリビングの扉を開く。 「おっかえり〜。 遅かったねぇ。 もう、ここには君の大事なユキちゃんは居ないよ。」 「ど、ど、こに?」 お気に入りの椅子に腰掛け、手慣れた様子でテレビを付け、スマホを触る。 当然のように出迎えた男へ枯れた声を絞り出し、聞く。 とっくに、鞄は滑り落ち、震えながら力の入らない身体を奮い立たせる。 「知る必要ある? ないよねぇ、…だって、負けたんだしさぁ」 はっきり聞こえた言葉に怒りが沸騰し、男の胸ぐらを掴む。 だが気に留めた様子もなく、ただ男の顔には、 醜悪な笑みが浮かんでいた。 「そんなことしてもいいの? 分かってないねぇ、…離せ」 低く威圧する声に、驚き手を離す。 「よし、よし。 初対面でもよく懐いてさあ。 呑気に尻尾振って、足元をうろちょろしてたよ。 かわいいねぇ」 「なん、でも、…なんでも、する。 だ、から…お願いします。 返してください」 見せつけるように開かれたスマホの画面には、 男と共に写り、呑気に寝ている雪の姿に、 膝をつき、両手を組み縋るように男を見つめた。 男に襲いかかるような子じゃなくて、…良かった。 もし、…襲いかかっていたら、恐ろしくて考えたくもない。 心臓の音が煩く、口が渇き涙が溢れだす。 「代わりを連れてこい。 って俺が言ったらどうする」 弧を描く瞳から逃れられない。 がち、がち歯が噛み合う音が遠く聞こえる。 「ーは、…もちろんです。 誰でも、連れてきます。 だから…」 ぐら、ぐら足先から冷えて、揺れていく。 滲む涙が男の姿を覆い尽くした。 「ふ~ん。 じゃあ、そこから飛び降りろ」 遮るように指さされたベランダへ視線を向け、 息を呑む。 ここから、飛び降りて助かる確率は、ゼロに近い。 防犯面を考え、階層の高い部屋を選んだ選択を恨む。 ずるずる重たく覚悟を決め、窓の鍵を開け、外へ出る。 朝の冷えた空気が、肌を突き刺して吹き抜けていく。 手すりから下を覗く、幸いなことに誰もいない。 良かった、…巻き込みもなく1人で終われそうだ。 ブルブル、震える身体で、ざらざらの肌触りをした 手すりを握りしめる。 自分にもしものことがあったらと、両親に雪を頼んでおいて良かった。 深い安堵のため息が溢れ落ち、片足をかけていく。 きっと、痛いではすまないが、…これで、 あの子が無事に帰ってくるのなら。 目をつむり、祈りを込めて足を踏み出す。 瞬間、身体が後ろへ引き込まれ、大きくのけぞり 置かれていたプランターの角へ頭が打ち付けられた。 激しい痛み、衝撃に手で頭を押さえて蹲る。 「もう少しさぁ、命乞いぐらいしなよねぇ。 …馬鹿だねぇ、お前。 久しぶりに楽しめたよ、だがら、次はゲームをしよう。 なんでも聞くって言ったよねぇ?」 呆れたように笑い続ける男に、告げられた言葉へ 足元に縋り付き、何度も頷く。 もう一度、チャンスを与えられるなら、何でもやる。 それが、…他人を傷つけるものだろう、と、。 「来年の今日までに、どんな手を使っても俺を殺しこの鍵を取り救い出せたら勝ち〜。 もちろん。 失敗にはお仕置き、それと2週間経つごとに、 さらなる罰も受けてもらう。 さぁ、どうする」 今まで見た中で一番、反吐が出る笑みで差し出された無骨な手を握る。 なんだって、やる。それはウソじゃない。 「それじゃあ、これ。 俺の家の住所と家の鍵。 それじゃ、最後になにかある?」 「チャンスを、…ありがとう、ございます」 この男を絶対に殺して、取り返してやる覚悟を決めたその日からひたすら命を狙い続けた。 最初のうちは、苦労した。 男の部屋に近づいただけで失敗し、小指の骨を関節ごとに、砕かれた日。 はじめて、寝室に引きずり込まれた日を思い出し、胃の中身を床へ吐き出す。 失ったまま、奪われ、続け耐え抜く日々。 もはや、雪を、取り戻せたところで元通りにはならない。 それでも、足掻いて、藻掻かなければ、、。 袖から覗く緻密な模様を掻き毟る。 垂れた血の付いたラップ、鉄製ハンマーを持ち、 男の家へ向かい隠れ忍ぶ。 やがて、帰宅した男がいつものようにソファへ腰掛ける姿に、少しずつ近付いていく。 何重にも巻いたラップを男に被せ、ぐるぐる巻いていった。 うまくいけ、…早く、…早く、焦る気持ちを抑え、引っ張る。 顔先に突き付けられた血の跡が残るペンチに、 小さく悲鳴が溢れ、力が弱まってしまった。 その隙に、顔面に張り付いたラップを剥ぎ取り、 破片を吐き捨てた男が、近付いてくる。 手を、少しでも後ろへ付き、這いずる。 「あ~、覚えてるなんて偉いねぇ。 よし、よし。 ほら、お手」 倒れ込んだ身体の上へ伸し掛かった男が、間延びした声とともに差し出してきた手に、血の気の引いた青紫色の自身の手を載せる。 しばらくしても、、機嫌良く笑い、なにもしてこない男を怪しみながら手を引くが、びくともしない。 「そういうの、良くないねぇ」 突然、上から降ってきた低い声に、男の顔を見つめ たが、掴まれた手の指から爪が剥がれていき、激痛で暴れる。 「1枚目、「がっ、やめ、」 投げ捨てられた爪が血飛沫とともに床へ転がていく。 ただ、悪辣な笑みで暴れる身体を押さえ込む男に、 床を蹴る。 「にーまい、さんまーい。」 無慈悲でどこまでも無邪気な声が降り注ぐ。 「あれ、もう、剥がせる爪がないね。 しょうがない、わかるよねぇ?」 問いかけてくる男に、荒い息を吐き痛みを押し殺して、隠し持ってきたハンマーを振り上げた。 それすらも、男の手のひらで容易に受け止められ、取り上げられていく。 ハァ、…嘘だ、信じたくない…。 涙で視界が歪み、鼻が詰まり息がしにくいなか、 立ち上がった男から身体が引き摺られていく。 爪もない指先で、床に張り付こうとしても、…無駄だった。 木製のテーブルに手を置かれ、振り上げられたハンマーに目を瞑る。 鈍い音に紛れる軽い音に、どれほど痛みが続いたのかも分からないまま、叫び続け、意識が途絶えていた。 男に抑えられていた腕は、手の痣がはっきりと色づき、ピクリとも動かない。 まるで医師のような丁寧に手当てされた身体を引きづり、帰宅後に出勤する。 デスクに置かれたカレンダーを見るたび、焦りや不安が募る。 会社を異動になり、あの日以来、先輩とも会っていない。 もし、…あの男を殺すことができたのなら、 次は、先輩を殺しにいかなければ…。 どうにかノルマを終わらせ、退勤する。 それからまた失敗、…失敗、…失敗、 成功したように思えたが、…失敗を繰り返し、 心が折れそうになるたび、放り投げられる写真へ縋り付き、また失敗。 気が狂いそうだった、…本当は、もう、どこにも、いないんじゃないか…? もしかしたら、自分のことなんて、忘れているかも知れない、…囁きかける声に耳を塞ぎ、扉を開ける。 もはや、両耳には、隙間なく趣味の悪いピアスが、嵌め込まれ、服の袖を捲ると模様が覗く。 酒瓶を持ち、男の持っているグラスへ注ぐ。 潰れないことは、分かっている、手に入れた睡眠薬を混入させた。 永遠に覚めないでくれ、願いを込め、男がグラスを呷るのを待つが、なかなか呑まない。 やはり、…気づかれただろうか。 重苦しい沈黙に、身体が強張っていく。 「あ~、…じゃ、乾杯」 ようやくグラスを手に取った男が、一息に飲み干し倒れていく姿に近付き、顔を覗き込む。 どうやら、…残念なことに死んではいないようだ。 心底、落胆し肩を落としながら、仕方なく男の外側についたポケット、衣服のなかを探ったが、 じゃら、じゃら粉末やカラフルな錠剤しかなく、 鍵はどこにもない。 男に触れていることが気持ち悪く、鳥肌が立つ手で靴へ手を差し込む。 流石に、ここには何もないか。 手を引き抜こうとしたとした、瞬間、硬い感触を指先で掴んだ。 先走る気持ちを抑え、震える指先でたぐり寄せる。 姿を見せたミニサイズのサイコロが、手の中で、 ころころと、転がるのを眺め、捨て去りたい気持ちを押さえ込む。 再び靴の中へ転がし、男の方へ手を伸ばし近づけていく。 今のうちに手をかけるべきだ…。 しかし、普段から殺そうと狙っているとはいえ、 こんな男でも、命を奪えば立派な犯罪者の誕生だ…。 そうなれば、…もう、雪と暮らすことも、できないまま、殺した男に苛まれ続け苦しむ。 冗談じゃない、…雪を取り返したら、こんな街、 すぐにでも家族を連れ出ていく。 そして、…もう二度と戻らない。 幸せな日々を頭に思い浮かべ、最後のテーパードパンツへ手を伸ばす。 「あ~、…そこはだぁめ」 突然、近づけた指先が掴まれ、後ずさる身体ごと、男へ手繰り寄せられていく。 一体、いつから、起きていたのか。 ニタニタ笑う悪辣な男から目が離せない。 「惜しかったねぇ、お前の欲しい鍵は、こ〜こ。」 白い歯の間に挟まれ光る鍵を取るために、 掴まれていないもう片方の手を伸ばしたが、腰が引けて届かない。 その薄い唇、切れてしまえ、悪辣だけが虚しく響く。 「しょうがないねぇ」 呟かれた一言と共に腰へ男の両脚が回され、引き寄せられていく。 とにかく、鍵を抜き取り、ここから逃げなければ…。 腰に力を入れ、伸ばし指先が男の口に触れた瞬間、指先に激痛が走る。 歯の間に鍵はすでになく、男の歯がぎりぎりと噛み締められ、挟まった指を噛み切ろうとする。 殴りたくなる衝動を抑え、ひたすら男の気が済むのを待つ。 ようやく、離された指には僅かに血が滲み、大きな歯型が浮かび上がり気色悪い。

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